165時間 (7)
『茜さん、ちょっとお話でもしませんか?』その部屋に入ったブランの第一声はそんな軽いものだった。『さあ、ここに座って』ブランは笑顔でそう言うと、部屋の隅に置かれたテーブルの席を茜へ進める。ブランは席に着くと、この空間はとても便利なのですが『召喚魔法』が使えないのだけは少し不便ですね、と初めてその部屋に来た茜に同意を求めるかのように話し掛けながら、持ち込んだ荷物の中から深緑色の古めかしい小箱を取り出した。その小箱をテーブルの上に置くと、微笑みながら蓋の上に手を乗せた。
『少憩』
その言葉に反応するように小箱から微かに緑色の煙が溢れる。それを興味深そうに眺める茜の顔を覗き込み、悪戯っぽく微笑むと勿体ぶる様に小箱の蓋を開けた。その瞬間にテーブルの上は、渦巻く緑色の不思議な煙に覆われる。お互いの姿がほとんど見えないほどに煙が辺りを覆い尽くす、茜には何が起こるのかさっぱり見当がつかない。
やがて緑色の煙が薄れると、テーブルの上には豪華な銀食器とティーセットが現れた。二種類のポットにはそれぞれアイベンコーゼ茶とホライデン茶が、いくつか並んだ銀色の皿には、クッキーとケーキとマフィンのようなお菓子がたくさん盛られている。隣に並ぶ銀糸で編んだ籠には様々な果物が入っている。
「茜さんはどちらのお茶がお好みですか?」
「えっと……」
どちらと言われてもアイベンコーゼ茶しか飲んだ事のない茜は、どう答えたものか返答に悩む。
「ホライデン茶に、グラマゴスの果汁を搾るのも美味しいですよ? ホライデン茶には精神を落ち着かせる効果もあります」
茜の答えを待たずにブランが微笑みながら言う。じゃあそちらを、と茜が控え目に答えると、ブランは嬉しそうに微笑み自らカップにホライデン茶を注ぐ傍らで、魔法を使ってグラマゴスの実を容器に絞る。その果汁をカップに混ぜると、立ち昇る湯気からは花を思わせる素晴らしい香りが漂う。
「さあ、どうぞ」
ブランはそう言って一つのカップを茜の前に差し出し、もう一つを自分の前に置いた。用意されたものは食器からスイーツまで、全てがかなり高価なものであろうことが小学生の茜にも容易に想像できる。ブランはクッキーやケーキを茜に進めながら、自分は黄緑色の果物の皮をナイフで剥く。
これからどんな厳しい修行が始まるのかと、内心ビクビクしながらこの部屋に入った茜は、この拍子抜けするほど和やかな雰囲気にどう反応して良いものか困惑する。これでは修行と言うよりお茶会か女子会だ。ブランはそんな茜の戸惑いなどお構い無しに、何か少し物足りないと言って荷物の中から別の金色の小箱を取り出した。それをテーブルの隅に置いて、観音開きになった小さな扉を開いた。そして、ブランが小箱を包み込む様にして、呪文の様な言葉を呟く。
『音楽隊』
その言葉に反応するように小箱がぼんやりと輝き、カタカタと小刻みに振動し始めた。やがて中からマッチ棒ほどの小さな、くるみ割り人形を彷彿とさせる十二体の音楽隊が現れた。思わず茜が『可愛い』と漏らすと、ブランは嬉しそうに『気に入っていただけましたか』と微笑む。音楽隊はテーブルの隅に整列し、ブランの方を向いて静かに直立する。
「寛げる曲をお願いします」
ブランがそう告げると、音楽隊は訓練された動きで一斉に演奏の体勢に入り、即座に優雅な曲を奏で始めた。その音色は茜が予想していた玩具の様なものとはかけ離れた、サイズ感に見合わない重厚で本格的なものだ。
ブランは満足気にニッコリと笑い、熱々のホライデン茶を口に運び、目を閉じてうっとりと小さな音楽隊の奏でる曲に聞き入る。茜は湯気の立ち上がるカップに息を吹きかけ、所在なげに上目使いでブランを見つめる。話をしようと言ったわりに、ブランは一向に話し始める様子が無い。
確かに修行が始まる前は、並々ならぬ覚悟で各自の部屋へ向かう空気だったはずだ。少なくとも茜自身はそうだった。もしかして、それは自分の勘違いで、じつは義隆と恵も今頃こんな風にお茶でも飲んで寛いでいるのだろうか。茜はあまりのブランの寛ぎ様に、一瞬そんな事を考えた。だが、すぐにそれは有り得ないと茜は自らの考えを打ち消す。
「あまりリラックスできていない様子ですね。この曲は気に入りませんでしたか?」
ブランが気に掛かった様子で茜の顔を覗き込む。音楽が気に入らない訳ではない。こんな事をしていて大丈夫なのかが気になっているのだ。まして、自分だけ開眼の啓示が表れていないと言うのに。しかし、茜は『大丈夫です』と曖昧な答えを口にして作り笑顔を浮かべる。これをきっかけに『そろそろ修業でもしましょうか』となるかもしれない。そう期待しながら、茜は横目でチラチラとブランの様子を窺う。しかし、ブランは茜の言葉を聞くと優しく微笑み『それなら良かった』とだけ言うと、再びホライデン茶を口へと運び、目を閉じて音楽隊の奏でる演奏に聞き入ってしまった。
イグロスが魔法で作り出したこの空間には、音楽隊の優雅な音楽だけが流れている。ここは暑くも無く寒くもなく、時折、二人が食器に触れた際に立てる音が聞こえるだけで、一切の生活音も無い。ある意味で寛ぐには最適の空間だ。しかし、こんな事をするためにここに来た訳ではなかったはずだ。
「あの、何かお話をするのでは……」思い余って茜が口を開く。
ブランは少し驚いたような表情で茜を見ると、すぐにその意味を理解したように、カップを受け皿に置いて茜に向き直った。
「できればもっと寛いだ状況でしたかったのですが──」
少し考えた様子を見せた後に、ブランは勿体ぶった様子で話し始めた。その言葉を聞いた茜の顔に、いよいよ本題へ入れるという期待感と同時に、心の中にはこれから始まるであろう修行への不安が湧き上がる。
「その前に一つ聞いてもいいですか?」
「はい?」
「茜さん、開眼の啓示は現れましたか?」
茜は驚きのあまり、心臓が音を立てたのが聞こえた気がした。隠していた訳では無いが、儀式を行ってくれたブランに答えるのは何よりも辛い。




