5話
「あのっ」
コピー機の稼働音に混じって聞こえた声に、高階はそちらを向く。そこには、ファイルを持った乃依がいた。
「須崎さん、どうしたの?」
「すみません。今日って、お時間ありますか?」
「うん。この後は何も予定はない」
彼が非常勤の仕事を終えて、大学に戻って来たのは三十分ほど前。普段ならば院生室に直行しているところだが、今日はコピーしたいものがあり、研究室に寄っていた。
いつもよりボリュームを上げた乃依の声が、高階の耳に届く。
「あの、ちょっと質問があって」
「あと二、三分でこれ終わるから、それからでもいい?」
「あ、はい! お願いします」
九十度近いお辞儀をして、乃依はファイルからレジュメを取り出した。
準備万端な後輩に、高階は苦笑する。こうした光景は、もはや見慣れたものとなっていた。
あの日以来、乃依はしばしば質問に来るようになった。但し「来るようになった」と言っても、高階が研究室にいるときに、声を掛けられるパターンがほとんどである。彼女が自分から、院生室の扉を叩くことはない。やはりあの扉は重いのだろうか、と高階は考える。
(自分の時も……まあ、そうだったかな)
少なくとも、気軽には入れなかった。辻原は学部の頃から頻繁に顔を出していたが、あれは例外だ。
だから、なのだろうか。最近、研究室に顔を出す機会が増えたような気がするのは。
勿論コピーする、本や論文を取りに行く……などの用事があって行くのだが、用事を済ませてさようなら、とはならないのがここ最近の特徴だ。これはちょっとした変化だと、高階は自覚していた。
「失礼しました」
指導教員の戸田の部屋を後にした高階は、足早に院生室に戻る。
いつもより性急に扉を開けた彼に、中にいた大能は意外そうな顔をした。
「すみません」
彼女の表情に気付き慌てて謝るが、大能は首を振って言う。
「全然。で、何かあったの?」
「今度、戸田先生の調査に同行させてもらえることになりました」
「ああ、科研絡みの」
大能の言葉に、高階は「そうです」と頷いた。
今度の調査は科研――科学研究費助成事業の一環で、研究代表者は戸田である。高階のフィールドとはやや異なるものの、良い機会だからと調査に誘われていた。
「科研費降りるのは有難いよね。毎回自費は、やっぱキツいわぁ」
「ですよね」
「で。実績にもなる、と」
にんまりと大能は笑う。
「そうですね……。先生からは、そう言われてます」
「さっすが戸田先生。でも報告書は大変よー」
「そこは、まあ……頑張ります」
苦笑いしながら言うと、大能は口を開けて笑った。
「でも、高校の方は大丈夫なの?」
「お盆明けに行くので――と、すみません。忘れないうちに日程、メモしておきます」
「あーはいはい、邪魔してごめんね」
片手を振って、大能。「もうこちらのことは気にするな」の意だろうと、高階は理解した。
彼女のこういったサバサバした態度は、研究室内でも人気が高い。どちらかというと男性的な思考の持ち主ではあるが、同時に女性らしい気遣いもでき、バランスが取れている。男性比率が圧倒的に多い研究室内でも、普通に馴染んでいるのは、そうした理由からだろう。
高階とは一つしか年が離れていないが、時折、彼女の年齢をもっと上に感じることがあった。精神年齢の差なのか、それとも経験の差なのか――いずれにせよ、いまだ敵わない相手であることは、認めざるを得ない。
ちなみに、高階と似たようなことを辻原も思っていたようで。以前に飲み会の席で、
「大能さんって、二コ上って感じしないんすよねー。もっとお姉さんって感じですよ」
と正直に言ってしまい、本人から平手打ちされていた。
以来、大能がそれをネタにして、辻原の頭が上がらなくなるという面白い光景がまま見られたりする。辻原の帰国直後にそのネタで盛り上がっていたあたり、あの二人も仲が良い、と高階は思う。
(八月十八日から、と)
高階は、カレンダーに予定を書き込んでいく。手帳の方に走り書きしたメモも、見やすいように書き直していった。
まだ先のことだと思っていても、あっという間に月日が流れることを、彼は知っている。
あと二か月と少し。自分の研究も進めておかないとな、と考えた。
「メール、ですか」
高階の言葉を繰り返す乃依に、彼は「うん」と言って、その理由を説明する。
曰く、これから忙しくなるから、研究室に顔を出す機会が減るかもしれない、と。
「添付ファイルでレジュメを送信してもらえれば、添削して返すよ。たいてい毎日メールはチェックするから、一日二日で返せると思う。須崎さんも、僕が研究室に行くのを待たなくても良いし、有効的に時間使えると思うんだ。今まで僕が捕まらないときとか、大変だったでしょ」
「あ、はい……っいえ、そんなことないです!」
乃依は大慌てで否定するが、高階に「いいよいいよ」と言われて黙った。その顔は、ほんのり赤みがさしている。つい正直に答えてしまったことを、悔いている様子だ。
彼女はいつも、高階が研究室に入ってくると、見計らったように扉の近くまでやって来る。そして、一旦挨拶をしてから奥に引っ込み、またファイルを手にして現れる。その後言うのは、「お時間ありますか?」、だ。
(これは……待たせてるんだろうな、やっぱり)
そのときの様子を思い起こせば、彼女が高階を待っていることは一目瞭然である。研究室の扉が開くたび、乃依は誰が来たのかを確かめに、入口まで行くのだろう。
(だとしたら、彼女に悪い)
いつ来るか――そもそも来るかどうかも分からない人間を待つなど、彼女も落ち着かないに違いない。それに何より、自分も落ち着かない。
そう考えての提案だった。
しかし高階の説明を聞いた乃依の表情は、彼が予想していたものとは全く違っていた。だから、つい訊いてみる。
「えっと……何か、不都合なことでもあるかな」
「い、いえっ! そんなことないです!」
再び大慌てで否定する後輩。そんな態度を取られれば、「そんなことない」ことはない、のではないかと勘繰ってしまうのは、高階だけではないだろう。先刻の表情と併せて考えても、彼女にとって歓迎すべき提案だったとは思えない。
「正直に言ってくれていいよ。須崎さんがやりにくいようなら、別の方法にするから」
気遣ってそう言うも、
「いえいえいえいえ、そんなっ、やりにくいとかじゃないです! お時間取ってもらって凄く感謝してます! じゃああの、今度からはメール送らせていただきます。えっと、名簿に書いてあるアドレスで大丈夫ですか?」
やはり全力で否定する後輩。
もやっとしたものが、高階の中に残る。今の表情から察するに、メールでのやり取りを嫌がっているわけではなさそうだ。が、どこか無理をしているようにも見えた。
しかし、そのもやもや感は晴れないまま――彼は、乃依の問いかけに頷いた。
「大学のウェブメールの方にお願い」
「わかりました」
乃依はこくこくと首を縦に振る。
それを横目で見ながら、高階は思い出す。メールで添削を、との提案をしたときの、彼女の様子を――。
(手を抜いてると思われたとか?)
いやいやまさか。
浮かんだ考えは、即座に否定された。さすがに、それはないだろう。
と思うものの――意気消沈、といった風に肩を落とした後輩の姿が脳裏に浮かぶ。高階が提案をしたとき、確かに彼女はそういった表情をしたのだ。
(何が問題だったんだろう)
考えるも、やはり明確な答えは得られない。乃依については、まだ分からないことが多いらしい、と高階は思った。