表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

3話


 静かな部屋にタイプ音が響く。

 気分転換が効いたのか、高階はすこぶる順調にタイピングを続けていた。気分が乗っているときは、次々と文章が浮かんでくる。但し、夜中に書く文章などロクなものがないと知っているので、後で見直しが必須だが。


 ドクターに入ってからの高階は、完全に朝型に切り替えていた。非常勤の仕事が午前中に入ることが多く、自然と規則正しい生活になっていったのだ。

 慣れてしまえば朝型も良いもので、効率良く時間を使えることを、彼は気に入っていた。

(一旦出力するか)

 パソコンの画面上では、タイプミスにも気付きにくい。印刷して紙媒体にしてから、客観的に自分の論文を読む必要があった。


 印刷ボタンをクリックしてから、高階は席を立つ。二つ左の席に共有プリンタがあるので、そこに移動した。

(あ、用紙……)

 見ると、明らかに用紙が足りない。三十枚近く出力されるはずだが、どう見ても十枚ちょっとしかなかった。

 プリンタの起動音を聞きながら、高階は用紙を取りに向かう。

 紙類は、院生室に一箇所にまとめて置いてある。ちょうど、乃依が使用している席の真横だ。

「……あ」

 近付いてきた高階を見て、乃依が小さく声を上げた。

「紙、取りに来ただけだから」

「あ、はい」

 身体が強張ってるな、と高階は思った。緊張感がこちらにも伝わってくるようだ。


 ふと、高階は乃依の机に置かれたレジュメに目を止めた。

「……それ」

「はい!?」

 ぴくりと、乃依は反応する。彼女がこういった反応を示すことは予想済みだったが、それでも高階は声を掛けずにはいられなかった。

「明後日の?」

「あ、はい。そうです。まだ作りかけなんですけど……」

 手元に視線を移しながら、乃依は答える。

 明後日は学部のゼミがある。そこで彼女は、卒論の経過報告をすることになっていた。

(そうか、須崎さんだっけ)

 高階は、今の今まで失念していたことを悔いた。


 戸田研では、学部と院でゼミが分かれている。高階は両方に参加しているが、同じくドクターの大能(おおの)は院の方にしか参加していない。

 院のゼミを回す――具体的には、報告順を決めるなど――役目は高階が担っているが、学部のゼミに関しては、マスターが任されている。だから彼は、そちらはあまり把握していなかった。

(早めに確認しとくんだったな)

 前回のゼミで、次の報告者が乃依であると聞いていたはずだった。が、それをすっかり忘れていたのである。今まで、ゼミの前日に確認すれば良いという考えだったが――次からは考えを改めようと、高階は思った。


「進んでる?」

「あ、その……いえ……」

 乃依はパソコンの画面を見ながら、小さく答えた。ワードの画面にも空白が目立っている。作りかけのレジュメと、ほぼ同じ。進んでいない証拠だ。

「もし、あれだったら……見ようか?」

「え!? いいんですか?」

 ぱっと見上げる乃依。

「うん、ちょうどきりの良いところまで終わったから」

「じゃあ、あの、お願いします!」

 立ち上がって九十度近い礼をするする後輩に、高階は苦笑する。

「わかった。――あ、ちょっと待ってて。印刷だけ終わらせる」

「あ、はい」

「須崎さんも、今出来てるとこまでで良いから印刷してみて」

「でも……全然出来てなくて」

「構わないよ。取り敢えず、今の段階で良いから」

 全くはかどっていないことは、彼女の態度を見れば一目瞭然だ。でなければ、そもそも声を掛けたりしない。

 その言葉に、乃依は「分かりました」と頷いて、鞄の中からUSBメモリを取り出す。

「印刷したら――」

 言いながら、高階は考える。

 僅かに逡巡した後、視線を「その方向」へ移して続けた。

「来てくれる?」

「はい?」

「僕のところ。隣、空いてるから」

「え、あ、はいっ」

 最初の「え」の部分で、乃依の声が明らかに裏返った。これまた高階の予想――を若干上回っていたが、ともかく大方予想通りの反応である。

 乃依は、高階と同じ方向に目を向けてこくこくと頷く。その動作からも、やはり緊張感がありありと窺えた。

(大丈夫かな……)

 これ以上刺激しない方が良いのでは? と思ったが、今更止めるわけにもいかない。高階は一抹の不安を抱えながら、用紙を追加した。


 プリンタを乃依に譲ると、高階は彼女を待たず席へと戻った。乃依が来る前に、隣にまで侵食している私物を片付けなければならなかったからだ。

 散らかった机をどうにか片付けると、タイミングよく乃依がやって来た。

「失礼、します……」

 前かがみになって、そろそろと近付いてくる様子は――。

(なんか怯えられてる……?)

 凄く申し訳ないような気分になって、高階は努めて優しく椅子を勧めた。

「あ、すみませっ」

(しかも舌噛んだ)

 動揺しながら「だ、大丈夫?」と問いかける高階に、乃依も「だ、大丈夫です」と返答。ここに辻原辺りがいたら、確実に「何やってるんですか」と突っ込まれていただろうが、幸か不幸か、誰もこの状況について指摘する者はいなかった。


 しかしそういえば、と高階は回想する。自分が学部生のときも、似たようなことがなかっただろうか。先輩に「見てやるから」と言われて院生室に行ったとき――確かに、今の乃依と同じように緊張していたはずだ。

(怖がらせないようにしないと)

 決して当時の先輩が怖かったわけではなかったが、「先輩」とはそういうものなのかもしれないと思う。普段ならいざ知らず、こと研究に関しては。

(もしかしたら、「怖い先輩」とか思われてるかもしれないし)

 想像してみたものの、それは何だか嫌だなぁと思った。やっぱり出来るだけ優しくしよう、と彼は決意する。

(それに……)

 高階はちらりと乃依を見た。

 彼女は将来研究者になりたいとは思っていないだろうし、進学を希望しているわけでもなさそうだ。あまり厳しくし過ぎると、逆にやる気を損ねる可能性もある。


 厳し過ぎず、かと言って甘過ぎず。

 就活に差し障らない程度に、かと言って卒論のレベルを下げ過ぎない程度に。


 それは、戸田研の暗黙の了解でもあった。

 本来なら卒論を優先してほしいところだが、昨今の就職難を考慮すれば、どちらを優先するかなど明白だ。だから、四年生にはあまり厳しくしてやるな、と教員から言われていた。

(そうは言っても……あんまりお座なりにされると、後で苦労することにもなるからなぁ)

 主に、秋の中間報告会とかで。

 毎年繰り広げられる、「もっと頑張りましょう」的な報告への仕打ちを思い起こせば、放任主義にはなれなかった。

(まあ今年は大丈夫だろうけど)

 去年までその仕打ちをする筆頭であった人物は、今留学中である。中間報告会のためにわざわざ帰国するとも思えないから、今年は比較的穏やかに終わるだろうと、高階は判断した。


「あの、これ……レジュメです」

「あ、ああ。ありがとう」

 そろそろとレジュメを差し出す後輩によって、高階は我に返った。気付けば、乃依は赤ペン片手に準備万端といった感じだ。

(とりあえず、中身を見てからかな)

 指導の方針は、それから決めよう。彼女のレベルに合わせて。


 早くも硬直状態となった後輩を視界に捉えながら、高階はレジュメを手に取った。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ