怪物 (1)
その怪物は突然、現れた。この日、茜と恵は、義隆の悲鳴にも似た絶叫で目を覚ます。
恐らく三人は朝食の知らせにも気付かずに眠り続けていたのだろう。昨夜の出来事はそれだけ大きな精神的披露を与えていた。そのことを理解していた藤子は、報告に来たフルークにそのまま眠らせておくようにと指示を出していた。しかし、それから3時間が経過しようとした頃に、義隆がようやく目を覚ました。壁に掛けられた時計の針は、午前11時を少し過ぎた所を指している。太陽は既に高い位置にあり、窓の外には白銀のデコレーションの中に黒々と茂る針葉樹の森と、その隙間から遠くの方に、文化的な生活を感じさせる立派な街並みが見える。義隆はぼんやりと思う。あれが昨晩、聞いた皇都に違いない。
徹夜明けの朝のように体が重い。義隆は背中に鉛を背負っているかのような体を引きずりながらよろよろと起き上がり、重い瞼を微かに開けてバスルームへと向かった。茜と恵は心地良いベッドの中でまどろんだままだ。
二人が目を覚ましたのはその直後だった。バスルームに響き渡る義隆の悲鳴が、茜と恵がいる寝室にまで届いた。その声に驚いて二人が跳び起きると、寝室の入口には全身が黒色の毛に覆われた毛虫のような怪物が蠢いていた。怪物はおぞましい声で叫びながら、長い毛をサワサワを揺らして寝室に転がり込んで来た。
「ギャー! お父さん、助けてぇー!」
茜と恵はほぼ同時に悲鳴を上げた。そして、すぐに恵は布団の中へと隠れた。茜は返事の無いのが、既にバスルームでこの怪物に襲われたのだと察した。自分たちを助けてくれる者は誰もいない。そう思った瞬間、茜は悲鳴を上げて震えながらも、怪物の前に立ちはだかり、布団の中に隠れる恵を守るように左腕で覆い、右手には近くにあった枕を構えた。布団の中では恵が丸くなって悲鳴を上げている。部屋は一瞬にして悲鳴と叫び声が入り混じる混沌とした空間となる。うろたえながらも茜はそこに微かな義隆の声が混じる事に気付く。義隆がまだ部屋のどこかにいる。それが茜に僅かな希望を与えた。
「お父さん! 大丈夫!?」
「な、何でこんな……」
酷く狼狽した感じではあるが、今度はハッキリと義隆の声が聞こえた。義隆は近くにいる。茜は勇気を振り絞り、目の前にゆらりと立ちはだかる怪物に枕を振り回す。大振りな一撃に怪物が怯むようによろけると、言葉にならない声を上げて自分を奮い立たせながら更に枕を振り回した。
コン。コン。コン。そこへ悲鳴を聞き付けたフルークが駆け付けて、非常事態にも関わらず礼儀正しく部屋の扉をノックした。
「失礼いたします。何か問題でも──おぉ!?」
フルークは大きな瞳をより一層と大きく見開き、奇妙な声を上げた。しかし、一瞬で気持ちを整えると、懐から小さな巻物を取り出し、茜に少し下がる様に伝えると、即座に呪文を詠唱した。
「揺らめく白煙、目覚ましの草、迷霧の彼方へ『煙霧魔法』」
一瞬の輝きの後に巻物は灰となる。フルークはその灰を思い切り吸い込むと、今度は口から真っ白な濃霧を吐き出した。あっと言う間に部屋の中は視界ゼロの迷霧に包まれる。
「すぐに藤子様にお伝えして参りますので、少しだけお待ちください」
フルークはそう言うと、珍しく少し慌てて足早に部屋を立ち去った。確かに毛虫の怪物に茜の居場所を見付ける事はできないだろうが、茜にも毛虫の怪物がまったく見えない。茜はまるで耳元で鳴るかのような心臓の音が、毛虫の怪物に聞こえない事を祈る。
「あ、茜ぇ……」
近くで義隆の力無い声が聞こえる。まだ無事なようだ。茜は心の中で『お願いお父さん。声を上げないで、動かないで』と懇願する。毛虫の怪物もすぐ近くにいるはずだ。いくら見えないからと言って、このままでは無事では済まない。そのとき再びドアをノックする音と共に足音が聞こえる。
「失礼いたします」
「待たせたね。おや、これじゃ何にも見えないね。よほど気が動転したんだろうね、お前さんらしくない」
「面目ございません……」
薄く笑う藤子に『煙霧魔法』の魔法を消す様に指示されたフルークは、濃霧を見る見る吸い込んだ。辺りが薄らと見え始めると、ベッドの上には茜と毛布に包まった恵が、寝室の端には毛虫の怪物が力なく丸まっている。藤子は茜に近寄り大丈夫だよと声を掛けると、無造作に毛虫の怪物のもとへと歩を進める。一瞬、茜があっと声を上げたが、藤子はお構いなしに毛虫の怪物に優しく声を掛け、ベッドに腰を掛けるように促した。毛虫の怪物はその言葉に反応するようにゆっくりと立ち上がり、傍のベッドに腰を掛けた。
「大変な目に合ったね、義隆さん」
藤子の言葉に茜もフルークも耳を疑った。
「あぁ……と、藤子さん……」
「その姿のままだと会話もままならない様だね。ちょっと待ってておくれ」
そう言うと、藤子はさっさと部屋を出て行ってしまった。沈黙の中で茜とフルークの視線は毛虫の怪物に注がれる。それは、先程までの恐怖と警戒によるものではなく、藤子が残した言葉の意味を確かめたいという思いからだった。フルークは冷静になって考える。魔法省の防衛レベルはマギヴェルト国内で最高クラスだ。改めて考えるとこんな低俗な怪物が簡単に入り込む余地などないはずだ。と言う事は……。
窓からは陽の光が差し込み、時折聞こえて来る鳥の鳴き声が、心地の悪い静寂を強調するかのようだ。やがて藤子がその手に濃紺色の小さな小瓶を携えて部屋に戻った。
「さあ、これを一息で飲んでおくれ」
藤子はそう言って怪物に小瓶を差し出した。怪物はゆっくりとした動作で長い毛サワサワと揺らしながら、その小瓶を受け取ると口元と思しき箇所へそれを運び、中の液体を一気に飲み干した。藤子は茜に歩み寄り、傍らで毛布に隠れる恵に出ておいでと声を掛けた。
「驚かせて悪かったね」