3話
静かな部屋にタイプ音が響く。
気分転換が効いたのか、高階はすこぶる順調にタイピングを続けていた。気分が乗っているときは、次々と文章が浮かんでくる。但し、夜中に書く文章などロクなものがないと知っているので、後で見直しが必須だが。
ドクターに入ってからの高階は、完全に朝型に切り替えていた。非常勤の仕事が午前中に入ることが多く、自然と規則正しい生活になっていったのだ。
慣れてしまえば朝型も良いもので、効率良く時間を使えることを、彼は気に入っていた。
(一旦出力するか)
パソコンの画面上では、タイプミスにも気付きにくい。印刷して紙媒体にしてから、客観的に自分の論文を読む必要があった。
印刷ボタンをクリックしてから、高階は席を立つ。二つ左の席に共有プリンタがあるので、そこに移動した。
(あ、用紙……)
見ると、明らかに用紙が足りない。三十枚近く出力されるはずだが、どう見ても十枚ちょっとしかなかった。
プリンタの起動音を聞きながら、高階は用紙を取りに向かう。
紙類は、院生室に一箇所にまとめて置いてある。ちょうど、乃依が使用している席の真横だ。
「……あ」
近付いてきた高階を見て、乃依が小さく声を上げた。
「紙、取りに来ただけだから」
「あ、はい」
身体が強張ってるな、と高階は思った。緊張感がこちらにも伝わってくるようだ。
ふと、高階は乃依の机に置かれたレジュメに目を止めた。
「……それ」
「はい!?」
ぴくりと、乃依は反応する。彼女がこういった反応を示すことは予想済みだったが、それでも高階は声を掛けずにはいられなかった。
「明後日の?」
「あ、はい。そうです。まだ作りかけなんですけど……」
手元に視線を移しながら、乃依は答える。
明後日は学部のゼミがある。そこで彼女は、卒論の経過報告をすることになっていた。
(そうか、須崎さんだっけ)
高階は、今の今まで失念していたことを悔いた。
戸田研では、学部と院でゼミが分かれている。高階は両方に参加しているが、同じくドクターの大能は院の方にしか参加していない。
院のゼミを回す――具体的には、報告順を決めるなど――役目は高階が担っているが、学部のゼミに関しては、マスターが任されている。だから彼は、そちらはあまり把握していなかった。
(早めに確認しとくんだったな)
前回のゼミで、次の報告者が乃依であると聞いていたはずだった。が、それをすっかり忘れていたのである。今まで、ゼミの前日に確認すれば良いという考えだったが――次からは考えを改めようと、高階は思った。
「進んでる?」
「あ、その……いえ……」
乃依はパソコンの画面を見ながら、小さく答えた。ワードの画面にも空白が目立っている。作りかけのレジュメと、ほぼ同じ。進んでいない証拠だ。
「もし、あれだったら……見ようか?」
「え!? いいんですか?」
ぱっと見上げる乃依。
「うん、ちょうどきりの良いところまで終わったから」
「じゃあ、あの、お願いします!」
立ち上がって九十度近い礼をするする後輩に、高階は苦笑する。
「わかった。――あ、ちょっと待ってて。印刷だけ終わらせる」
「あ、はい」
「須崎さんも、今出来てるとこまでで良いから印刷してみて」
「でも……全然出来てなくて」
「構わないよ。取り敢えず、今の段階で良いから」
全くはかどっていないことは、彼女の態度を見れば一目瞭然だ。でなければ、そもそも声を掛けたりしない。
その言葉に、乃依は「分かりました」と頷いて、鞄の中からUSBメモリを取り出す。
「印刷したら――」
言いながら、高階は考える。
僅かに逡巡した後、視線を「その方向」へ移して続けた。
「来てくれる?」
「はい?」
「僕のところ。隣、空いてるから」
「え、あ、はいっ」
最初の「え」の部分で、乃依の声が明らかに裏返った。これまた高階の予想――を若干上回っていたが、ともかく大方予想通りの反応である。
乃依は、高階と同じ方向に目を向けてこくこくと頷く。その動作からも、やはり緊張感がありありと窺えた。
(大丈夫かな……)
これ以上刺激しない方が良いのでは? と思ったが、今更止めるわけにもいかない。高階は一抹の不安を抱えながら、用紙を追加した。
プリンタを乃依に譲ると、高階は彼女を待たず席へと戻った。乃依が来る前に、隣にまで侵食している私物を片付けなければならなかったからだ。
散らかった机をどうにか片付けると、タイミングよく乃依がやって来た。
「失礼、します……」
前かがみになって、そろそろと近付いてくる様子は――。
(なんか怯えられてる……?)
凄く申し訳ないような気分になって、高階は努めて優しく椅子を勧めた。
「あ、すみませっ」
(しかも舌噛んだ)
動揺しながら「だ、大丈夫?」と問いかける高階に、乃依も「だ、大丈夫です」と返答。ここに辻原辺りがいたら、確実に「何やってるんですか」と突っ込まれていただろうが、幸か不幸か、誰もこの状況について指摘する者はいなかった。
しかしそういえば、と高階は回想する。自分が学部生のときも、似たようなことがなかっただろうか。先輩に「見てやるから」と言われて院生室に行ったとき――確かに、今の乃依と同じように緊張していたはずだ。
(怖がらせないようにしないと)
決して当時の先輩が怖かったわけではなかったが、「先輩」とはそういうものなのかもしれないと思う。普段ならいざ知らず、こと研究に関しては。
(もしかしたら、「怖い先輩」とか思われてるかもしれないし)
想像してみたものの、それは何だか嫌だなぁと思った。やっぱり出来るだけ優しくしよう、と彼は決意する。
(それに……)
高階はちらりと乃依を見た。
彼女は将来研究者になりたいとは思っていないだろうし、進学を希望しているわけでもなさそうだ。あまり厳しくし過ぎると、逆にやる気を損ねる可能性もある。
厳し過ぎず、かと言って甘過ぎず。
就活に差し障らない程度に、かと言って卒論のレベルを下げ過ぎない程度に。
それは、戸田研の暗黙の了解でもあった。
本来なら卒論を優先してほしいところだが、昨今の就職難を考慮すれば、どちらを優先するかなど明白だ。だから、四年生にはあまり厳しくしてやるな、と教員から言われていた。
(そうは言っても……あんまりお座なりにされると、後で苦労することにもなるからなぁ)
主に、秋の中間報告会とかで。
毎年繰り広げられる、「もっと頑張りましょう」的な報告への仕打ちを思い起こせば、放任主義にはなれなかった。
(まあ今年は大丈夫だろうけど)
去年までその仕打ちをする筆頭であった人物は、今留学中である。中間報告会のためにわざわざ帰国するとも思えないから、今年は比較的穏やかに終わるだろうと、高階は判断した。
「あの、これ……レジュメです」
「あ、ああ。ありがとう」
そろそろとレジュメを差し出す後輩によって、高階は我に返った。気付けば、乃依は赤ペン片手に準備万端といった感じだ。
(とりあえず、中身を見てからかな)
指導の方針は、それから決めよう。彼女のレベルに合わせて。
早くも硬直状態となった後輩を視界に捉えながら、高階はレジュメを手に取った。