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6話


 高階らが調査から帰って来る頃には、八月も第五週に入っていた。彼にとって一週間余りの調査はあっという間で、大学に帰ってきても、久しぶりという気はしない。

(とは言っても――)

 真っ先に足を運んだ院生室。机上にあるカレンダーを確認すると、否が応でも現実に直面させられた。

(新学期の準備しないと)

 高校は来週から二学期である。今日明日にでも高校に行って、配布する授業プリントを印刷しておく必要がある。

(夏休みも、もう終わりか)

 大学の方はあと一か月以上休みだが、非常勤を再開させたら、これまたあっという間に時間は過ぎるだろう。しかも、戸田からは二週間以内に調査レポートをまとめるように言われている。やるべきことは山積みだ。

 高階は刻々と流れる時間を感じた。高校生には、「先生、夏休み長いのいいなー」と言われたが、そんなのはせいぜい学部三年生までだった。


 一旦下ろした鞄を再び手に持ち、高階は院生室を出る。

 今日は早く帰って休みたいという気持ちが勝っていた。バスを降りて下宿先へ向かわなかったのは、院生室から借用した物があったからだ。それを戻した今、ここに用はない。

(ああ、でも)

 階段に向かう足を止める。院生室のはす向かいの、研究室の前で。

(確認しとくか……)

 研究室には、いくつかの個人用郵便受けがある。教員は勿論のこと、ドクターも一人一つずつポストを置いていた。

 高階は所属する学会の運営委員を務めている。その関係から、届く郵便物は多い。一週間留守にしていれば、それなりの量が溜まっていることが予想された。

 早く帰りたいと思う反面、滞っている仕事を確認――せめて現状把握をしておかねばとも思う。結局、彼はドアノブに手を掛けた。

(まだ残ってる人がいるんだな)

 研究室にはまだ明かりがついている。誰だろうか。

 夏季休暇中は、研究室も人が少ない。ましてこんな時間――十一時に残っている学部生がいるとは思っていなかった。

 ゆっくりと扉を開けると、人の動く気配がした。

「あ……」

「須崎さん?」

 コピーでも取りに来ていたのだろう。乃依は雑誌を手に持ち、室内を移動している最中だった。

 彼女の目が、大きく見開かれる。

「た、高階さん! あのっ……こんばんは!」

 がばっと頭を下げ、礼儀正しく挨拶をする後輩に、高階は苦笑する。二週間前にも同じ光景を見た気がするが、何故か懐かしさを感じた。

「こんばんは。また、こんな時間に……一人?」

 研究室をざっと見回したところ、彼女の他には誰もいないように見えた。

「あ、はい。そうです」

 何のことはないというように、乃依。彼女の様子から、もしかしたら日常茶飯事なのではないかと、高階は思った。

(こうして皆、夜型になっていくんだよなぁ)

 今は朝型生活が普通になっている高階も、かつては夜に勉強するのが当たり前だと思っていた。テスト前の一夜漬けのように。


「――あのっ」


 ぼんやりしていた高階の耳に、緊迫感の漂う後輩の呼びかけが聞こえた。何事かと乃依を見ると、彼女は不安げな眼差しを高階に向けながら、

「私のメール……すみません!」

 突然、勢いよく頭を下げた。

 高階としては、何がなんだかさっぱり分からない。取り敢えず、聞こえた単語を繰り返してみる。

「メール?」

「五日前くらいに送った――あれ、なんですけど……」

 そこまで聞いて、高階はやっと理解し始めた。「あれ」というのが、謝罪の対象になるメールのことだということを。ただ――。

「その、ごめん。今調査から帰ったばっかりで……しばらくメール見てないんだ」

「え?」

「十八日から、戸田先生と調査に行ってて」

 院生室のホワイトボードには、自身のスケジュールを書いておいたのだが、どうやら乃依は見ていないらしい。また、院生室に来ることも、誰かに高階の所在を尋ねることもしなかったようだ。

「……良かったぁ」

「え?」

 心底ほっとしたという表情で呟かれた言葉に、高階は聞き返す。すると乃依は、言いにくそうにではあるが、その理由を教えてくれた。

「私、五日前くらいにレジュメの添削をお願いするメールを送ったんですけど、返信がなかったので……その、呆れられたのかと思って。あのレジュメ、駄目だったのかと思いました」

 つまり、提出したレジュメの出来が悪くて、高階が怒って放置したと思われていたのだ。

「まさか、そんなことはしない!」

 驚いたのは高階である。つい、声が大きくなる。

「すみません……。なんか、どんどんネガティブ思考になっていって……」

 消え入りそうな声で小さくなる後輩に、高階は慌てて謝る。ここまで後ろ向きな考えをする彼女を見るのは初めてだった。相当不安だったに違いない。

(この数日間、ずっと――)

 そう思うと、複雑な気持ちになった。

「携帯の方に連絡してくれれば良かったのに。名簿、持ってるよね」

「あ、はい」

「僕のアドレスも書いといたと思うんだけど」

「はい。でも……」

 失礼だと思って、という声に、高階は何とも言えない溜息を吐いた。

「全然そんなことない。むしろ、必要な時には連絡して」

「あ、はい。すみません」

 やはり項垂れる乃依に、「いや別に怒ってるわけじゃないから。ね」とすかさずフォローしつつ、高階はまたもや、どうしたものかと考えた。





 メールというのも厄介なものだと、高階は思う。

 ウェブメールは、その画面にログインしないと、受信の有無が分からない仕組みになっている。デスクトップにメールの受信通知が出てきてくれれば有難いのだが、残念ながらそんな親切な機能はついていない。

 高階は頻繁にログインしているわけではなく、頻度としてはせいぜい一日三回程度。こちらからメールを送って返信待ちの時以外は、そんなものだ。つまり、受信してからメールに気付くまでに、どうしてもタイムラグが生じてしまう。

(何とかしないと)

 乃依の心中を察するに、早急に対応しなくてはならない事柄だろう。今後も対応が遅れるようなことがあれば、彼女に精神的な負担を強いることになる。というか、単純に乃依が心配だ。

(にしても――)

 優しく指導しているはずなのに、何故こうも怖い先輩のイメージを持たれているのか。高階は首を傾げた。

 同じゼミでM1の板倉(いたくら)とは普通に話をしているようだから、先輩が苦手というわけではないようだ。それに、同期の蓬田とは仲が良いようだから、男性恐怖症とも思えない。

 とすると、やはり自分に問題があるのだろうと、高階は結論付けた。問題は、何が原因でそうなっているかが分からないことであるが――。

「高階さん、変なとこで考え事してますね」

「え?」

 僅かに目線を上げると、目の前に辻原がいた。

「お湯、沸いてますよ」

「あ、ああ……ありがとう」

 そういえば給湯ポットが沸騰するのを待ってたんだ、と高階は思い出した。手にインスタントコーヒーを持っているのだから、傍から見れば何をしているのか丸わかりだろう。

「自分にも入れます」

 良く見ると、辻原はカップ麺を持っていた。彼は院生室にカップ麺を常備している。泊まり込むことが多いので、主には夜食用だ。

 辻原にポットを譲り、高階は机に戻った。そして、おもむろに口を開く。

「僕って怖いイメージある?」

「はい? 何言ってんですか?」

 何を藪から棒に、とでも言いたげに辻原。

「どうも後輩に、そういうイメージを持たれてる気がするんだけど」

「気のせいじゃないっすか?」

「うーん、そうならいいんだけど」

 腑に落ちないといった表情の高階。それに、辻原は何かを言いかけ――彼の携帯電話のバイブ音に遮られた。片手でぱかりと開いた辻原は、しかし興味なさげに携帯電話を閉じる。

「学振のやつです」

 二人が運営委員を務める学会宛てに、日本学術振興会からメールが配信される。それが個人のアドレスに転送されてくるのだ。

「携帯に送られてくるの?」

「いやウェブメールの方です。自分、転送使ってるんで、あっちに来たやつ、こっちでも受信できるんすよ」

 辻原は携帯電話を掲げてみせる。それに、高階の目は丸くなった。

「そうか、転送!」

「どうかしたんすか?」

 カップ麺の蓋を開けながら、辻原は一応尋ねる。そのわりに、あまり興味なさそうなのは、一刻も早く食事にありつきたいからだろう。

「ああ、なんでもない。こっちの話」

 高階はコーヒーを一口飲むと、大学のホームページにとんだ。手続きは早い方が良い。



 さくさくと手続きを終えた高階は、生温くなったコーヒーを口にする。

(これで問題は一つ解決、と)

 思ったよりも早く片付いたのは良かった。他にも問題――しかもわりと大きな――が残っているが、そちらは解決に時間がかかりそうである。

(いやむしろ、時間が解決してくれるかもしれないし)

 そうだ、と彼は思う。こういったことは、時間をかけて解決していくより他にない。急に関係が親密になるなど、よほどのことがない限り有り得ないのだから。

 もう少し様子を見よう。今後の方針は決まった。


 こうして高階は自分を納得させ、別名「先送り」とも呼ぶべき解決策を示すことにした。



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