序2・女神マルキアと出会うこと
後藤燕ノ介の剣に敗れて首を飛ばされた後、前田寛正は暗闇の中にいた。
意識が遠のいた、というのではなく、まさしく暗闇の中にいるのであった。
確かに目を開けているはずなのだが、上も下も横も真っ暗だった。体には一切の感覚がない。足にも尻にも背中にも触れるものはない。前田は立っているつもりであるのに、足許の感覚はない。
手を伸ばしてみたが、何にも当たらない。
ひょっとしたら立っていたり、手を伸ばしてみたりしているのは、全部前田の気のせいなのかもしれない。
それどころかまだ目を覚ましていないのかも知れない。
そう思うほどに、そこは真っ暗だった。
「誰か! 誰かおらぬか!」
その声は暗闇に虚しく掻き消えて行った。声だけではない。万物ことごとく、行きつく先はこの闇なのではないか。光も何もなく、今己がここにいることすら実感もない、そのような闇が前田の一切を包んでいた。
俺は死んだのか?
後藤燕ノ介との死合いで、俺は首を飛ばされた。そして死んだ。
俺には後藤の三撃目が見えなかった。俺は鍛錬を怠ったことなどなかった。後藤燕ノ介は俺と同い年であった。それでも俺には奴の剣が見えなかった。それが才覚の差であるというのならば、俺は何と無為な日々を送ってきたことか。剣が好きなら好きで、日々の暮らしに不足しない程度に剣術指南でもしておればよかったのだ。
不断の素振りの先にあるのがかかる暗闇であるならば、人生の何と理不尽なことか!
「そうです、世界とは理不尽であるのです」
「何者だ!」
「驚かなくてもよろしいのですよ。わたくしの名はマルキア。人々は女神マルキアと呼んでいるようです」
不意に聞こえてきたその声は、耳元から聞こえるようであり、また頭の中に響いているようでもあった。
しかしマルキアと名乗るその声の正体は杳として知れず、不思議な声は居場所を教えなかった。
「面妖な! 姿を見せよ!」
前田は腰に佩いた刀を抜こうとしたが、そこには何もなかった。それどころか、前田は全裸だった。
「やや、何ゆえ!」
「あちらの世界のものは、あなたの肉体と魂以外には、何物をもこちらには持ち込めないのです」
「あちらや、こちらとは、何のことだ!」
「あなたは惜しくも命を落とされたのです」
前田は恐る恐る、自らの首に触れてみた。そこにはあって然るべきものが確かに存在した。前田が不思議がっていたが、しかしごく単純な論理に至った。
「つまりここは死後の世界ということか。なるほどそれならこの不思議千万なことも合点がいく」
前田は信心深かった。
「あなたは優れた剣の腕を持ちながら、理不尽にその命を散らしてしまったのです。あなたの剣の道はここで途絶える運命ではありません。あなたの剣を失うことは、この世界の損失なのです。我々〈三千世界〉はそのような理不尽を許容しません。そのために、あなたには転生の機会を差し上げます」
「マルキア殿、転生とは何のことでありましょうか」
「一度死んでしまったあなたは、再び元の世界に戻ることはできません。再構成されたその体で、新たな世界に向かうのです。その世界には必ずあなたの剣の腕を求める者どもがいます。その者どものために剣を揮い、そして磨くのです。その先であなたは輝かしい栄光を手にすることでしょう」
なんということか。
一度は死んだはずのこの身が、今再び剣の道を志すことができるのだ。生きてさえいれば、俺は後藤燕ノ介の三撃目に打ち勝つ術も身に着けるかも知れない。いや、次こそ勝たねばならないのだ。
「マルキア殿! 許されるならば私は再び剣を握りたい! どうか私に再びの命を!」
「ならばあなたに光りあらんことを。闇の中を、あなたの望むままに歩きなさい。その先には、きっとあなたの望む世界があるはずです」
その声が終わるが早いか、闇の中に米粒のように小さな光が現れた。
前田がその光に向かって歩き始めると、それに合わせて光は大きくなっていった。
「向こうに辿り着いたら、まずは悪魔イミリアと呼ばれる者を探すのです。その者がきっとあなたの力になるでしょう」
光が前田を包むほどに大きくなった時、前田はどこにいるとも分からない女神に向かって深々と頭を下げた。