六話
風呂あがり、濡れた頭をがしがしとタオルで拭いて、冷蔵庫に入れていた水を飲む。冷たすぎて喉を通るときに痛くなるが、体がほかほかしているところにぬるい水など興ざめだ。
ソファにどっかりと座って思い出すのは昼のこと。
会長を送った先で賢治は凝視された。ペンギンが仲間だと思って近づいたら人間で、驚き硬直するのにも似た反応だった。ペンギンよろしく、凝視していた連中もすぐに距離をとったが。
賢治は気にしないが、普段人集りの中心にいる会長はどうなのだろうかと思えば、会長も気にした様子はない。気軽に賢治へ話しかける姿に誰かが「ばんなそかな」と呟いた。混乱し過ぎである。
教室まで着いて「じゃあ、また」と別れようとしたところで現れたのは風紀委員長。会長と同じクラスなのだから当然と言えば当然だ。
顔を見るなり怒鳴ろうとでもいうのか、口を開いた風紀委員長は会長を見てゆっくりと口を閉じると「あんまり校内でやんちゃしちゃだめヨ?」と明らかに動転しながら告げて教室へ引っ込んだ。会長を窺っても涼しい顔をしていて、この前の荷物検査といい、風紀委員長は案外普段から情緒不安定なのかもしれない。
今度こそ会長に片手を振って戻った教室、前の席には「主人と席の再会を祝して」とトイレットペーパーと折り紙で作られた立派な記念碑が設置されていたが、賢治は気にせず自分の席に戻る。
クラスメイトが「会長と仲いいのか?」とか「会長とデキてるのか?」とか訊いてきたが、腹一杯の午後というお昼寝妖精による暴虐に晒されていた賢治はろくに返事もせず机に突っ伏した。ぷすーぷすーという寝息に「マジかよ、会長だぜ?」とか「おいおい、そいつはよくないぜ」とか返すクラスメイトがいたが、恐らく、いや、確実にひとの話を聞かずに自己完結する類の人間だろう。
午後の授業を睡眠学習に充て、飯食って風呂入って恙無く今日も終了間際。Tシャツの襟を引っ張って風を送り込んでいると、携帯電話がメールの受信を告げた。
なんの気なしに取り上げた携帯電話、送信元に賢治はまばたきし、本文に鼻水を吹く。
「『寂しいな』じゃねえよ」
会長からのメールであった。「(/ω・\)チラッ」という顔文字がついている。
賢治はティッシュで鼻を噛んでから立ち上がり、寮の自室を出て行く。同室者がいればこんな時間に出歩くとなれば囃し立てられるのかもしれないが、人数の都合上、賢治は一人部屋だ。
他人がどの部屋に住んでいるかなど賢治は殆ど把握していないが、生徒会、風紀委員、学年首席などの学園に貢献している生徒は特別室を与えられているので特定することは簡単だった。一般生徒の出入りは歓迎されていないが、部屋の住人からの許可があれば問題ない。
ただ、風紀委員長にでも見つかれば面倒くさいなと思いつつ、幸いにも誰に接触することもなく辿り着いた会長の部屋。インターホンを鳴らせば直後ドアが開く。待機していたのだろうか。
「待ってたっちゃ」
「待たせて悪いっちゃ」
「そんなことないっちゃ、入るっちゃ」
「お邪魔するっちゃ」
風呂あがりなのは会長も同じなのだろう。いつも適度にセットされた髪が重力に従順な姿を見せている。唇や目元も赤く、こいつはほいほい外に出しちゃなんねえという仕様だ。
じろじろと見ていると会長が「なんだ」と怪訝な顔をするので、賢治は直情的に「エロい」と返した。会長は眉を上げると、出かけるときの最終チェック用なのだろう、玄関先の壁に掛けられた鏡を覗き込み顎をなぞった。
「こういうのにグッとくるのか。案外ベタ好きか?」
「いや、どうだろうな……」
「よし、今日は恋バナでもしよう。布団は床に敷くから仲良くひそひそやろう」
「え、俺泊まるの確定?」
「俺を置いていくのかっ?」
なにそれ信じらんないとばかりの勢いに賢治は「そ、そないなことないで」と首を振る。「だよな」と会長はいつもの調子で頷き、賢治に「なにか飲むか?」と言いながら冷蔵庫のほうへ向かう。
「カルピスとカルピス桃とカルピスぶどうの原液があるぞ。あとセンブリ茶」
「クソ甘いかクソ苦えの二者択一かよ」
「キンキンに冷えた原液は価値観が一変するぞ」
「そんなんで一変する価値観って嫌なんだが」
「我侭さんめ」
「これ、俺が我侭なのか?」
結局、会長はカルピスをちょっぴり濃い目に割ってくれた。カルピスウォーターとは違う味わい。やはり、カルピスは原液を希釈するに限ると賢治は思う。
会長は「寛いでろ」と言うとほんとうに床へ布団を敷きだし、枕をぼふぼふと膨らませている。そば殻枕愛用の賢治には物珍しい光景だ。
「今夜は寝かせないぞ」
「明日遅刻したら会長が寝かせてくれなかったって言ってもいいか」
「構わんが」
「マジか」
会長の心は広い。いや、そもそんな言い訳が必要になるのは会長のせいなのだが。
寝るまでの少しの間、会長と並んでカルピスを飲む。賢治は朝食なにが食べたいか訊かれ、当たり前に作ってくれるつもりの会長に驚いた。
「いいのか?」
「おいおい、招待しておきながら放置するとかホストとして最低最悪だろ。そんな奴がいたら全身の毛穴から謎の液体垂れ流して死んだほうがいい」
「そこまで罪深いかっ?」
会長のおもてなし意識はやや過激派寄りだった。
朝は食堂に行く時間を睡眠に当て、カップ麺で済ますことも珍しくない賢治は久しぶりに真っ当な朝食を食べられそうだと真剣に考える。だが、賢治には料理のことが分からない。賢治は実家では母ちゃんに、学園では食堂と会長に作ってもらっている。授業を寝て過ごし、休み時間には煙草を飲む日々に料理レシピは不要であった。クズと謗る人間もいるだろう。否定はできない。けれども、考えなしにリクエストしたものがクソ面倒な手順や材料が必要だったら申し訳ないと思うくらいには良心備えた気遣い屋さんである。
「……会長のおすすめで」
「俺のおすすめか。アマゾンの奥地に生息するというドゥルドゥル鳥のどぅるどぅるした肝臓を……」
「やめろ」
「冗談だ。素直に食いたいものを言え」
「あー……なんか手軽に食べられるやつ」
結局は大雑把過ぎるリクエストになった。
幸い会長は困った顔も見せないで「了解だ」と親指をたてる。なんとも頼もしい。
着替えも持ってきていない賢治はどうしても一旦自室に戻らなくてはならないため、いつもより早起きが求められる。必然、床に入るのもいつもより早く、会長と隣り合って布団に潜り込むのはすぐのことだった。
「で、恋バナなんだが」
「マジでやるのか……」
「初恋いつ? 誰が相手? どんなのが好み? 好みとは別に今まで抱いてきたのどういう系が多かった?」
「根掘り葉掘りってレベルじゃねえぞ」
態々布団を頭まで引き上げてこそこそ訊いてくる辺りに会長のこだわりが窺える。賢治は一応質問に答えたが、誰が得するのだろうかという気持ちは拭えない。
「会長はどうなんだよ」
自分ばかり答えるのもと思い、問い返せば暗がりで会長がもそ、と身動ぎする。
「なんやかんや律儀でノリが良くて、案外ひとも好さそうな奴が好きだ」
つまりは取っ付きやすい人間ということだろう。会長のような人間には色々と腹に一物抱えていたり、打算を含めて媚びを売る人間が多いだろうから、そういう人間を求めるのかもしれない。
「でもそれ、恋人じゃなくてもいいんじゃねえの」
恋人ではその関係を続けるのは難しいのではないだろうか。友達なら、と考えた賢治に会長の小さなくすくすという笑い声が届く。
「恋人じゃなくちゃ、嫌なんだ」
ふと、賢治の脳裏にドアを開けて出迎えたときの会長が過る。
いまの呟き声は、それくらいエロかった。