7話
研究室の一大イベントといえば、やはり秋の中間報告会である。とっくの昔にそのイベントの主役を終えた高階としては、毎年「懐かしいなぁ」という思いで、必死に準備をする四年生を見ている。完全に他人事、気楽な傍観人――のはずなのだが。
今年ばかりは、やや事情が異なっていた。
後輩の健闘を、高階は講義室の一番後ろで眺めていた。戸田ゼミからは、今年は二人の学生が報告することになっている。ゼミ生自体は三人いるのだが、あとの一人は学会報告に替えたため、中間報告は免除されていた。
(次が須崎さんだな)
たった今報告を終えたばかりの四年生に拍手を送りつつ、高階は順番を確認する。
今日まで、彼は特に乃依の指導を行ってきた。相変わらず遠慮が消えない後輩ではあったが、最近では徐々に打ち解けてきている気がしている。少なくとも乃依に、最初の頃のような硬さは見られない。
(直ぐに謝るのは、きっと癖なんだろうけど)
その光景を思い出すと、本人には悪いが少し笑ってしまう。
おそらくこの後の質疑応答の時にも、同じことが起こるだろうと、高階は予測する。辻原あたりに突っ込まれて、あたふたしながら「すみません」を繰り返す様がありありと思い浮かべられた。
と、そこで高階はふと思う。
(そういえば、プレゼンの練習はしてなかったっけ)
レジュメの添削や読み原稿のチェックは欠かさなかったから、報告自体は問題ないと思う。が、質疑応答のシミュレーションは全くしていなかった。
(大丈夫かな……)
これまでの乃依を見る限り、アドリブに強いタイプだとは到底思えない。ついでに、本番に強いタイプにも。
壇上を見ると、乃依ががちがちに緊張した様子で、読み原稿を取り出したところだった。ホッチキスで留めたレジュメを小刻みに揺らしつつ、彼女は顔を上げていく。
(ああ)
その瞬間、高階は思った。これはいわば勘のようなもので、全く以て根拠も何もないのだが――後でフォローが必要な事態になりそうだ、と。
かくして、中間報告は無事に終了したわけであるが――。
(あー項垂れてる……)
前方を確認すると、乃依がずーんと落ち込んでいる様子が目に入った。その証拠に、友人の有馬に慰められている。
労いの一言でも言おうかと思っていたが、今は止めておいた方がいいだろう。どうせ、この後の打ち上げでも顔を合わせるのだ。大抵はゼミごとに固まって座るので、彼女とも席が近くなるに決まっている。その時にでも「お疲れ様」と言おう。
高階はそう考えて、講義室を出ようとした。その時、
「須崎さん、頑張ってたね」
振り返ると、直ぐ後ろに大能がいた。彼女もちょうど退出しようとしていたようだ。
「そうですね」
嫌な予感を覚えながらも、高階は無難な回答をする。
「良かったね。高階君もお疲れ様」
「……お疲れ様です」
意味ありげに言うその言葉に、高階はやはり当たり障りのない返事しかできない。
(やっぱりバレてるか)
自分を追い越して退出した大能の背中を眺める。彼女はさらっと言ってくれたが、つまりは「分かってるよ」ということなのだろう。
ふう、と高階は息を吐く。大能の言葉により、彼は自分の手法――つまり研究スタイルが、如実に乃依の報告に表れていたことを知った。
そこそこの年月研究を続けていると、研究スタイルはある程度固定される。高階自身、乃依にこれを押し付けたつもりはなかったのだが、見る人が見れば分かるのだろう。大能とは付き合いも長い。最初にバレた相手が彼女だというのも、納得できた。
(別に隠してるわけじゃないんだけど……)
しかし、落ち着かない気分になったのは確かだ。気恥ずかしさ、というのが一番近いのかもしれない。
そして、そんなやり取りがあったからこそ、打ち上げの席で乃依の近くに行くのが憚られたのかもしれなかった。
打ち上げの会場に着くと、高階はざっと見回して全体像を確認する。上座と幹事席を把握すると、彼はいつものポジションについた。
「須崎さんと離れちゃいましたね」
「そうだね」
後ろから聞こえた声は、後輩の板倉。高階が入店してから、続けて入ってきたことが分かる。
「むぅ、戸田研で固まろうと思ったのに」
不満そうに唇を尖らせた後輩は、「隣いいですか?」と訊いてから着席する。
「なんか今日は寂しいですよ、うちのゼミ。大能さんもあっちに行っちゃいましたし」
「ほんとだ。珍しい」
「あっち」に目を向けると、大能が中心近くの席にいた。周りを他の院生が囲んでいるところを見ると、どうやら呼ばれて行ったようだ。
「あと何人来るんですっけ――っと、あ! 先生こっちです!」
片手を大きく挙げて、戸田を呼ぶ板倉。まるで娘が父親を呼ぶかのような動作だ。
戸田がやって来るのを確認すると、彼女は小声で、「とりあえず先生ゲットです」と言って笑った。
「ご歓談下さい」タイムに突入すると、途端に会場は賑やかになった。教員陣の挨拶から解放され、食べたい者は食べる、飲みたい者は飲む、喋りたい者は喋る……とまあ、なあなあな状態である。
「飲んでる?」
高階は、目の前にやって来た人物を見た。大能は手にコップと皿、それから箸を持っている。完全に席を移動する気らしい。
じゃあ彼女の元いた場所は……と思って横を向くと、そこには四年生が座っていた。正面には教員、左右には院生というポジションである。
「主役なんだから、こんな端っこに居ちゃ駄目でしょ」
「まあ……そうですね」
「こんな端っこ」でちびちびと料理を食べていた高階は、微妙な返答をした。彼はたいてい隅の席に陣取っている。定位置といっても良い。
「須崎さんとこ、行ってあげなくていいの?」
「今は、止めといた方がいいと思います」
敢えて乃依の方には視線を向けず、高階はウーロン茶を一口飲んだ。
見なくても分かる。彼女がどのような状況に置かれているのかが。そして、そこに自分は入っていかない方が良いだろうということも。
「あーあ、あんなに囲まれちゃって」
大能はしっかりと後輩の様子を観察しながら、わざわざ高階に教えてくれた。どこか面白そうなのは、その状況が何を意味するかを知っているからだ。
「あ、また辻原君が話しかけてる」
「実況しなくていいですよ」
とっくに乃依から視線を外した高階は、未だにその光景を楽しんでいる大能にツッコミを入れた。彼女とは付き合いが長い分、こういったやり取りも多い。
しかし大能は高階のツッコミをスルーし、
「あ、頭ぶつけた」
次の実況中継を始めた。
その言葉に、思わず高階は左を見る。ちょうど乃依が、頭を押さえているところだった。
どうやら、頭を下げようとして机にぶつけてしまったようだ。可哀想なくらいに顔を真っ赤にさせて、辻原にぺこぺこと頭を下げている。
(あー……)
これ以上見てはいけない気がして、高階は目を逸らした。
「さっき辻原君が言ってるのが聞こえたんだけどね」
「はい」
「須崎さんに、明日から自分が見てやるって」
高階の持つ箸が一瞬止まる。喧噪のなか、その部分だけはクリアに聞こえた。
「そうですか」
彼が乃依に熱心に話しかけているのは知っていた。だから、別段驚くようなことでもない。頭のどこかで、それを予想していた自分がいた。
(とはいっても)
それを見過ごして良いのか、とも思う。勿論、乃依が積極的に彼の提案受け入れれば、横からあれこれ言うつもりはない。が、彼女の為を思うならば――。
「阻止しないと」
「はい?」
まさに考え付いた答えを先に言われ、高階は再び動きを止めた。
「阻止よ、阻止。辻原の企みを阻むの」
(「企み」って……)
酷い言い草だ。しかも呼び捨てになっている。
「彼は十分に指導できると思いますよ。今日の須崎さんの報告に対する指摘も、的を射ていると思いましたし。彼の助言があれば、良い論文が書けるんじゃないですか」
辻原に対する大能の評価が低いとは思っていなかったが、一応フォローしておく。ここで即座に、彼女に同調するのは躊躇われた。いくら同じ考えを持っていたとはいえ。
そんな高階の言葉に、大能は「それはそれとして」と言った上で、でも、と続けた。
「ああいうやり方は、須崎さんには合わないでしょ」
「……まあ、そうですね」
彼女の言うことは当たっている。高階の、というか戸田研の研究スタイルと、辻原のものは正反対と言っても良い。指導教員が違うのだから当たり前と言えば当たり前で、どちらが優れているという話ではないのだが、乃依のテーマからすると、戸田研の手法に倣う方が良いように思えた。
「というわけで、高階君頑張って」
「はい?」
「須崎さんをこっち側に引き留めとくの。彼女の――いえ、戸田研の行く末は、きみの双肩にかかっている!」
「待ってください」
芝居がかった口調の大能に、高階は待ったをかける。
しかし大能は高階の抵抗をスルーし、「よろしく」と言って立ち上がった。手には来た時と同じく、コップと皿、箸を持って。
呼び止めたところで、意味をなさないだろう。高階は、相変わらず辻原のトークに怯える乃依をぼんやりと眺めた。
一次会の後は流れで二次会へ、となったが、高階は早々にフェードアウトすることにした。二次会まで付き合っていたらロクなことにならない、というのが彼の経験からくる持論である。
見れば、乃依も二次会へ向かうグループから距離を取っていた。早く帰りたそうな雰囲気に、思わず苦笑。じりじりと彼らと距離を広げていく様子が、見ていて面白い。
ところが、乃依の撤退戦略はあえなく失敗することになった。
「須崎、二次会は?」
乃依と同期の蓬田だ。彼は逃げようとする乃依を目ざとく見付け、引き留めにかかったらしい。
「あ、私は……もう、帰ろうかなって」
「何で。付き合えよ」
二次会に行かないことを心底不思議がっている表情で、蓬田は言う。行くのが当然、と思っているような口ぶりだ。このまま押し切られるかと思いきや、
「はいはい、無理強いしない」
大能がタイミング良く割って入り、乃依は解放された。大能はそのまま蓬田を引っ張って二次会会場へと向かっていく。歩きながら、彼女は一瞬だけ高階の方へ顔を向けた。
(分かりました。やりますよ)
口には出さず、しかし彼の心中は伝わったのだろう。大能は満足そうな表情を浮かべた後、軽い足取りで歩いていった。
打てる策は限られる。
要はこれからも自分が指導する、と言えば良いだけの話で、特に捻ったことを考える必要はない。つまり、ストレートにそれを伝えれば良いのだ。
(の、はずなんだけど……)
早々に帰ってしまった乃依に声を掛けられなかったのは、最大の誤算。ここで一言、「お疲れ様。今後の方針について、明日にでも話そうか」と言えば、全ての問題は即解決出来たかもしれなかった。そのチャンスを逃してしまったことが悔やまれる。
(あの後の須崎さんの行動は素早かったからなぁ)
解放された乃依は、「お先に失礼します」と言って、そそくさと退散してしまったのだ。その動作の早きこと、風の如し。
(早くしないと手遅れになりそうだし……どうするか)
明日あたり、さっそく乃依と辻原が接触する可能性もある。その場合、彼女のことだ。流されてしまうに違いない。
とすると今夜中に手を打っておかねば、と高階は考える。
今夜中に、彼女と自然に連絡を取れる唯一の方法――それに、彼は一つだけ心当たりがあった。いつもは返すことしかしていないそれは、今のところ、乃依と高階を繋ぐ有効な連絡手段である。
(でも、気付かれないかもしれないな)
明日の朝までに読んでもらえる確率は高くない。今日は疲れているだろうから、帰宅したら直ぐに寝てしまうだろう。明日だって、パソコンに向かう前に家を出たら意味がない。
(――いや。でも)
高階は、頭に浮かんだネガティブな考えを否定した。それでも、打てる手は打っておいた方が良いと判断したからだ。
(そうと決まったら、早く帰らないと)
冷えたアスファルトをリズムよく踏んで、家路を急ぐ。文面を考えながら、そして乃依の反応を予想しながら。
普段は研究のことを考えながら歩くことが多いが、今日は違う。たまには、こういうことを考えながら帰るのも悪くないかもしれない、と高階は思った。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
附記は、活動報告の方に書かせていただきます。