ノイズ
10月3日 午前4時20分
念のためセットしておいた2つ目のアラームが鳴った。
2つ目はデフォルトのアラーム音ではなく、現場監督専用の通知音に設定したのはいいアイデアだ。体が芯から反応した。起きる分には申し分ないが、心臓がギクッとなってちょっと体に悪い気がする。
まぁ、どうせ5日くらいで慣れてしまうのだろう。
ついこのあいだ寝坊して二回りくらい年下の現場監督に強めに言われたのが効いたのか、効いてないのか、ともかく遅刻しない範囲で目覚めた。
寝てるあいだに貯まったAPを使い切るために布団のなかでぼぅっと顔を青白く光らせる。現場に入るとしばらくはスマホは触れない。イベントも佳境に入った。今のうちに消費しないと休憩に入る時にゲージが一杯になって、もったいない。若いヤツらは仲間内でうまく立ち回ってサボってるつもりだろうが、オレは知っている。監督も分かってるんだろうが、たださえ少ない社員にやめてもらっちゃ困るからか、歳が近いからか、特に何も言わない。そのくせ俺には小さな失敗を見つけては、噛みついてくる。
起き上がってタバコを吸ったとき、おととい足場作りの現場ではさんだ薬指がぴくぴく震える。それにつられて中指が動くもんだから、灰が布団の上にふりかかる。息でふっとすると吹きとんだ。
テレビをつけて天気予報を見る。午後から降水確率が80%か。雨で午後の作業が中止になれば、材料の積み下ろしと作業員の送迎を入れても、実質的に半日作業で日給がまるまる貰える。それからどうしようか。打ってみたい台がある。ロングのタバコを買って、中華料理屋でスタミナセット食って、それから家に帰って、それから・・・。
大きくせき込みながら食器棚から少し深めの茶碗と味噌汁用のお椀を引っ張りだす。しゃもじに付いた米をかじり取りながら昨日の晩に炊いた白めしを茶碗によそい、冷蔵庫から取り出した卵2個をお椀に入れる。
むかしのように休憩時間以外に水は飲むのは根性が無いとのたまう現場は少なくなったが、先の短い昭和前半生まれの社長がやっている元請けや依頼主が訳の分からない納期を要求してくるとなれば、とうぜん作業時間が長くなって、休憩の時間も短くなる。ガス欠にならないために、食えるうちに量と塩を食っておくというのはおなじみの方法だが、最近は醤油の量が増えてきたのが色で分かる。味は変わらないが。
卵をかきまわす。箸を使ったほうが柔らかく仕上がるのだが、食べるときに卵でコーティングされた米がボロボロして食べにくい。時間もかかるからスプーンを使ってかきまわす。黄身が満足のいくように白身と馴染まないが、まぁ、早い朝はこんなもんだろう。
食べながら打ち合わせた今日の流れを思い出してみる。5時に出発、現場監督と若いヤツらを迎えに行って営業所に到着、住宅塗装に使う足場作りのパイプと防護シートをトラックに積み込んで現場に直行、12時に昼めし、16時まで足場と防護シートの装着完了、17時に積み降しと日報処理、19時に解散、連中を送って帰宅、20時に帰れればいい方か。
俺が迎えに行くことになっているが、普通は逆ではないか。みな車を持っていないのをダシに、結局のところ体よく俺を利用しているのだ。
歯磨きと着替えを済ませ、スリッパを突っかけ、アパートの駐車場に向かう。
車にたどり着き、スリッパを脱ぎ捨て、もはや工具スペースと成り果てたトランクの真ん中あたりに埋もれている足袋を引っ張り出す。ついでに今日の現場で使う道具を腰袋に差し込む。安全帯、ラチェット、ハンマー、電気ドリル。あ、手袋がない。スケールもない。営業所で使ってそのまま置いといたのか。
運転席に座り、ニッカポッカの裾をごわごわにならないようぴったり内側に折りたたみながら入れる。足袋の内側についているホックを一つ一つ、感覚を確かめながら穴に引っかけていく。
5時まで少しある。連中のために時間通りには行っても、わざわざ早めに行く義理はない。
運転席のドアを全開にしながら、ダッシュボードに置いてあるタバコを取り出し、火をつける。
深く吸い込み、肺いっぱいに生温かい空気が流れ込んでくるのが分かる。
ふぅっと息を吐くと少なめの煙が口から漏れ出てくる。
寒いわけではない。
気温は20度前後だろう。動くたびに体に熱が当たるわけでもなければ、ひんやりしているわけでもない。
まだ空は白んでいない、だが何十年も繰り返しているからか、朝が来る気配が分かる気がしないでもない。
250mほど標高の高い場所にある住宅街から下界が隅まで見渡せる。
この時間はまだ新聞配達は来ないのだろうか。変に高い場所だから後回しにされているのかもしれない。
夏の終わりが近づき、鈴虫みたいに鳴く虫がしぶとく、だが大分その数を減らしながらも細々と鳴いているのが聞こえるほか、なにも聞こえない。
・・・狭間にいる気がした。
何かが別の何かに生まれ変わる瞬間に生じる「何物でもない」あいまいな世界に足を踏み入れた気がした。
夜でも朝でもない世界。
夜行性の動物も昼行性の動物も活動しない世界。
今まで二つのどちらかしか知らず、その世界にどっぷりと浸かっていたのに、突然どちらの世界からも切り離されて、宙ぶらりんになっている、そんな刹那の感覚。
テレビでやっていた。
飛行機で大気圏ギリギリまで飛んで、落ちる前の数分間で無重力を体験するイベント。
精神的には、まさに無重力な感じだ。
人生の分岐点にも、そんな世界があるのかもしれない。
どん底から成功。
きっとその境目は、短すぎて本人もすぐには自覚できないだろう。
気づくとしたら、後に思い返して初めて自覚するぐらいじゃないか。
そんな気がする。
合格掲示板に自分の受験番号を見つけた瞬間の茫然とした瞬間。
誰よりも早くフィニッシュラインを切った瞬間に訪れる視界が真っ白になる瞬間。
宝くじの番号と新聞の一等の当選番号が一致している瞬間。
そのような瞬間は
いつか自分にもやってくるのだろうか。
何十年もこんな調子の自分にも。
俺も
いつか
そんなふうに・・・
スマホの通知音が鳴った。
現場監督のだ。
細長い灰が崩れずにしぶとく根元にしがみついている。
遠くで新聞配達のバイクの音が聞こえる。
ヤバい!
寝てたのか!!
タバコを灰皿にねじ込み、スマホを胸ポケットからむしり取る。今回ばかりは流石に説教だけでは済まないかもしれない。クビはないと思うが仕事が若い連中に回されるかもしれない。だとしたら日給か減る。いま車を走らせてるからもう少し待ってほしい、とか言い訳して時間を稼いで・・・
・・・3つ目のアラームを消すのを忘れていた。
出発時間の5時にアラームをセットしているあたり、何とかなるのではないかという甘えを我ながら感じる。