嵐の前の静けさ (1)
藤子たちが部屋へ入ると、ブランは陽の当たるテラスに出て、差し出した自分の掌に留まる青色の小鳥に、木の実を与えていた。陽を浴びる銀髪と優しく輝く頬笑みは、有名な絵画の一枚を思わせる。小鳥は藤子たちの気配に気付くとすぐに飛び立ち、それと同時に振り返ったブランは、藤子たちを見て良く来てくれましたと言ってテーブルへと案内した。
「昨夜はよく眠れましたか?」
「はい!」
優しく問いかけるブランに茜と恵が元気に答えた。義隆は軽く会釈をし『お陰でゆっくりできました。ありがとうございます』と宿泊の礼をする。
「でも、お父さんが毛虫の怪物になった!」
恵がそう言うと、ブランは楽しそうに声を出して笑い、そうなのですかと冗談めかして義隆に問い掛けた。義隆は照れ臭そうに顔を赤らめて頭を掻いた。
「さあ、さあ、座った。座った」
藤子の言葉で一同は席に着いた。義隆たちは目の前に並べられた豪華な食事を見て、口の中に唾液が溢れ出すのを感じる。朝食も取らずに眠っていたためだ。マギヴェルトの料理はどれも良く義隆たちの口に合っていた。恵など昨夜は夕食の美味さの興奮が冷めやらない様子で、寝る直前まで食べ物の話しを続けていた。各自の前には、麦に似た穀類を使ったスープと粥の中間のような料理が並び、テーブルの中央には二種類のサラダがサラダボールに、温野菜が大きな木製のボールに、更に二種類の肉料理が大皿に盛られる。野菜料理が多いのはブランへの配慮だろう。テーブル脇のワゴンには、果物の盛り合わせやロールケーキの様なスイーツと、ヌクスというコーヒーに似た木の実を焙煎して沸かした飲み物が置かれている。
茜はあちらの世界では見た事のない様々な果物に興味津々だ。恵は真っ先に風船鶏という骨付きチキンを彷彿とさせる肉料理に、豪快にかぶりつく。もちろんその後も次々とメニューを制覇していったのは言うまでも無い。義隆は食事の最後にデザートと一緒に運ばれた、ヌクスの焙煎汁の美味さに感動すら覚えた様子だった。
「さて、ブラン。何かこの子たちに用があるのでは?」
「ええ。昨夜の事をいくつか話したいと思います」
ブランはカップをテーブルに置くと、真面目な表情で義隆たちに向き直りゆっくりと話し始めた。
「昨夜、ご存知の通りドゥンケルが怪我をして戻りました。怪我の方は既にほとんど回復しています。ただ……」
「ただ?」
「残念ながらドゥンケルには既に何者かに『忘却魔法』を掛けられていました。肝心の内通者の記憶は抜き取られていました」
「ドゥンケルほどの者が遅れを取るという事は、いよいよイルジオンの内通者自らが手を下したという可能性が高いね」
義隆たちは生々しい話の内容を唖然とした様子で聞くと、一刻も早く百合香を助け出してやりたい気持ちが強くなる。しかし、かなりの使い手であろう内通者を相手に、魔法を開眼したばかりの自分たちで何が出来ると言うのか。
「明日の早朝に、義隆さんと恵さんに百合香さんの救助に向かっていただきたいと思います」
突然の話に義隆が目を見開いて驚きを露わにする。もちろんその反応は想定済みとばかりに、ブランと藤子は話を続ける。
「藤子、30分で準備を整えてもらい、すぐに修行に取り掛かれば間に合いますか?」
「明日の出発は何時だい?」
「午前5時頃でどうでしょう?」
「間に合うとは言い難いが、とりあえずの事はできそうだね」
壁に掛けられた時計はもうすぐ午後1時を指そうとしている。今から休憩後に修行をしたところで何が間に合うと言うのか。ブランと藤子は勝手に話を進めていく。
「あの、もしかして簡単に魔法が上手く使えるようになる方法でもあるんでしょうか?」
もしかすると一口飲むだけで魔法が万能になる薬でもあるのだろうか。幾許かの期待を込めて義隆が問い掛ける。ブランと藤子は義隆の質問の意味が解らないといった表情で『簡単に魔法が?』『上手く使えるように?』と、そのままの言葉を繰り返す事で、問い掛けに対して質問で返した。義隆は居た堪れない気持ちで、小さく『すみません』とだけ答えて俯く。
「義隆さん、誰もがブランのような出鱈目な魔力を持っていて、それを簡単に使いこなす事などできるもんじゃないさ。普通は気の遠くなるような修行の後にでも、ほとんどの者が辿り着けない領域だよ」
藤子がブランを横眼で見ながら呆れたように話すが、義隆からすれば藤子の魔法も十分に出鱈目なものに思えた。
「藤子、提案があります。貴方が一人で義隆さんたち三人の指導をするより、それぞれに別の指導者を付けてはどうでしょう?」
「なるほど。じゃあ、誰が指導に当たるかね?」
「私に茜さんを任せて頂けませんか? 義隆さんは人間の成人男性の利点を生かしてブッハに魔法と一緒に剣術を仕込んでもらってはいかがでしょうか。超適合者の恵さんは藤子にお願いします。そして、私に茜さんを任せて頂けませんか?」
藤子は一瞬だけ考える素振りを見せたが、すぐに納得したように頷いた。ブランの考えには往々にして『予知夢』による予言が関わる事を藤子は知っていたからだ。これまで何度もそれによって危機的な状況すらも乗り越えて来たし、何より藤子はブランを信頼していた。義隆たちを置き去りにして次々と予定が決まり、30分後に地下の訓練場に集まる事で話しは勝手にまとまってしまった。
義隆たちは修行へ向けての準備を整えるためにテーブルを後にした。