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でこのーと

 小。


「あっ」

 今日買ったばかりのノート。普段筆箱に入っていないマジックで名前を書こうとして、書いた最初の一文字は私の本名には無い文字だった。あーあ、どうしようコレ。

 授業が始まったばかりの応用数学のノート。破線とかが入っていないノートが使いやすいから、中身はコピー用紙みたいに真っ白な紙の束。飾りっけ無い茶色い表紙には、私が誤って汚した「小」の文字。

「何してんだろ、私……」

 どうしよっかな。修正テープで名前を書く枠線みたいな物を作って、その上に名前を書いたらそれっぽいかもしれない。そういえば自宅から持ってきた荷物の中にデコシールがあった記憶がある。色々貼ってみたらおしゃれになるかもしれない。

 目覚まし時計の数字はそろそろ11から0へ。明日提出の課題があるっていうのに、私はホコリ臭い押入れの中を荒らし出した。


『学籍番号 2014*****

 佐藤 雪子』


 私は携帯電話をデコるような人間ではないけれど。精一杯女の子っぽくデコレイトしたノートを見て、それも悪くないかなって思う。机の上にぽつんと置かれた未使用のノートの周りには、職人の仕事の後といわんばかりにシールシートや蛍光ペンが散乱していた。

「……さて」

 頭に文鎮でも乗ってるのかなってぐらいの重量感。まぶたがくっつくと中々離れない。時計を見ると「02:16」だって。電子機器は冗談が下手くそなんだから、ジョークは勘弁して欲しい。

 ご飯は食べたけれどちょっと空いてきたな。というか、まだレポート書いてないや。

 うーん……

 寝よ。


☆ ☆


 レポートは朝起きてからやればいいやって、6時にアラームをセットしたのに起きたのはいつも通り7時だった。自分の健康的な生活リズムがちょっといじらしくなる。というか目覚まし時計さん、あんたは私を起こすのが仕事なんだからしっかりしておくれ。

 というか、寝たはずなのに寝る前より眠いしなんだこれ。こんなことなら寝ずにレポート作っとけば良かった。いや、もう遅いけど。

「講義が3時までだから速攻で家に帰って3時半。レポートはまぁ今日の5時までだから、ギリギリ間に合う……ハズ」

 資料集めは2限の英語の時間にやろう。フライパンの上で白く固まっていく卵をぼーっと眺めながら、頭は授業中なんて目じゃないくらいに高速回転。人間追い詰められた時が本領。昨年の心理学の講義で習ったことだけど、そんなのみんな心のどっかで分かりきってる。

 なんでこんなその場しのぎのことばっかりやってるんだろ、私。目玉焼きの下に引かれたベーコンが、憎たらしくもベーコンから離れない。フライ返しでこそぎ落としたら、目玉焼きの形が崩れた。結局、出来上がった完成品は黄身白身がセパレイトしたスクランブルエッグ。不器用すぎて嫌になる。

「あぁ、そういやそうだった……」

 パンにベーコンエッグ、コーンポタージュ。国籍を間違えてそうな朝ごはんをテーブルに並べようとして、気付く。私を間違った道へ誘ったノートが、テーブルの上に鎮座していた。昨日作った時は最高の出来に思えたけど……これ、今日の授業に持ってくの? マジで? 恥ずかしくないですか、昨日の私。

「なーにやってんだろ、私」

 溜め息を吐きながら、ノートはリュックサックの中へ。大学に入る前は、ロボットが作りたいだなんだ言ってたのに、大学に入って作ってるのはこんなモン。

 あぁ、やだやだ。大学に入って以来、ふとした拍子に訪れる不安を振り払うように、私はスマホを手に取った。真っ先に開いたアプリは、twitter。

「……なーにやってんだろ、私」

 もう一度呟いて、スマホをベッドに放り投げる。ボスッという音がして、そこまで柔らかくないベッドの一部分が凹んだ。


☆ ☆


 急げば急ぐほど、私を貫く風は強くなる。それに真剣に悩むのは陸上部とか新幹線とか、速さを真面目に考えてる人たち。それから私。

 私は通学に速さは求めてないから、頼むから前髪を崩すのはやめとくれ。1限が始まる15分前。トイレの鏡に映る私の姿は、洗面所で見た時よりもげんなり。指の爪先でちょちょいと直して、溜め息。

「……行きますか」

 誰も居ないお手洗いで気合を入れ、ドアの取手を掴む。うわ、濡れてる。ちゃんと手を拭いてから開けろってもぅ。講義室に向かう途中、ゴミ箱に通学路で買った栄養ドリンクを捨てる。同じ飲み物の缶がいくつも溜まっているのを見て、私だけじゃないんだって妙な連帯感。頑張ろうね、誰だか知らんけど。

「あっ、おはよう小雪」

 講義室に入ると、後ろから数列目の辺りにキリコが座ってた。笑顔で私に手を振るキリコの手元にはiPhone。3つ続きの席は、彼女の体とバッグで2つ埋まっていた。

「おはよ~、キリコ」

 残り1つの席に腰を下ろして座る。バッグを挟んだ距離が、私達の距離感なのかなって思わないこともなけど、単純に近過ぎても授業が受けにくいってのもある。

 キリコは彼女のアダ名。本名は……武藤暦とかそんなんだった気がする。あーでもこっからどうキリコに変わるか分かんないや、多分ちょっと違う。今更聞くのもあれだしいいか、キリコはキリコってことで。

「今日のレポートさ、凄く面倒じゃったねぇ?」

「あ~ごめん、まだやってない」

「……提出5時じゃけん、棄てたんか?」

「うぐぐ……」

 面倒なのか、間に合うかなぁ。まぁなんとかなるでしょ。私が気に病んでるのもいざ知らず、キリコはバッグからノートを取り出す。丁度いい、名前を教えてもらおう。首を伸ばして、彼女が取り出したのノートの表示を見る。

『霧灯暦』

 あーなるほど。「ムトウ」の漢字が間違ってたのか。霧灯……キリトウ……キリコ……。頭の中で繋がった瞬間、難しい暗号を解いたみたいに頭がスッキリした。思わずキリコの肩をがっしりと掴んでしまった。

「キリコ、アンタはやっぱりキリコだよ!」

「はぁ? 小雪頭おかしくなったんか?」

 もの凄く冷たい目で睨まれた。アンタの名前の神秘を解いたってのに、この扱いだ。やれやれ。

 工学部に女子はほとんどいなくて、同じサークルということもありキリコとは仲がいい――のを強要されてる。2年になって主専攻配属されたら、女子は私とキリコだけだった。なんの呪いなんだか。もっと普通の友達が欲しいもんだ。

「そーいや小雪、ノート買えた? ほら、生協で売り切れてたじゃろ?」

「買えた買えた。ホント、ノートぐらい仕入れとけっての」

「そーじゃの。大変じゃったねぇ……」

 在庫にぶつくさ文句をいいながら、私はリュックサックを漁って手先に触れた紙束の角を取り出す。取り出したノートがデコシールでごちゃごちゃしていて、それを見たキリコがニヤニヤとした笑顔を浮かべていた。今日家に帰る前にノートを買おう。

「なんじゃ、小雪にしては可愛いノートじゃねぇ」

「で、でしょ?」

 物珍しげにノートを眺めるキリコに作り笑い。素直な感想なのか、いたずらなのか。判断つかなくて、嫌な汗が背中を伝う。

「ねぇ小雪。1つ訊いてもええかの?」

「何?」

「小雪って、雪子って名前じゃったっけ?」

「私の名前忘れとったんかい」

 いや私も同じことしてたし強く突っ込めないんだけど、だけど言うなよ。でもまぁ思い返してみると、twitterでもLINEでもスカイプでもサークルでも”小雪”名義だし、他人からすれば私は”小雪”で十分なんだろう。

「で、小雪。もう1つ訊いてええ?」

「ん、何?」

「これ……名前のトコロ修正ペンで消してあるんじゃけど、何書いてあるん?」

 授業前。投稿して来た学生たちでワイワイうるさい講義室。私の辺りだけ急に静けさに包まれた。ノートの表紙に引かれた修正テープの僅かな凹凸、それを指でなぞりながらキリコは真顔。やめて、油性ペンで書いた名前が伸びる。

「……何も書いてないよ。テープで枠線作りたかっただけだし」

「剥がしてええ?」

「やめて。定規は線を引くためのモンだから」

 キリコが持っていた定規が、木を削るカンナみたいにシャッシャッと机をなぞる。目盛りが消えるからやめなさいホント。……私のノートでやるのだけは、やめなさい。

 顔をふくらませながら、筆箱を漁るキリコ。中から、修正テープによく似た何かが出てきた。テープの部分はキラキラしたピンク色で、星やらハートやらが舞っている。ラメテープって奴だ。

「もぉっと綺麗にしたるけん、ええじゃろ? テープの下に何も書かれとらんのじゃろ?」

「う、うんまぁ……」

「書き間違いなんてしとらんよね? 小雪――みたいな」

 おいアンタ全部分かって言ってるだろ。ていうか知りすぎでしょ。昨日私の家を監視してたでしょ。監視カメラ仕掛けてるでしょ。浮かべた作り笑いが引き攣っていくのを感じる。

 嫌な予感に身を任せ、机に放置したノートを守ろうと手を伸ばす。それより早く動くのは、狩猟者の爪。

「さぁ小雪、ギネス級のノートを作りましょ!」

「そんな庶民派ギネス記録なんて焼け死んでしまえ!」

 2人の手が交差して、弾き飛ばされた私のノートはぽーんと宙を遊泳する。誰かが作った物理法則にしたがって放物線をなぞったノートは、斜め前の誰かにぶち当たった。

 ぱぁん。

 風船が割れるような軽快な音とは裏腹に、眼前に現れたのは仮面代わりにノートを装着した奇妙な人間。ぱさっ。剥がれ落ちて地面に堕ちた私のノート。残ったのは、表情が読み取れないほど無表情な男の子。授業的に同じクラスのはずだけど、こんな人いたっけ?

「ごめんなさい」

「あーうん、いいよ別に……」

 ぼそぼそとした声を聞いて、加害者ながら「暗くてオタクっぽいな」なんて失礼なことを思った。その人は膝を伸ばしたまましゃがんで、開いて地面を咥えこんでいたノートを拾う。

「コレ、えーと……佐藤雪子さん?」

「え? あ、ありがとー」

 ノートを受け取った私は、紙にこべりついたホコリをパンパンと払う。男の人は何事もなかったかのように教室の前の方まで歩み、隣に誰も座っていない列に腰を下ろした。前で授業を受けるなんて、やる気あるなー。

 なんとなく彼を眺めてぼーっとしてると、筆箱にテープやら何やら仕舞っているキリコが、私の肩をちょんちょんとつついた。

「なに間宮くん見つめとんの、小雪?」

「間宮くん?」

「小雪はホント名前覚えんのね。今ノート拾ってくれた彼よ。冴えない顔しちょるよね」

「ん? んー……」

 まぁ確かに、イケメンではないけど悪い顔でもないと思う。実際、極端な顔立ちをしていたら流石に覚えてると思う。着てるパーカーもユニクロとかでよく見る量産型。決めつけるのもあれだけど、普通の人なんだと思う。

 煮え切らない私の返事が気になったのか、キリコが首を捻る。

「どうしたん? まさか気があるとか?」

「いやー、そういうワケじゃないけど。こう、なんていうか……」

「なんていうか?」

「違和感がある」

 ブー。私の返答を否定するかのように、スマホが振動する。サークルか大学からまたどうでもいいメールでも来てるのかな、私のスマホが鳴る理由なんてそれぐらいだし。反射的に手がポケットの中に入っても、取り出す気にはなれない。

 そぅ、あれだけのやりとりなんだけど、どこか違和感があった。なんでだろう? さっきの会話を思い返しても、よくわからない。

「違和感ってアンタ……普通はこう、運命の出会いとかそういうもんじゃろ?」

「そんな少女の幻想、とうに棄てたわ」

「レポートは棄てる気無いのに、小雪は変じゃね」

 小さな彼女の溜め息は、授業の始まりを表すチャイムでかき消された。もちをん、動作自体は目の前で見えるからちょっと苛ついたけど。

 すぐに教授だか助教授だか分からん大人が教室に入ってきて、授業の配布資料と出欠表が配られる。もらった出欠表の束から2枚抜き取って、1枚をキリコに渡す。いつものように、出欠表に自分の名前を書こうとシャーペンを走らせて――


 佐藤小雪。


「あっ」

 書き終えてから書き間違いに気付く。周りから小雪小雪呼ばれるし、本名を字面が似てるから、たまに本気で間違えるんだよね、コレ。ふっと息を漏らして消しゴムをこする。書き間違いのクセに無駄に綺麗に書けた名前が消えていく。

 佐藤雪子。書き直した字は、さっきよりなんとなく下手に見えて。やっぱ私は小雪なのかもって思う。

「……あっ」

 分かった。さっきの……間宮くんだっけ? 彼の言葉に違和感を感じた理由が。


「コレ、えーと……佐藤雪子さん?」


 なぁんだ。別に大したことじゃない。ただ単に、本名で呼ばれただけだ。

 ……本名で呼ばれたのって、いつが最後だっけ。大学じゃ先生と話す機会ないし、親とまともに連絡取り合ってないし。下手したら1年ぐらい呼ばれてないかもしれない。

 なんだ。ちょっと冷めた私は、いつの間にか先生が埋めた数式の羅列をひたすらノートに写していく。説明を聞き逃したから、記号の意味はわからない。そういや、資料集めしないといけないのにPC持ってきてないや、失敗したな。

「……ねぇ小雪」

「どうしたの?」

「なんでそんな嬉しそうな顔しとるんじゃ?」

 小さく囁いてくるキリコは、私を怪訝そうに見つめてくる。嬉しそう? なんで?

 ずらずら書き連ねていたノートの1ページ目は、焦って写していたからか彩りない黒色でいっぱいになる。手で払うようにページをぺらりと捲る。破線も何もない、真っ白な見開きページ。

「別に。なんでもないよ」

 板書の転写にちょっと余裕のでた私は、筆箱から数本のボールペンを出す。嬉しそう、ね。そうかも。レポートもあるし、睡眠不足でちょっと眠い。明日の予習もあって。大変かもしれないけれど。

 意味の分からない外人が作った公式を書いて、赤いペンで囲む。シャっという滑らかな音が教室に響いて、それを聴いたのは私だけだった。

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