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2話

 高階が須崎乃依という学生を正確に認識したのは、今から約八か月前のことである。彼の通う大学では、三年生の後期から各ゼミに配属となる。つまり、乃依が高階の所属するゼミ――戸田(とだ)研に入って来たその日に、「知り合った」のだ。


 高階は、研究室の行事に積極的に参加しているわけではない。学部生の頃は強制参加、M1でも空気を読んで一応参加していたものの、M2の後期からは修論執筆を理由に、徐々にその回数を減らしていった。そしてドクターに進学してからは、最低限の行事に参加するだけに留めている。

 行事に参加しないとなると、当然下級生との交流の場は限られる。しかも、D1の頃から附属校で非常勤を始めたことで、日中に大学に行く機会は減っていたし、行っても院生室に直行することが多く、研究室には顔を出すのは稀だった。

 だから乃依がゼミに配属された日が、彼女との初対面と言っても良かった。



 高階が院生室の鍵を開けようとすると、隣の乃依が焦ったように言った。

「あ、あのっ、もしかして高階さんだけなんですか? 今おられるのって」

「うん。今日はみんな帰ったんだ、珍しく。普段は辻原(つじはら)君がいることが多いんだけど」

「戻って来られないんですか?」

「たぶんね。一昨日学会報告終えたばかりで、まだ疲れが残ってるらしい」

「他の方は……?」

「うん? もう来ないんじゃないかな」

 高階は答えながら、ぐるりと鍵を回す。がちゃん、と静かな廊下に音が響いた。

 瞬間、乃依はびくりと肩を震わせる。

 高階の返答に反応したのか、音に驚いたのか――どちらなのか分からなかったが、そんな彼女を見て、高階の頭にはある考えが浮かんだ。

(これは……警戒されてるのか)

 まさか、と思うが否定もできない。さきほどの、送って行こうかと言ったときの反応を見る限り、どうも自分は信用されていないらしいと、彼は考えた。


 失礼します、と言って部屋に入った乃依は、院生室を物珍しげに見回した。

 院生室にはマイナーな学術雑誌がいくつか置かれているだけで、学部生が必要とするものはほとんどない。彼女がここへ入ったのは二回目だった。

 相変わらず入口近くにいる後輩に、高階が「中に入っていいよ」と言うと、乃依はおずおずと歩みを進める。随分と緊張しているようだ。

「その……ごめん。やり難いかもしれないけど、こっちのことは気にしなくていいから。あっちの、空いてる机使っていいよ」

 高階は、自分の机から最も離れた空き机を指して言う。彼の隣の席も空いているのだが、これまでの経緯を振り返って、そちらを勧めるのは止めておいた。

「ありがとうございます。では、失礼します」

「下、コードがあるから気を付けて」

「あ、はい」

 ちょこちょこと移動する乃依に、高階は注意を促す。パソコンを持ったままなので、余計に心配だ。

「ネット使う?」

「たぶん使わないとは思うんですけど……」

「そう。まあ仮に使うことがあったら、そこの共有パソコンか、僕の方は回線が繋がってるから、言ってくれれば貸すよ」

「ありがとうございます」

「じゃあ、あとは好きに使って」

「はい」

 

 高階が自分の机につくと、乃依の姿は確認できなくなった。

 彼の机には、ステンレス製の本棚が置かれている。そこにびっしりと物が詰め込まれているので、座ると視界が遮られるのだ。

 スリープ状態のパソコンを起動させている間、高階はコピーした論文を読み返す。現在執筆している論文で、先行研究として取り上げるものだ。

 と、離れた席からくしゃみが聞こえた。

「寒い?」

 座ったまま、高階は問いかける。窓を開けているので、部屋には時折涼しい風が入ってきていた。五月下旬とはいえ、時間帯によっては結構冷える。

「いえっ、大丈夫です」

「さっき寝てたから、冷えたんじゃない?」

 そういえば研究室も窓が開いていたな、と高階は思い出した。

「あ、う……そう、かも、しれない、です」

 語尾が弱々しくなっていくのは、先輩に起こされたことに対する羞恥心か。高階に乃依の姿は見えなかったが、小さくなっている様子が想像できた。

「窓閉めようか」

「え、そんな、いいですよ!」

 立ち上がろうとする高階に気付いたのか、乃依は慌てて断った。

 高階としては、別に窓を開けても閉めても、どちらでも構わない。コンビニから帰った直後は少し汗が出ていたが、今は完全に引いている。

 乃依に合わせれば良いと思ったが、はっきりと断られては、無理に勧めるわけにもいかない。高階は再び腰を下ろした。

「じゃあ、寒くなったら自由に閉めていいから」

 先輩の言葉に、乃依は「はい」と返事をした。



 さて、と高階はキーボードに手を伸ばす。これから先行研究をまとめ直す予定だ。

 データの分析は済んでいて、本論は一通り書き終わっている。あとは「おわりに」を整えるのと、「はじめに」を仕上げれば、ほぼ完成である。

(今日中には形にしないと)

 来週からは再び高校の授業が始まるので、まとまった時間が取れるのは今週くらいしかない。今日中に書き上げて数日寝かせてから、指導教員の戸田にチェックしてもらう計画を、高階は立てていた。

(これは本論の方で詳しく述べてるから、書誌情報だけにする、と)

 先に本論を仕上げているため、こうしたすり合わせが必要になる。今のままでは投稿規定枚数を大幅にオーバーしているので、コンパクトにまとめなければいけなかった。


 出力した書きかけの論文を見ながら、高階は手を動かしていく。

 そこに、再びくしゃみ音が聞こえた。


「…………」


 キーボートを叩く音が止む。高階が手を止めたからだ。

(やっぱり)

 寒いんじゃないか、と高階は思う。と同時に、自分に気を遣って我慢しているのではないかと考えると、落ち着かない気分になった。


 乃依は何も言わない。高階はそっと溜息を吐いて、座ったまま後輩に声を掛けた。

「そこ、毛布あるでしょ」

「へ?…………あ! はい、ありました! これですね」

 「これ」という単語に、高階は腰を浮かせた。本棚の上から顔を覗かせて、乃依が指すものを確認する。

「そう、それ。それね、寒かったら使っていいよ。膝にかけるなり、肩にかけるなり」

「あ、ありがとうございます」

 乃依は毛布、というかブランケットを両手で抱きしめる。心地よい温かさが伝わってきた。

 ふわふわのブランケットに包まったら、さぞかし気持ちが良いだろう。そんなことを考えながら、ブランケットを広げる乃依。こういう癒し効果抜群のものに、彼女は弱いのだ。


 しかしそんな後輩の状態まで、高階は見ていない。再び机についた彼が何気なく放った一言は、乃依の行動を百八十度転換させるものとなった。

「それ、あったかいでしょ。僕も良く使ってるんだ」


「……………………へ?」


 三拍くらいの間を取って、乃依は間抜けな声を上げた。

「ん? どうかした?」

 予想しない後輩の反応に、高階は腰を浮かせる。少し首を伸ばせば、乃依の姿を捉えることができた。

「え、あ、だって………ええっ!?」

 ぱっと手を放し――しかし次の瞬間にははっとして、下に落ちそうになるブランケットを空中キャッチ。しかし、今度はそれを抱きしめる真似はせず、むしろ身体から離して持ち上げる。ぐしゃぐしゃになったブランケットの端が床につきそうになるのを、何とか阻止する。

「……大丈夫?」

「ぅえっ、あ、はい、大丈夫です」

 あまり「大丈夫」ではないような、と高階は思った。

 身体で支えて、もう一度畳めば良さそうなものだが、彼女はそうしない。手だけで処理しようとしているから上手くいかないのだ、と彼は分析した。

「手伝おうか」

「え、いえ、たぶん、大丈夫だと……」

 乃依は言いながら、一応は言葉通りに畳んでいく。あまり綺麗な畳み方とは言えないが、本人は一生懸命だ。


 その畳み方にも違和感を覚えた高階は、一連の乃依の行動と合わせて考えてみた。結果、

(ああ、そういうこと……)

 納得。

 が、少しばかり腑に落ちない面もある。そして、やはり地味に傷つく。

「その、ごめん。僕が使ってたもので。汚れてはいないと思うんだけど……」

「ちち違いますっ! そういうんじゃなくて!」

 思わず謝った高階に、大慌てで否定する乃依。何だか自分で自分がいたたまれなくなり、高階は重ねて謝罪の言葉を口にした。

「他の人も使ってるんだけど、やっぱり嫌だよね。ごめん、配慮が足りなくて」

「え!? そうなんですか?」

「うん。結構色んな人が使って――って」


 言葉は続かなかった。

 何故なら、再びブランケットを広げる後輩の姿があったから。

 その表情は、ほっとしているようにも見える。


「……無理して使わなくてもいいよ?」

 後輩にそこまで気を遣わせたくない。そう思っての言葉だったが、乃依の反応は高階の予想とは違っていた。

「いえいえいえいえ、そんな、有難く使わせていただきます! ありがとうございます。あったかいですね、これ」

 今度は普通にブランケットを抱えながら、乃依は言う。言動も自然なものに戻りつつあった。

「ああ、うん……そうだね」

 何らかの変化があったらしい後輩を見て、高階は頭に疑問符を浮かべた。理解したつもりでいたが、どうも穴があるらしい。

(僕しか使ってないものは嫌だったとか?)

 一瞬、ネガティブな考えがよぎる。しかし、それも妙な話だ。


 高階は頭を振った。これ以上考えても埒があかない。

(この調子で大丈夫なのか……)

 何気なく窓の外を見てみると、相変わらずの色が広がっていた。

 まだまだ夜は長い。朝までどうしたものかと、珍しく彼は真剣に考えた。



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