序1・前田寛正、十八にして死合いに果てる
まさしく神業。
世に豪剣や美剣と称される剣技はいくつもあるが、奴、後藤燕ノ介の業はどちらでもない。美しく、激しい。
一切の無駄のない見事な太刀筋が目から離れない。 避けねば殺される。しかし一瞬でも長く、この見事な業を見ていたい。そう願ってしまうのは、前田寛正が齢十八といえど剣士であるためだろう。
剣術の極みというべきその業は、かかる殺し合いにおいても、見惚れるものだ。
振り抜いた瞬間、閃光よりも速き切っ先は、音をも斬り捨てる。
世に聞こえ高き後藤・燕流、噂に違わぬその剣技――げに恐ろしきものが天下にあったとは。
目睫を掠めた後藤の剣が、前田の額から転がり落ちた玉汗を切った。
冷や汗を拭う暇もなく、掠めること幾たびに及ぶ。
正午より始まった、この死合い。既に二人の影が延びている。
しかし両者未だに一撃を入れていない。
御前仕合の名の下に、将軍の気まぐれで握らされたのは真剣であった。
真剣による死合い。しかし二人とも剣士としての命は常に懸けている。それが一流の剣士の矜持である。
一人は名門後藤流の白眉・後藤燕ノ介、一人は町の片隅の前田流道場の前田寛正。いずれも齢は十八、いずれも大小の差はあれ流派を継ぐ剣士として育てられた。しかし一人はその才覚によって朋輩どころか天下無双の剣を操る獅子であるのに、また一方は凡才が故に血の滲む思いで這い出てきた野良犬といった風である。それでもこの野良犬は、どんな犬よりも逞しい野良犬であった。
野良犬・前田寛正は、弱いが故に強くなることに憧れていた。
「誰よりも強く優しい剣士」
それが誰の言葉であったかは前田自身覚えていないが、常に胸中いちばん深い所に刻み込まれた言葉である。
優しい事には自信がなかった。礼節は弁えているつもりだった。対して強さとは何と分かり易いものか。
時の将軍御下での国で一番の剣士を決めるという御前試合の報せを受けた前田は小躍りするほど嬉しがった。
勝ち上がれば、誰よりも強い、それは間違いなかった。
そして今、最強の名は残り二人に絞られていた。
ゆらりと、幽鬼のごとく立つ後藤であったが、しかしその構えには一分の隙もない。
後藤の剣は技巧。縦横無尽の剣に、峰などない。
徒に踏み込めば即座に切り刻まれる。ならば前田が打ち込むべき一手は、後藤よりも早く踏み込む、その一事である。
――来る!
一閃。
下段から後藤の刃が振り抜かれる。
退いても受けても即座に二撃目が参る。
だが前田の剣の方が速く到達する。
しかし避けたはずの後藤の剣が前田の左腕を割いていた。
鮮血が迸る。
左腕が持っていかれた。
だが、後藤の剣が振り抜かれ切ったのを見た。
恐れてはならぬ。
いくら後藤の剣が速かろうと、既に奔り始めた俺の突きはかわせまい!
御命戴いたり!
そう思った時既に、前田の首はポーンと空高く舞っていたのである。
見えなかった。振り抜き切ったと思われた後藤の剣は、もう奔っていたのだ。
見事というほかにない。
空から見下ろした御前舞台は、存外狭かった。
侍としての最期に、このような剣豪に出逢えたことこそ、これを幸せと呼ぶのであろう。
後藤燕ノ介、その名前しかと覚えたぞ!
「見ろ! 首が泣いておるぞ!」
誰かが叫ぶのを聞いた。
なんと俺は、泣いているのか?
何故だ。これほどの剣を受けること、剣士冥利に尽きるではないか。
よもや、死にたくないなどと宣うつもりか?
違う。ただ、後藤の剣が見えなかったこと、それだけが、ひどく悔しかったのだ。