8本目 転職は、お早めに。
『巣端さんだって転職したいと思いません?』
約8分前に、私の上司である『穂刈 撰泰』警部補が覆面パトカーの中で仰っていた言葉が、脳裏に浮かんだ。
その上司は現在、約10m先の夜風で冷えたアスファルトの上に沈み、ピクリとも動かない。
時刻は、午前2時を過ぎていた。
巷で人気のレストラン『モスコミュール』付近を警ら中に怪しい人物がいた為、無線を入れてから職務質問を。とかなんとか思っていたら、穂刈のバカが一人で行ってしまった為に、この有様である。
さっさと職質を済ませたかったのだろうか。先程から弱音ばかり吐いてたな。
「あのバカ…。」
すっかり夢の世界へと飛ばされた後輩であり上司である穂刈をよそに、私――『巣端 梨花』は、少しため息を漏らし、長髪を結った髪を右手で触り、左手で腰部に携えた53型警棒に手をかけながら、上司を仕留めた“人間”の元へと歩み寄る。
「警察だけども。何したかわかってる?」
警告を加えながら、ゆっくりと。いくら小柄な穂刈とはいえ、男性を容易く気絶させたのだから油断ならない。
念には念を。男から5m辺りのところで、歩みを止める。
「公務執行妨害。意味、わかるよね?」
男へ恫喝の様な言葉をかけるが、不思議な事に身じろぎ一つもせず、ただ仁王立ちしている。この場合、逃げ出すのが普通だが、警官相手にガッツのある男だ。
男の特徴は黒ずくめの服装にバラクラバ。背丈は180cmくらいで、がっしりとした体型。ラグビーか柔道でもやってたか。
足元には男の黒いリュック。街灯の光に照らされ、生地が不自然に突っ張っている。バールでも入ってるのか。
既に応援は手配済み。さっさと逃げれば良いものを、男はこちらへ少しずつ近付いてきた。
「歯ァ、食いしばれっ!」
不安で揺らいだ足元に喝を入れるように叫ぶと、私は警棒を引き抜き左手首を振った。威圧的な金属音を立てて展開された警棒をよそに、私は相手の右脇腹目掛けて叩き込んだ。
鈍い音が耳に届く前に、更に追撃。首筋目掛けて警棒を振り下ろす。マル暴時代に嫌でも教わることになった、面倒な相手を“大人しく”する方法。
正直、この一連の対応は始末書モノだろうが、殺す気で行かないと。
私が死ぬ。
「ォラアッ!!!」
首筋に直撃。以前から貧弱で評判の53型警棒が曲がる程の一撃を見事に届けた。
そして男もこれには堪らず、地面に膝を――、ついていない。
それどころか、先程の様に仁王立ちしている。嫌な予感がした私は、咄嗟に間合いを取ろうとしたが、直後に身体へ強い衝撃を受けた。
突き飛ばされたのだろう。男は右腕を突き出したまま、相変わらずの仁王立ち。だが、私の身体は地面を滑るように転がった。5m程か。クルマに撥ねられた様だった。防刃ベストを着込んでるとはいえ、身体中に痛みが走る。
「ゥッ…、っりゃぁ!」
這いつくばる状態から身体を起こし、痛みに耐えながら警棒のある左腕を振る。打ち下ろす先は、微かに手ごたえのあった脇腹。
しかし警棒の先が脇腹に入る前に、腹部に痛み。おそらく膝蹴りを入れられた。そして反射的に前かがみになり、無防備になった頭部に――。
ほんの2秒だけ、意識が飛んだようだ。
倒れ込む衝撃で目が覚める。同時に、真新しい痛みも戻る。顔面を殴られた様で口の中は熱く、鉄の味がした。
その匂いと味に思わず咳込み、口に溜まった熱い液体を吐き出すと、それが初めて血だと分かった。
「ほんっと、転職したい…。」
動かない上司に返事を返す様に吐き捨てつつ立ち上がると、私は最後の手段に出る事にした。
拳銃。どんなに酷い人間も、地位のある人間も、鍛え上げられた肉体を持つ人間も、この道具の前では平等になる。引き金を引けば、そこでおしまい。とても便利な夢の道具。
私は、少し間合いを取りつつ、慣れた動作でP230自動拳銃をホルスターから引き抜くと、間髪を入れずにスライドを引いて初弾を装填。威嚇射撃なんてしていたら、殺られると思った。ただ、ただひたすらに怖かったから、引き金を引いた。
が、一瞬で間合いを詰めた男は、伸びた私の右腕を抑え込む様に上へと曲げた。
銃声。
殺意を込めた弾丸は、夜空へと放たれる。
そして男は力付くでもう一度、拳銃を固く握りしめる前腕を伸ばすと、右の拳を振り下ろす。
鈍い音が響くと、自分でも驚くほどの叫び声が飛び出し、握られた拳銃が地面へと落ちる。
あまりの痛みに耐えかねて、私は後ろへ後ずさりしながら転倒した。スーツのジャケットの袖越しでも手と腕の位置がずれているのが分かると、より重い痛みが私を襲った。
苦しい。痛みのあまり、呼吸が上手く出来ない。耐える為に唇を噛み締め、男の方を向くと、目が“笑って”いた。
おそらく、人間の一人や二人を容易く殺害出来るであろう怪力。なのに、私をすぐには殺さない。
――私を嬲っているのか。
舐めやがって。
「こんの、野郎がァ!」
顔をあげ、空いた左腕を振りかぶり、男に一撃を入れようとしたが、容易く躱されると突き飛ばされた。身体が宙を浮き、路上駐車されていたバンの側面に身体を打ち付ける。
もう一度。怒りに身を任せ、立ち上がろうとした時、破裂音と共に左脚に何か違和感を覚えた。
「な、にこれ…?」
急に全身の力が抜け、その場にうつ伏せで倒れこんだ。何が起きた。かろうじて動かせる首を向けると、男が拳銃を握っていた。
先程、私が落とした拳銃。左脚の痛み。
撃たれた。
焼ける痛みで飛び出しそうな叫び声を、口を閉じて唸り声にした。
うつ伏せのまま左腕で左大腿を渾身の力で抑えるが、傷口から湧き出る生温かいモノが、履いているパンツスーツを濡らしていく。
撃たれた。もう駄目かもしれない。
応援はまだなのか、何してんだ。
恐怖や痛覚で、感覚や意識が狂い始めたその時、服の襟を掴まれた。そして上体を無理矢理起こされると、額に冷たい物を当てられた。
目前には男の右手。そして、握り込まれた見覚えのある黒いモノ。それが拳銃だと分かった途端に恐怖に呑まれ、苛立ちや痛みも全て遠ざかっていく。
引き金を引けば、そこでおしまい。
これで二階級特進か。
葬式、誰か挙げてくれるかな。
男の人差し指が動き始めると、破裂音が鳴った。
倒れ込み、しばらく放心状態だった私の視界に、拳銃と何かが落ちてきた。
「痛えぇ…!?」
知らない声。私を殺した男の声だろうか。
それよりもだ。私は生きている。撃たれたはずなのに。助けが来たのか。
「ヒューッ!間に合ったな!」
もう一人の知らない声。応援にきた奴らだろうか。
希望的な憶測で視界がハッキリと戻ってくると、拳銃とと共に落ちてきたモノが、十円玉だと分かった。楕円形に歪んだ十円玉硬貨だ。
「バッター、お巡りさんに代わって〜!」
知らない声は言葉を続ける。場違いにも程がある、明るい男の声。
その面構を一度は拝んでやろうと、頭を声の鳴る方へ向けると、別の男と目があった。
「代打ァ、オレ。」
そこにはパーカーを羽織った、頼りないカカシが居た。血管を浮き立たせた、とても醜い顔をしたカカシが。親指を立てて。