海の国へ(1)
それはエリスが覚えている限り、最初の記憶。
どこから歩いてきたのだろう。どれだけ歩いてきたのだろう。
靄のかかった深い森。肺を染め上げる緑の濃密な大気。
裸足の足が、濡れた草と小枝を踏みしめる。冷たい、痛い、という認識は夢のように溶けていく。
葉擦れのざわめき。獣の声。確かに耳に聞こえていたのに、音としてうまく処理できていなかった。
すべての感覚が、自分のものであって、自分のものではない。
どこを目指していたのだろう。
(思い出せない)
木々の間を歩いていた。
歩きやすい場所を探す程度の消極的な進路選択はあったかもしれないが、積極的に身体をかばうこともなかったせいで、手足は切り傷擦り傷だらけだった。
飛び出た小枝が頬を掠めて痛みがはしっても、歩みを止めることはなかった。
もしあのとき、アリエスが現れなかったら。
半覚醒でまどろむような薄い意識のまま、森の奥をさまよい続けいつか朽ち果てていたに違いない。
「まさかとは思っていたが。そこで何をしている……!?」
その声は現と幻の間隙を突き。
(……たぶん)
たった一年前のことなのに、櫛の歯が欠けるように細部が抜け落ちている。
いつの間にか目の前まで迫っていた大魔導士は、血まみれの手足を見ては嘆き、頬に触れ、何か呪いのような言葉をいくつも吐き出していた。今思えば、悪態をつきまくっていたのだと思う。その時は、それに対して、なんと返したのかわからない。
幻想と明確な意識との境界線は、大魔導士の言葉。
「記憶が、ない……?」
* * *
目を覚ますと、慣れない匂いが鼻をついた。
後に「磯の香り」と知るそれは、山岳部にあるエリスの故国では馴染みがない。ここアレーナスの地には、当たり前に満ち満ちているもの。
海の国。
エリスが寝ていたのは、柔らかで頼りない地面のであった。
(これが、砂浜?)
知識だけで知っている。身体を起こして砂を手ですくってみると、風が吹いてさあっと流れていった。その行く末を目で追いかけると、不意に盛大な煌きが飛び込んできた。
ザザ……ン。
真っ白に泡立つ波と、降り注ぐ光を抱いて輝く海原。
息を止めて、エリスはそれを見た。
ゆっくり、呼吸する。
胸いっぱいに、光と風が満ちていく。
「お師匠様の転位魔法は、本当にすごいんだ……。寝ている間に、隣国まで来ちゃった」
思わず、声に出た。
見回しても、付近には人影がまったくない。どこまでも続く砂浜。
エリスは、膝の上にあった本を手に取り、立ち上がる。
足が、柔らかな砂にとられて、身体が傾いだ。転ぶまいと耐えようとしたが、片膝をついてしまう。
「歩くだけで、かなり消耗しそう」
数歩進んで、勘を掴む。靴が重いのがいけないと気付く。編み上げの皮のブーツ。いっそ裸足の方が歩けるのではないだろうか。思い立って、その場に座り込むと紐をといて脱ぎ捨て、ついでにレースで編まれた靴下も脱いだ。
素足に、砂の感触が心地よい。風が背中に伸ばした髪を軽く弄ぶように吹いた。
ザザ……ン。
寄せてはひく波の音。山間部で暮らしていたエリスにとって、記憶にある限りでは初めて目にする海。心惹かれてしまうのも仕方ない。
(触れてみたい)
エリスは脱いだブーツと靴下の上に、大切な魔法の書を置く。
潜入用に必要になると言われて、転位魔法陣に入る前に身に着けた貴族の淑女のようなドレスのスカートを指で軽くつまんで、海の方へと歩き出した。