165時間 (1)
義隆は何の魔法効果も付与されていないボロボロの軽量革鎧を纏い、中程から折られた木剣に早々に見切りを付け、本来は片手で扱う胴体だけを辛うじて守れる程度の大きさの楕円の中型盾を両手で構える。傷だらけになりながらも、大型の木剣による剛激を辛うじて凌ぎ続けられているのは、もちろんブッハが手加減をしているからだ。本来であれば両手で振るうべき大型の両手剣を模した木剣は、木製とは言え片手で構えられるような代物では無い。義隆が辛うじて交わしたブッハの一撃は、それ自体の重量とブッハの怪力が相まって、壁に突き刺さり、床を砕いた。
一見すると、剣道場を洋風に仕立てた様な、だだっ広く窓が一つも無い平均的な造りの部屋だが、そこはイグロスが『空間創造魔法』で出現させた特殊な空間だ。ブッハが破壊した壁も床も一定の時が過ぎると自然に元通りになる。
こんな修行をもう何時間続けているのだろう。義隆は額から流れ落ちる汗も拭わずに、必死に集中力の糸を繋ぎブッハの動きを注視する。イグロスの作りだしたこの空間は、空間内の刻の流れを操ることができる。その特殊効果は最大で現実世界の三十三倍にまで遅延する事が可能だ。つまり現実世界での5時間は、この空間内では最大で165時間の修行時間となる。これがブランと藤子の狙いだった。
義隆とブッハの修行は、傍から見ると義隆の不甲斐無さだけが際立つ様だが、決してそれだけが理由では無い。
魔法省メイド長のブッハ=アスワルド。彼女はトイフェリアと呼ばれる古の種族の末裔で、こちらの世界全体でもその生き残りは、数える程しかいない超少数種族だ。トイフェリアはもともと数の多い種族ではなかったが、特殊な魔法を操り、身体能力にも優れる事から、決して簡単に絶滅の危機に瀕するような種族ではなかった。しかし、ある出来事がきっかけで種の滅亡への危機を迎える事となる。
かつてこの世界は三年間続く大戦により、大地は火の海と化した。東方の邪神国家『オルグロ』による突然の侵略行為によって、マギヴェルトとその近隣国家は甚大な被害に見舞われる。第一の襲来は、特殊な呪詛攻撃によって腐食効果を併せ持つ闇が各地に自然発生した。
オルグロが得意とする呪詛は、魔法とは一線を画す仕組みにより発動する。この世界における一般的な魔法が、胆力を消費し魔力に変換して発動するのに対し、呪詛はオルグロが崇拝する邪神『キセノボフロス』に、自らの生気を捧げ祈願することでキセノボフロスに届いた望みが呪詛として具現化されるというものだ。
予測の難しいこの呪詛攻撃により、マギヴェルトとその近隣国家に住まう多くの者が深刻な被害を被った。しかし、この呪詛攻撃はまだ大戦の序章でしかなかった。混乱に乗じたオルグロは、大規模な白兵戦部隊と共に、古の呪詛で操る魔神を各地へ投入した。このとき魔神の進攻によりもたらした禍害が、後にトイフェリアたちに悲劇をもたらす。
トイフェリアは元々、下界に降りた魔神とダークエルフから産まれた者が始原とされ、その血を受け継ぐ末裔たちは数少ない古の種族として、辺境の地にひっそりと暮らしていた。
ちょうど大戦が終息へ向かい始めた頃、忘れ去られようとしていたこの少数種族が住む村に、魔神の蹂躙によって村を焼き尽くされ、そこから命からがら逃げ延び、道に迷った十数名の避難民が辿り着いた。この辺りは冬でもそれほど雪の降らない地域ではあったが、傷付いた避難民たちには冷たい風が骨身に染みた。気の毒に思ったトイフェリアたちは、避難民を快く受け入れる事にした。初めはトイフェリアの特徴的な見た目に恐る恐る接していた避難民たちだったが、すぐにトイフェリアたちの献身的な対応に心を開く様になった。
避難民たちはしばらくトイフェリアの村で暮らすうちに、ある疑問を抱き始める。優しさと知性に溢れ、特殊な魔法を操り、身体能力も自分たちより遥かに優れるこの優秀な種族が、何故こんな辺境の地にひっそりと暮らしているのだろうかと。
ある日、避難民の一人がその事をトイフェリアの村長に尋ねた。村長の答えはとても単純なものだった。
「古の教えに従っている」
確かにそれは素晴らしい事だと思った。しかし、それと同時にこんな素晴らしい能力を、辺境の地に埋もれさせておくのはあまりにもったいない。避難民の中に混じっていた上流階級の男が、大きな街で御用商人をしている知人に、トイフェリアたちの素晴らしい才能について手紙で伝えた。避難民たちの傷も癒え、村を旅立つ準備が整う頃には、上流階級の男が御用商人へ伝えた話は、出入りの業者を通じて隣街にまで届いた。そして、偶然その街の付近に駐屯していた騎兵団の耳に入ることとなる。
その時は突然に訪れた。十騎の軍馬に跨った軽魔装騎兵と、その後ろを悠然と進む多脚軍馬(ギルプ二ル)に跨った魔装騎士が、突然トイフェリアの村へやって来た。そして、理由も告げずに村長を拘引すると伝えた。理解の範疇を超えるその行動に、村の者たちは困惑する。村の若体格の良いトイフェリアたちが、村長を守る様にその前に立ちはだかる。しかし、即座に村長は村の者たちを静め、一切の手出しをすることを禁じ、自ら魔装騎士の前に進み出た。
「この村の長を務めるグロイアスと申します。いかなる理由でこのような辺境の地に住む、老骨を拘引されるというのかお教えください」
魔装騎士は多脚軍馬(ギルプ二ル)から降りことなくグロイアスへ近付くと、兜の間から冷たい視線で言い放つ。
「俺の名はパウル=ランコーレ。我らが王は速やかな魔神の根絶を御望みだ。世界を火の海に沈めし魔神の血筋を継ぐ者たちよ。いかなる理由でこのような場所に潜伏している?」
グロイアスはそのパウルと名乗る魔装騎士の言葉で、避難民たちが襲われたというオルグロの魔神の話しを思い出す。この時、オルグロが操ったとされる魔人とは砂利と粘土を混ぜたものに、羊皮紙を貼り合わせて造った憑代に、呪詛により大量の生気を溜め込んだ特殊な人造兵士だ。本物の魔神とは程遠いそれを避難民たちが魔神と呼んだのは、兵士たちが皆そう呼んでいたのと、自分たちは本物の魔神を見た事が無かったからだ。
魔神とはその名の通り神である。自分が崇拝する神への忠誠の証として、異教の神を総じて魔神と呼んだのがその始まりとされる。オルグロの魔神は、兵士が人造兵士に畏敬の念を込めた呼び名に過ぎない。確かに凄まじい破壊力を秘めた兵器ではあっただろうが、魔神とはそのようなものではない。しかし、何が本物かが解らなければ、何が偽物かを解る術は無い。
上手くルビが振れていない個所があります。読み辛い思いをさせてしまい申し訳ありません。訂正したいのですが、何が原因なのか解りません。