恋鼠
屋根裏に住む、ほこりと煤で汚れたある一匹の鼠は、同じ家に住むペルシャ猫に恋をしていた。
鼠が猫を見初めたのは、ちょうど一か月前、当座の住みかとしてこの家に潜り込んだまさにその日のことだった。
亀裂の入ったわずかな隙間から彼女の姿を見た瞬間、鼠の身体に電流が流れた。鼠は無我夢中のまま、一日中、のぞき穴から離れず、むさぼるようにして彼女の耳の産毛から尻尾の先の汚れに至るまで見つめ続けた。彼女がのぞき穴から見えなくなると、まるで体中を虫に刺されたかのように振り乱れ、再び彼女が姿を現すと、涙を流して神に感謝した。鼠はそこでようやく自分が恋をしていることに気が付いた。決して報われぬ恋であった。しかし、鼠はそれでもよかった。彼の中に目覚めた情熱はそれほど強大で、また抑えがたいものだった。
そしてそれからというもの、屋根裏の隙間から彼女の姿をうかがうことが鼠の日課になった。ちょうどそこからは丸いピンクのクッションが見え、ペルシャ猫は一日の大半をそこに座って過ごしていたのだ。
鼠は空腹も感じず、じっと彼女を見つめ、彼女の姿が見えなくなると、目をつぶり、先ほどまでそこにいた彼女の姿を目蓋の裏に映し出しすことで、彼女が戻ってくるまでの灰色の時間を耐え忍んだ。夜になって彼女が寝床にいく頃になってようやく、鼠はその場所から離れ、明日に備えての食事と睡眠を行う。そして、目が覚めると同時に鼠は隙間へと飛んでいき、今か今かとやきもきしながら、想い人が現れるまでの時間を過ごすのだった。
鼠は猫に夢中だった。いや、夢中という言葉では表せないほどに心酔しきっていた。
雪のように白く、綺麗に手入れされた彼女の毛は気品に溢れ、遠目から見ると、毛艶が電灯の淡い光を反射してきらめいて見えた。エメラルド色の丸く大きな瞳で物憂げに窓の外を見る様子は、城に囚われた高貴な王妃を思わせ、鼠の小さな胸を締め付けた。歩く姿さえも優雅で、洗練されており、彼女の足元には真紅のカーペットが敷かれているかのように思えるほどだった。
恋に落ちてから一か月が過ぎてもなお、鼠の想いは冷めるどころか、聖火のようにしぶとく燃え続けていた。しかし、至福ともいえる日々の中でふと、鼠は言いようのない脱力感を覚えることが度々あった。報われぬ恋であることは重々承知している。それでも、彼女と自分の立場の違いを考えるたびに鼠のひげは稲穂のように垂れた。鼠と猫は、種という垣根とともに、品位、容貌の点で大きくかけ離れていたからだった。彼女が庭園に咲く白薔薇ならば、鼠は河川敷に生えた枯れかけのドクダミだった。彼女が磨き上げられた真珠ならば、鼠は道路にまき散らされたカラスの糞だった。彼女が宙を舞うアゲハチョウならば、鼠は地面を這いつくばる尺取虫だった。
鼠は薄汚れた自分の肌を憎んだ。みすぼらしい鼠に生まれたことを呪った。叶わぬ恋を仕組んだ神を恨んだ。それでも、鼠は恋情だけは捨てきれなかった。
(俺は彼女を遠くから眺めるだけで幸せだ。しかし、俺もいつかは死んでしまう。決して長生きはできないだろう。近い将来、じめじめと湿ったこの屋根裏で、誰にも看取られることもなく死んでいくことなどわかり切っている。もちろん今さらそんなことは気にしない。しかし、いつかそうなってしまうくらいなら……)
ある日、鼠は思索に思索を重ねた末、一つの結論に達した。
(せめて、彼女に食べられ、彼女の血肉として生まれ変わりたい)
鼠は本気だった。恋は人を盲目にするほど幻惑的であり、また鼠の生存本能を叩き潰すほどに暴力的だった。
鼠は住みかとしていた屋根裏から離れ、家の中へと降りて行った。いつも行き来している台所に向かい、あたりを物色した。もちろん、最後の晩餐にありつくためではない。鼠は冷蔵庫の上に放りっぱなしにされていたバターを見つけた。シンクの滑りや火にかけられたままの銅鍋に注意しながら、慎重にその場所まで近づいていった。そして、小さな手いっぱいにバターをつかみ、それを自分の灰色の肌へと塗り始める。それは想い人に会うに際しての礼装であるとともに、自分を食べる彼女に対する気遣いでもあった。
バターを塗り終わった鼠はすぐさま猫がいるはずのクッションへと走り出した。鼠の小さな心臓は張り裂けんばかりに鼓動していたが、それでも鼠は立ち止まろうとはしない。いや、立ち止まることができなかった。
鼠がついにクッションソファのそばにたどり着いた時には、呼吸は乱れ、額にはうっすらと汗が流れていた。猫がこちらに背を向けてくつろいでいた。まだ、自分の存在に気が付いていないらしい。鼠はどうしていいのかわからないまま、改めて彼女の身体を観察した。毛並みの良い白い毛、丸みを帯びた腰のくびれ、そして、屋根裏にいるときには気が付かなかったが、彼女からはうっすらと香水の匂いがした。鼠の身体は狂喜で内側から震えた。鼠は先ほどまで呪っていた神の足元に身を投げ出し、その足の甲に口づけをしたいとさえ思った。今から自分はあの美しい存在に食べられ、彼女とともに生き続けるのだ。鼠は自分の気持ちを落ち着けながら、ゆっくりと猫の正面側へと回っていく。そして、半ばほど進んだところでついに、猫は何者かの気配を察し、振り向いた。鼠と猫の目が合う。猫の澄んだ緑色の眼球に、自分の姿が映る。永遠とも言える、一瞬の沈黙が天使の姿で二人の間を通り過ぎていく。そして、その天使の姿が見えなくなったとき、猫は悲鳴のような鳴き声を上げ、鼠から逃げるようにしてその場から走り去っていった。
鼠は最初何が起こったのか理解できなかった。しかし、角を曲がり、猫の姿が見えなくなってようやく、自分が恋に破れたことを知った。それも拒絶という最悪な形で。鼠には死を恐れない勇気があった。薄暗いじめじめとした場所で生きていくしぶとさがあった。しかし、胸を突き刺す悲恋の痛みもに耐えるほだけの精神的強さは持っていなかった。
鼠は泣くことすらできず、呆然自失の状態で元来た道を戻っていく。台所へとなんとかたどり着いた時、ふと綺麗に磨かれたシンクへと目をやった。そこには、バターの油分で不潔に照る自分の姿が映っていた。まるでゴキブリのようだと鼠は思った。
自分はどうして、これほどまでに醜いまま、のうのうと生きてこれたのだろう。鼠の頭にそうした考えが浮かぶ。そして、鼠のすぐそばには、火にかけられたままの銅鍋があった。その中は沸騰したお湯で地獄のようなありさまだった。
鼠はじっと沸騰した湯を見つめる。
そして、吸い込まれるように、その中へと飛び込んでいった。