1話
足を進めるたびに、平行感覚が失われていくような気分に陥るのは、いつものこと。
見渡す限り、黒一色の世界。
物音一つしない空間。
まるで異次元にでも迷い込んでしまったかのようだが、高階孝司にとって、ここは生活空間の一部でもあった。
(相変わらず暗いな……)
慣れてはいるものの、やはり落ち着かない。
節約のため、夜間の文学部は消灯の方針を取っている。さすがにエントランスと階段のみ、人が通ると電気がつくようになっているが、それ以外の廊下――今、高階が歩いている四階も真っ暗だ。
ほとんど見えない状態なので、慎重に足を動かしていく。長い廊下の先に、彼の目的地はあった。
エレベーター近くにある研究室と、そのはす向かいの院生室は、階段から最も遠い場所に位置している。 深夜はエレベーターが稼働していないので、どうしても階段を使わなければいけない。学生からは苦情が出ているが、学生課が取り合ってくれないとかで、いまだに改善の見込みはないらしい。
持ち手を変えると、ビニール袋の擦れる音が廊下に響く。中に入っているコーヒーとパンは、今日の朝食。数時間後にはコンビニに行く気力が残っていそうにないのと、気分転換を兼ねて先に買ってきたのである。
その選択は正解だったようで、さきほどまで鈍っていた脳は、再び活性化し始めた……ような気がしている。一時的なものかもしれないが。
(まあ明日は何も予定がないし、いいか)
高校は中間考査に入っているし、と思う。
普段は規則正しい生活を心がけている高階だが、マスターまでは結構無理をしていた。大学に泊まり込むことも多く、効率の良い悪いは別にして、研究室の滞在時間は長かった方だ。
長い廊下の先。
稼働停止中のエレベーターの横に、一箇所だけ煌々と光を放つ部屋があった。
(まだ残ってるのか)
時刻は既に零時を回っている。高階が散歩がてらコンビニに行ってから、四十分近く経過していた。
ルールに従い、扉をゆっくりと開けていく。影がないから、扉の向こうには誰もいないと分かっていたが、染みついた習慣というやつだ。
こんな時間だから人数は少ないだろうと思っていたが、それにしても人気がない。入口近くにある机には、学生はおろか、鞄等の荷物すらも置かれていなかった。
まさか無人なのかと思い、奥――書架で遮られた部屋の隅へと足先を向ける。部屋の奥の空きスペースにも、若干の机と椅子が置いてある。人目に晒されない分、こちらを好んで利用する者も多かった。
誰がいるのだろうかと考えながら、高階は奥を覗く。数人の、意欲的な四年生の顔が浮かんだ。
(中君か有馬さんか……蓬田君は――さっき帰ったから違うか。あとは海津君)
彼らなら、この時間まで残っていても可笑しくない。
しかし、そんな彼の目に飛び込んできたのは――。
うつ伏せになった女子学生の姿だった。
(ええと…………誰だろう)
高階はとっさに、それが誰なのかが分からなかった。顔を完全に伏せているので、後頭部しか見えないというのが理由だ。
が、近付いてみると、人物を特定させるいくつかの要素が見て取れる。
セミロングの黒髪。
どちらかと言えば、小柄な体躯。
机の上には、ゼミの時に何度か見た記憶のある、ベージュの鞄。
腕を枕代わりにして顔を埋め、薄い肩を上下させている後輩は――。
少し迷ってから、高階は声を掛けた。
「須崎さん、風邪ひくよ」
「……」
しかし反応はない。結構眠りが深いのかもしれない、と彼は考えた。
このまま放っておくと熟睡しかねないので、今度はボリュームを上げて呼びかけてみる。
「須崎さん」
「ぅえっ!?」
変わった声を上げ、須崎乃依はがばっと起き上がった。
高階はとっさに「起き上がり小法師」を頭に浮かべた。起き上がり小法師とは、何度倒しても起き上がるという、達磨と同じ構造をした会津地方の民芸品であるが――彼女の動きが、それに似ていたのだ。
非常に敏捷性に優れた反応を示した乃依は、起こした上体を再び曲げることなく、今度は首だけを右に向けた。
「たっ、高階さんっ!?」
赤くなった腕とおでこを隠すことなく、口をぱくぱくさせている様子は、色々と突っ込みどころ満載である。しかし、高階は敢えてスルーした。そんな指摘ができるほど、彼女とは親しくない。
代わりに、別の質問を投げかけてみる。
「もしかして、一人?」
「あ、はい。みんな、今日は帰っちゃって……」
ぐるりと研究室を見回した高階は、他の机にも荷物が置かれていないことを確認した。夜食の買い出しに出ているわけではなく、本当に全員帰宅してしまったようだ。
「もう遅いから、須崎さんもそろそろ帰った方が良い。家まで送ってくよ」
「い、いえいえいえいえ! そんな申し訳ないですっ! 大丈夫です、ちゃんと一人で帰れます! 自転車ぶっこいで帰れば全然平気です! それに何時に帰れるか分からないですし、そもそも帰れないかもしれないですし、高階さんのお邪魔をするわけにはいきませんから!」
両手を左右に振りながら、全力で「お断り」をする後輩。
こんな子だったのか、と高階はおぼろげに考えた。少なくとも、乃依が彼の前でこうした態度を見せたのは初めてである。ゼミの時も、彼女はあまり発言しない方だ。無口なのかと思っていたが、そうでもないらしい。高階は新たな発見をした気分だった。
しかし同時に、
(何もそんなに拒否しなくても)
向こうに悪気はなさそうだが、それでも――いやそれ故に、ほんの少し傷ついたのも事実だ。
勿論、彼女が警戒する気持ちも分かる。いくら先輩とはいえ、ロクに話をしたこともない人間に家まで送られるのは嫌だろう。一人暮らしをしている身ならば、それくらいの危機管理ができていた方が良い。
じゃあ、と高階は別の提案をすることにした。
「院生室、来る?」
「え?」
「こんな時間に一人っていうのは、危ないから。院生室おいで」
「あの……でも、お邪魔じゃないですか?」
「全然。静かに勉強してくれるんなら、全く問題ない」
そこまで言うと、乃依は「じゃあ、お言葉に甘えて……」と言って、パソコンをシャットダウンした。
乃依が荷物を纏めている間、高階は研究室を閉める準備をした。共有パソコンや電気ポットなどの、全ての電源を落としていく。
「コピー機も切っとこうか」
「あ、はい」
近くで声がしたと思ったら、乃依が直ぐ後ろに来ていた。鞄を肩に引っかけ、むき出しのパソコンを両手で持った状態で。
「持とうか?」
「いえっ、そんな、大丈夫です」
「じゃあ、気を付けて」
「あ、はい」
乃依は慎重に身体を動かした。転んだら一生後悔することは確実だ。
高階が手で扉を抑えて、乃依に先に出るように促すと、彼女はぺこぺこ頭を下げてお礼を言いながら研究室を出る。そんなことをしたら危ない、と高階は思ったが、これ以上後輩の集中力を乱してはいけないので黙っておいた。