この世界を救う石 一章
第1節:緑の石との邂逅(修正版)
世界の境界線が、少しずつ、だが確実に狭まっている。
魔物と呼ばれる異形の軍勢がどこからともなく現れ、人間が安全に耕せる土地や、枕を高くして眠れる夜を侵食し始めてから久しかった。人々は高い壁を築くか、あるいは魔物の脅威がまだ届かない峻険な山奥へと逃げ延びるしかなかった。
アレンが暮らす山間の村も、そうした世界の片隅にある、静かで貧しい集落の一つだった。
「――今日も、まともな獲物はなしか」
アレンは弓を肩にかけ直し、深く息を吐き出した。額に張り付いた栗色の髪を乱暴に拭う。
17歳になったアレンの体躯は、狩人としてはまだ線が細く、大人のように一矢で大猪を仕留めるような腕力はない。それでも、山の斜面を歩き回ることで鍛えられた足腰と、獲物の足跡を見逃さない鋭い観察眼だけが彼の武器だった。しかし、ここ数日は様子がおかしい。いつもならウサギやキジが飛び出してくるはずの茂みが、まるで息をひそめるように静まり返っているのだ。
森全体が、何かに怯えている。
肌を刺すような嫌な空気を感じながら、アレンは歩みを進めていた。
その時だった。
鬱蒼と茂る木々の隙間、陽の光すら届かないはずの腐葉土の地面に、奇妙な「光」を見つけたのは。
「なんだ、あれ……?」
引き寄せられるように近づき、木の根元に手を伸ばす。
それは、アレンの拳にすっぽりと収まるほどの大きさの、歪な形をした石だった。
息をのむほどに、美しい緑色をしていた。
濁りのない、深い新緑の輝き。ただの鉱物にしてはあまりにも不自然で、まるで石そのものが微かに呼吸をしているかのように、手のひらを通じて温かい脈動が伝ってくる。
「……綺麗だな」
アレンがその石を指先で包み込んだ瞬間。
ドクン、と心臓が大きく跳ね上がった。
(――ほう、この時代に俺を拾い上げるのは、そんな細腕のガキか)
「うわっ!?」
頭の中に直接、傲慢で、どこかフランクな男の声が響き渡った。
アレンは驚きのあまり石を放り出そうとしたが、なぜか手が吸い付いたように離れない。
「だ、誰だ!? どこにいる!」
(どこって、お前の手の中だよ。耳じゃなく頭に響いてるだろ? ま、いい。随分と『器』のちっせえ奴だが……死なない程度に楽しませてくれよ?)
声はそれきり聞こえなくなった。
アレンは激しく乱れる呼吸を整えながら、手の中の緑色の石を見つめた。これが何なのか、アレンには知る由もない。しかし、この石を手にした瞬間から、世界の歯車が不穏な音を立てて回り始めたことだけは、本能的に理解していた。
冷たい風が、森の奥から吹き抜ける。
その風に乗って、嗅ぎ慣れない、だが腐臭に似た強烈な獣の匂いがアレンの鼻腔を突いた。
遠くで、木々がなぎ倒される不気味な音が響き始める。
アレンは石を懐に押し込み、反射的に弓を握り締めた。
ガサリ、と頭上の枝が大きくしなった。
アレンが顔を上げた瞬間、視界を染めたのは、尋常な獣のものではない巨大な質量だった。
引き締まった漆黒の毛並み。しかし、その頭部には狂ったようにねじくれた4本の角が生え、裂けた口からは赤黒い唾液が滴っている。村の猟師たちが「黒角」と呼んで恐れる、中型の魔物だった。
「――っ!」
アレンは息を呑み、即座に背後の巨木へと身を隠した。
逃げ切れない。アレンは震える手で矢を番え、渾身の力で弓を引き絞った。狙うは眼球、一点のみ。
「おおおおおッ!」
弦が鳴り、矢が鋭く放たれる。
寸分の狂いもなく黒角の左目を捉えた――はずだった。
ガキィン! と、硬質な音が森に響く。
矢は、黒角が瞬きをした瞬間に、その分厚い瞼に弾かれて虚しく地面に落ちた。生物の皮膚ではない。まるで鉄板を叩いたかのような衝撃に、アレンの戦慄が跳ね上がる。
吼え声を上げた黒角が、地響きを立てて突進してきた。
「しまっ――」
回避が間に合わない。アレンは反射的に、懐にある緑色の石に意識を向けた。先ほどの声、そしてこの石に宿る「何か」に、縋るような思いで叫ぶ。
「頼む……動いてくれ……ッ!」
しかし、何も起きない。
石はただじんわりと温かいだけで、黒角の突進を止める盾にも、押し返す矛にもならなかった。アレンの叫びなど無視し、化身はその無様な足掻きをただ冷徹に『観察』しているだけだった。
ドゴォッ!!
「がはっ……!?」
丸太のような前足が、アレンの脇腹を容赦なく真横から叩き割った。
凄まじい衝撃とともに身体が宙を舞い、何本もの低木をへし折りながら地面を転がる。強烈な眩暈の中で、自分が斜面を転がり落ち、切り立った崖の縁まで追い詰められていることに気づいた。
前方からは、一歩、また一歩と、獲物の死を確信した黒角が歩み寄ってくる。
無慈悲な質量がアレンの身体を上から踏みつけ、そのままゴミでも捨てるかのように、巨体をひねってアレンを崖の向こうへと投げ落とした。
身体が浮く。
凄まじい速度で、視界の景色が下へと流れていく。
このまま地面に激突すれば、間違いなく肉塊になる。死の恐怖がアレンの脳内を真っ白に染め上げた。嫌だ、まだ死ねない。ここで終わってたまるものか。
「う、あああああああッ!!!」
死に物狂いの咆哮とともに、アレンは自身の奥底にあるスタミナの全てを――命そのものを絞り出すようにして、懐の石へと注ぎ込んだ。
アレン自身の持つ能力の『器』は、まだ水溜まりのように小さく浅い。
だが、死線に立たされたアレンは、その小さな器の限界容量などお構いなしに、空っぽになるまでの過剰なスタミナを一度に注ぎ込んでしまったのだ。許容量を遥かに超えたエネルギーの濁流を注がれたことで、緑色の石が激しく明滅する。
その瞬間、世界石の力が完全に制御を失って暴発した。
ドォン!!!
「ぶッ!?」
下へと落ちていたはずのアレンの身体が、突如として真横(横方向)へと爆発的な速度で吹き飛んだ。
上から下へと働くはずの重力の向きが、暴走したエネルギーによって一瞬だけ横へとひっくり返ったのだ。
制御など、できるはずもなかった。アレンの身体は弾丸のように崖の側面(岩壁)へと激突した。
バキ、と鈍い音がして、強烈な痛みが全身を駆け抜ける。
スタミナを一滴残らず絞り尽くした代償として、底なしの疲労がアレンを襲う。岩棚に引っかかったアレンの意識の糸はぷつりと切れ、暗闇の中へと転がり落ちていった。
果てのない暗闇だった。
上も下も、右も左もない。ただ、身体を縛り付けるすべての重みから解放されたような、奇妙に心地よい浮遊感だけがある空間。
アレンはそこに、仰向けに横たわっていた。
(――おい。いつまで寝てんだよ、ヘタレ)
鼓膜を揺らす声に、アレンは重い瞼を押し上げた。
現実の身体は崖の側面に激突したはずだが、ここではどこも痛まない。起き上がって周囲を見回すと、漆黒の空間の数歩先に、一人の男が立っていた。
年の頃は二十代半ば。乱雑に伸びた漆黒の髪に、衣服もまた影を編んだように黒い。
男は宙に浮かび、退屈そうに頬杖をつきながら、燃えるような緑色の瞳でアレンを見下ろしていた。その手の中には、アレンが拾ったあの緑色の石が、まるで玩具のように弄ばれている。
「お前は……さっきの声の……」
アレンの声が、実体のない空間に頼りなく響く。
(そう。お前がさっき拾い上げた『重力の石』の化身だ。名前? そんなもんはねえよ。好きに呼びな。もっとも、お前が明日まで生きてりゃの話だがな)
化身は不敵に唇を歪め、空中で器用に一回転してみせた。その態度はどこまでも冷ややかで、命を賭して戦ったアレンを労う気配など微塵もない。
「……さっきのは、お前がやったのか? 俺は横に吹き飛んで……」
(ハッ、寝言は寝て言え。俺が手を貸すわけねえだろ。お前が勝手に死に物狂いで、自分のスタミナをごっそり石に注ぎ込んだんだよ。技術もねえ癖に、限界以上のエネルギーを注げばどうなるか。力が暴れるに決まってるだろ)
化身は鼻で笑い、アレンの目の前までゆっくりと浮遊して降りてきた。
(お前の『器』は、水溜まりみたいにちっぽけだ。扱える重力のレベルなんてタカが知れてる。なのに、そこへ泥流みたいなスタミナを無理やり流し込んだ。だから制御を失って、真下じゃなく真横に世界の向きがひっくり返ったんだ。まぁ、結果的に黒角のバケモノからは逃げられたみたいだがな)
「重力の、向き……」
アレンは自分の手のひらを見つめた。
あの瞬間、確かに世界が歪んだ。下という概念が、一瞬だけ横に変わったのだ。もしあの力を、ほんの少しでも自分の意志で制御できていたなら。
「なぁ、教えてくれ。どうすれば、あの力をまともに扱える?」
アレンは化身を真っ直ぐに見据えた。すがるためではない。生き延びるための執念だった。
化身は緑色の瞳を細め、アレンの視線を受け止める。だが、やはりその口元に浮かんだのは、意地の悪い笑みだった。
(あぁ? なんで俺がお前に教えなきゃならないんだ? 言っただろ、俺は持ち主を選ばない。お前がここで力尽きて死ねば、俺はまた次の奴に拾われるだけだ。必死に足掻くガキを見るのは嫌いじゃないが……お前を助けてやる義理は、これっぽっちもねえんだよ)
冷酷な言葉。しかし、化身はアレンを完全に見捨てたわけではなかった。彼は、ただ『観察』しているのだ。このちっぽけな器の持ち主が、絶望の中でどう動くのかを。
(せいぜい、自力で考えて足掻いてみせな。――ほら、お寝坊さんの時間は終わりだ。お前の大好きな血の匂いを嗅ぎつけて、外に汚え犬どもが集まってきてるぞ)
「え――」
化身の姿が、陽炎のように揺らぎ始める。
同時に、精神世界の暗闇が急速にひび割れ、現実世界の圧倒的な『激痛』がアレンの五感へと押し寄せてきた。
「がはっ……!」
アレンは、激しい苦悶とともに、現実の荒い土の上で目を覚ました。
---




