イカレた私。
生きるための、居場所を探していました。
深夜0時過ぎのネットカフェ。
無機質なキーボードの音が個室に響く。
こんな出来損ないの人間を包み込んでくれるのは、このリクライニングシートだけ。
私は夢や希望などという奇麗なものは持ち合わせていない。
否、或いは、かつては存在したのかもしれないが、既に私の元にはいない。
ちいさなバッグがはち切れるほど、どうでもいい荷物を詰めこんでいる。
中に何が入っていたのか、私は思い出せない。
限りなく、世界は可能性に満ちているというのに、私といったら、なんだ。
なんだ、この有様は。いっそ、思い切り、誰かに笑ってほしいものだと思うのだ。
母は何も言わぬが、その無言とやさしさが、何より私の無力を責め立てる。
父は私のことを欠陥品と認め、まるで休日にペットで遊ぶがごとく構ってくる。
二つ歳の離れた兄といえば、最初は出来損ないを憐れむように私を見ていたが、今では目にもくれないようになってしまった。
そんな家で、私が自由を感じられるはずもなく、私は夜中に逃げ出したのです。
既に枯れた涙は出ない。12月の寒空の下を、どれぐらい歩いたか、たどり着いたネットカフェの心地よさ。
ふと、我に返り、己について己に問い質せど、このまま瞼を閉じて、眠り、二度と目覚めたくないという答えしか返ってこない。
私は、温室育ちの、欠陥品である。
ぬくぬくと、優しさと、適度な厳しさの中で育ったにも関わらず、欠陥品だ。
こればかりは、周りを責めることはできない。
なぜならば、私はとても恵まれた環境で育ったのだから、何を責めることができようか。
結果として、こうなってしまったのは、全てが己の責である。
むしろ、さまざまなものを与えられたにも関わらず、何も返せない人間を名乗るのもおこがましい人間だ。
私には、出来過ぎた環境でした。
何度も、己の中で、誰にとは言わぬが懺悔を繰り返しました。
家族が寝静まった頃合いを見計らい、こっそり、声も出さず涙を流しました。
嗚咽を堪え、醜く赤子のように布団に蹲り、頭皮から血が出るほど髪の毛をむしり取り、静かに狂っていったのです。
私は、病んでいるのです。
そう、イカレている、とびきりタチの悪い病です。
病名は、なんだったか、思い出せません。
ああ、病名が多すぎるのです。病気の名前だけで、いくつあったやら。
忘れてしまうのは、解離というらしいです。
そして、強迫概念、不安に緊張、自律神経が、アスペルガアだ、えーでぃーえいちでぃーだと、そう、あと、そううつも、そう、お医者様がおっしゃっていました。
そううつ、いや、幻覚と幻聴は?ああ、貴方はまた、オーバードーズをしました。
笑っているのです、私が。いいえ、違います。私ではありません。
気狂いをおこしたかのように、私が笑っているのを、私が見ているのです。
それはとても異様な顔をしていて、泣いているように、嘆くように、笑うのです。
まるで、そう、表しきれぬ感情を吐露するかのように、激しく、悲しく、笑うのです。
何を話していたのか、忘れました。
忘れて、ああ、そう。私は文章を書いていて、話が脱線しました。
この場合は、そう、閑話休題というのでしたか。
私が今まで生きてきた中で、顔を覚えている人間は、家族のみです。
ああ、かろうじて、かろうじて親戚も何人か、覚えています。
けれどなんでか、友達や知り合いの類は、いたような気がするのですが、てんで思い出せない。
それがひどく悲しく、思い出せぬ記憶をたどればイラつきが生じ、私は狂う。
今、ああ、紹介したかしら、と首をひねっています。
私は、いま、十八の女です。ああ、でもね、女といっても男のようなので、気にしないでほしい。
性別の概念が、いまいちわからないのです。私は、男にも女にもなります。
そして、恋愛対象もまた、両方いけますよ、なんて聞いちゃいない?ごめんなさいね。
でもね、愛されたことのある私ですが、誰かを愛したことなんざないのです。
愛そうとしたことは、何度もあります。こう見えて、気遣い上手なので、私は、それなりにモテましたよ。
でもね、付き合って数か月もすれば、相手から手を離されるのがおちです。
なんでかって、それは私が相手を愛せないからですよ。
愛せないというのは、悲しい。
こころが、いつまでたっても満たされない。
純粋なまま、歳を重ね、求められる重圧に、耐え切れず狂う。
ああ、私は純粋ではありませんが、違う。歪んでいるのです、いびつです。
「苦しいよう、悲しいよう、空しいよう」と誰に、誰に訴えれましょうか。
親は、無理でしょう。となると、私には何もない。誰もいない。
ああ、ああ。呑まれます、そう黒色と灰色が、まざった渦巻きです。
「まいりました、まいりました」大きい目がふたつ、こちらをのぞきます。
口のような、三日月のかたちに、笑っている、そう、逃げられるはずもない。
こうして、私はおぼれます。
言の葉に、表せない感情が、激情が、渦巻く闇に、呑まれます。
悲しい、苦しい、そればかり。しくしく、しくしく。どくどく、血の流れる音。
ぼうぼう、そう、一度だけ死のうとしたことが、ありました。
マンションの四階まで、何かに追いかけられて、いま思えば、あれは幻覚。
五年以上前に、私は飛び降りました。二か月以上も、入院して、全身麻酔の手術をして、周りのひとが、たくさんきました。
私にとってのたくさんは、あまりたくさんではないですが、それでも知ってる人はきました。
当時の、中学校の先生も、きました。
夜中に、学校に連絡がいったのだと、あとから聞きました。
ああ、心配してくれて、嬉しいはずなのに、あのときの私は、何も考えれませんでしたので、いまでも、なんとも他人事に考えてしまっている。
誰かに迷惑をかけてしまっている、ということは、わかりました。
そう、いま思い出しましたよ。
私はね、その数年後に、もっぺん、今度はちゃんと死のうと計画を練ったのです。
半年前にね、夏の暑いころでした。冬になったら、寒い地域にいって、凍死してやろうとね。
眠剤や、リットルのペットボトルのお水をこっそりとためていました。
でもね、結局私は、いま生きてる。なんでかって、そりゃ私が聞きたい。
電車に乗ったのは覚えているんですが、そのあとの記憶がまるでありゃしない。
それを医者に報告した私は馬鹿正直です。そう、阿呆です。笑ってください。
保護室にね、何週間か入れられました。ああ、精神科に入院なんてものは、もう十歳より前から経験してますから、もう触れなくても、いいんです。
それでね、おそらく、ほかに私がいて、その人格のせいじゃないか?もしくは、解離ではないか、というんですよ。
覚えてないのに、地元に戻ってきたというのが、また悔しい。
まだ、幼かった。いや、今も幼いと言われれば、反論の余地はありません。
でもね、まだ十六だかの、まだ二年前だって?ああ、なんてこった。
そのときは、まだ、生だとか死に、執着がありましたとも。
でもね、今では何も感じないのです。
生きていようが、死のうが、己のことなど、どうでもいい。
母が生きろというから、生きているようなもの。
今も、家出という名目で、そう、少しばかり朝まで、朝になったら、また帰ります。
そしてまた、自己について、問い始めます。
母は哲学的なことが、てんでダメなひとで、でもとびきり優しい理想の母です。
私のいうことは、理解してもらえない。それがもどかしいばかりですが、優しい母。あたたかい。
そう、母は料理が苦手ですが、オムライスは絶品だ。卵はうまく包めてないが、あの味は、大好きなのです。
あと、そう。卵焼き、私は卵が大好きで、海苔をはさんで焼いてくれる、あたたかい卵焼きとごはんが、とびっきり大好物なんです。
私は、こうして筆をとれば素直になるが、言葉にすると、まあ、天邪鬼です。
素直に言えないこと、母は気づいているのか、わかりません。
でも、鈍感な母ですがね、私はね、マザコンなんですよ。母が好きです。
父もね、私のような年頃だと文句も多いけれど、休日は本屋に連れて行ってくれたり、昔は厳しかったのに歳を重ねて柔らかくなり、積極的に、私に構ってくれる優しい父です。
兄、兄はね、昔は殴られたりしましたが、今は小説や漫画で気の合う話をね、ほんのたまにしてくれる。そのときが、嬉しくてたまらない。ああ、そうか、私は、幸せなんだ。と、感じさせてくれます。
でもね、私はやはり、そう。イカレている。
こんなに幸せだと、何も持たない私が、異端、異質に思えてしまう。
自己否定、自己嫌悪、ああ、ああ、呑まれます呑まれます。
「考えなくていい」と、優しすぎる人たちに囲まれる、嬉しいこと、幸せなこと。
それが、それが、私の無力に、棘となり、ささる。
「いたい、くるしい、ごめんなさい、むなしい、ごめんなさい、ああ、ごめんなさい」
くすりが、たらねえのか?と、向精神薬をね、すりつぶして、いんすたんと味噌汁に入れてまぜて飲みます。
かなしい、こういった文章をかいていると、涙がでます。
私は感受性が高い。影響をうけて、涙を流したり、笑ったり、嘆いたり、怒ったりします。
何が言いたいかって、私の今の場所は、居心地が良すぎて、生きてられません。
こんな過ごしやすい場所で、私は生きてられません。
なので、ああ、どうしましょうね。
二十になっても変わらなかったら、また、考えましょう。
私は、たしかにイカレてますが、忍耐だって、きっとできましょう。
だって、幸せですから。悲しい幸せで、空しい幸せで、満ちていますものね。
嬉しいですよ、家族から慕われていること。
でもね、ああ、なんでもありません。
また、また語るときがあれば、そのときは、今とは違うでしょうか。
ひとは、過去や未来を憂うばかり、いまを理解していない。
私も、そうなのでしょう。