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踊れない女領主の婿選び、三人目の侯爵は家具を壊して私の一歩を待つ

作者: 豆田 はち
掲載日:2026/08/22

「その手を離していただけますか」


 フロリアン様は、離さなかった。


 愛想のよい笑顔が、返事の代わりらしい。夫候補としては便利な方だ。こちらの言葉を聞かなくても、ご自分の中ですべての審査を終えられる。


「ご安心ください、シルヴィ様。妻が踊れないなどという噂は、私が舞踏会へお連れすれば消えます。多少の失敗なら、夫の腕で隠して差し上げますよ」


 私の足より先に、ご自分の評判を心配した点だけは評価しましょう。零点が一点になりました。


 二十六歳の女領主に夫が必要だ、と後見人のレミが三人の候補を見つけてきた。その一人目が、いま私の許可なく右手を握っている。


「では、踊りましょう」


「私は踊らないと申し上げました」


「大丈夫。私に任せて」


 何が大丈夫なのかは不明だが、任されたので処理する。


 私は杖の石突きを敷物へ据えた。フロリアン様が私を引く。四拍目。杖を軸に半回転。相手の重心が右足へ移る寸前、握られた手を返して進行方向だけを変える。


 私は元の場所にいた。


 フロリアン様だけが、敷物の外にいた。


 扉の前まで見事にお送りできた。婚礼には早いが、退場にはちょうどよい。


「いま、拍を数えていましたね」


「審査を終了します」


「ですが、あなたは——」


「次のご予定に遅れますわ」


 レミが扉を開けた。フロリアン様は笑顔を探したが、敷物の上にも廊下にも落ちていなかったらしい。


 追いかけて届けるほど親切ではない。私は杖を拾い直した。


 候補、一名減。領地の収支には影響なし。たいへん結構。


    *    *    *


「治すところから始めましょう!」


 二人目のジェローム様は朗らかだった。


 すでに名医へ話を通し、結婚後には回復を披露する舞踏会まで考えているという。私の足は、本人不在のところでずいぶん先まで予定を組まれていた。


「治療の成果を皆に見せれば、心ない呼び名も消えます。踊れない女領主ではなくなるのです」


「第二ヴァイオリンが二小節早いわ」


「はい?」


 開いた窓の外、庭で楽師たちが選定日の曲を試していた。私は窓を見ずに扇を閉じる。


「そこから、もう一度」


 演奏が止まった。


「承知しました」


 楽師たちは私が指摘した小節へ戻り、今度は正しく弾き直した。


 ジェローム様は庭と私を見比べてから、曖昧に笑った。


「耳がよろしいのですね。でしたら治療後の上達も早い」


 何をどうしても治療へ運ぶ。朗らかさとは、頑丈な荷車の別名かもしれない。


 彼が立ち上がる。私は座ったまま扇の先で肘を押した。


「右肘を下げて。踵は半足ぶん内側です」


「この姿勢ですか」


「左へ二拍、右を引いて反転を」


 ジェローム様の身体が、難しい反転歩を一度で通した。本人がいちばん驚き、着地した靴を見下ろす。


「どこでそれを習ったのです」


「審査項目ではありません」


 レミは何も書かず、記録帳を閉じた。


 その音で二人目の審査も終わった。


    *    *    *


 三人目のダミアン様は、私の杖を一度見た。


 見た。目を逸らさなかった。慰める顔もしなかった。


「どの審査なら、私は受けられますか」


 私は返事を忘れかけた。


 踊らせる方法でも、治す方法でもない。本人に審査方法を尋ねる夫候補など、レミはどこから拾ってきたのだろう。侯爵は道端に生えているものではないはずだ。


「私の歩幅に合わせて、広間を一周してください」


「承知しました。手をお借りしても?」


「どうぞ」


 差し出された手に指を置く。ダミアン様は握り込まず、私が体重を預けるまで待った。


 合格。


 まだ一歩も歩いていないのに合格を出すのは早い。取り消し。仮合格。女領主の採点には柔軟性が必要である。


「始めます」


「はい」


 私が右足を出す。彼も出す。


 歩幅が違う。


 ダミアン様は私に合わせようとして途中で足を止め、上体だけが先へ進み、置かれていた椅子へ腰から激突した。


 椅子が倒れた。


 侯爵は倒れなかった。椅子のほうが爵位をわきまえたのだろう。


「お怪我は」


「ありません」


 彼は倒れた椅子を見下ろした。背もたれが一本、清々しく折れている。


「これは侯爵家に伝わる、新しい礼法です」


「名称は?」


「着席を勧められる前に、椅子のほうから辞退させる礼」


「長いので記録しにくいわ」


「では、先制辞席の礼で」


 私はレミを見る。


「記録を」


「事故一件、と記載します」


 事務語は強い。侯爵家の伝統が一行で事故になった。


 ダミアン様は折れた背もたれを拾い、椅子へ頭を下げた。


「申し訳ない」


「家具へ謝る候補は初めてです」


「あなたの歩幅へ合わせるより、社交界の中央を歩くほうが簡単だと判明しました」


「お帰りになりますか」


「まさか。椅子一脚に侯爵が負けたと広まります」


「もう負けています」


「再戦を希望します」


 私の口元が動きそうになった。いけない。審査中である。女領主は威厳を保たねばならない。椅子を一撃で破壊した男の前でも。


「再戦は明朝です」


「今度は家具の配置を覚えてきます」


「私の歩幅を覚えてください」


 ダミアン様の顔から、作りかけの笑みが消えた。


「はい。そちらを覚えます」


 翌朝、彼は約束の時刻より早く来た。


 椅子の位置を確かめるためではなかった。私が広間へ入ると、ダミアン様は杖の側に立ち、昨日より半足ぶん狭く足を開いた。


「これでも、まだ広いでしょうか」


「一歩目を見なければ判断できません」


「手をお借りしても?」


「どうぞ」


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 今度は何も壊れない。


 四歩目で彼は成功を確信したらしく、ほんの少し顎を上げた。自信とは事故の予告状である。私は近くの花台に目をやった。


 まだ無傷。


 よし。審査続行。


    *    *    *


 花台は翌々日に重傷を負った。


 私が曲がるため歩幅を狭めたところ、ダミアン様も狭めすぎ、両足が仲良く相談を始めたのだ。相談中の足は役に立たない。肩が花台へ触れ、花瓶が傾いた。


 ダミアン様は私の手を離した。


 花瓶を受け止めた。


 安心した瞬間、花台本体が床へ倒れ、脚を一本失った。


 救命対象を間違えている。


「花瓶は軽傷。花台は重傷。侯爵家の威厳は行方不明です」


「新しい礼法です」


「名称は?」


「花を守って台を切り捨てる、選択的献身の礼」


「花台から抗議が来ます」


「全額、私が賠償します」


 翌朝、練習場所が変わった。


 ダミアン様が使用人たちへ頼み、壊れ物の少ない小広間を用意していた。壁際には長椅子も燭台もない。あるのは絨毯と窓と、逃げ場を得た家具たちの安堵だけ。


「これなら何も壊しません」


「建物そのものへ衝突した場合は?」


「大広間を新築します」


「領内の石工が喜びますわ」


 彼は修理費をレミへ預けるだけでなく、花台を運んだ使用人を一人ずつ呼び止めた。


「余計な仕事を増やした。すまない」


「職務ですので」


「では、その職務を増やさない時間に変えたい。明日から練習を朝一番にしてもらえるだろうか」


 使用人は私を見た。私は頷く。


「承知しました。朝食の支度前なら、人手を割かずに済みます」


 同情にしては手間が細かい。


 いいえ、だからこそ同情かもしれない。気の毒な女領主に恥をかかせぬよう、侯爵が善行を積んでいる。親切な人ほど厄介だ。善意には請求書の宛先がない。


 三日後、小広間が補修に入ったため、私たちは別室を使った。


 そこには屏風が一枚だけ残されていた。


 嫌な予感というものは、たいてい家具の姿をしている。


「今日は引かないでください」


「前回、私が先に曲がりました」


「私の曲がる方向ではなく、肩の動きを見て」


「はい」


 ダミアン様は私の肩を見た。


 見すぎた。


 自分の進行方向を見失った。


 屏風へ背中から突っ込み、二枚目と三枚目の境目を見事に開いた。布が裂ける音は、侯爵の自尊心が救助を求める声によく似ていた。


「屏風は意識不明。侯爵家の威厳は搬送先が決まっていません」


「これも、新しい礼法です」


「名称は?」


「壁の向こうへ最短で挨拶する、貫通礼です」


「挨拶相手がいません」


「失敗しました」


「礼法として致命傷ですわね」


 使用人たちが屏風を担ぎ上げた。一人が空になった部屋を見回す。


「次回は、何をどちらへ運べばよろしいでしょう」


「何も置かないでくれ」


 ダミアン様は即答した。


 そして次の練習から、私を引くのをやめた。


 彼が半歩、縮む。私が進む。彼が待つ。曲がるときは私の杖が床を離れる音を聞き、遅れてついてくる。


 社交舞踏としては、あまり美しくない。


 私には美しかった。


 困る。非常に困る。花台の修理費へ上乗せして、こちらの判断力まで弁償していただきたい。


 ある朝、私の裾が靴の下へ入りかけた。


 ダミアン様の手が腰へ伸びる。


 触れる寸前で止まった。


「支えても?」


 私は裾を杖の先で外した。


「もう大丈夫です」


「そうですか」


 彼は手を引いた。


 不満も、照れ隠しも、せっかく助けようとしたのにという顔もない。ただ次の一歩を待った。


 これで候補から外しにくくなった。


 ならば別の理由を探せばよい。侯爵は領地を持つ。社交界の付き合いも多い。踊らない妻では不都合がある。やがて彼も私を舞踏会へ連れ出したくなる。いまの努力は、そのための準備だ。


「選定日には、皆の前で一曲を」


 レミが予定を確認すると、ダミアン様は私ではなく、記録帳を見た。


「それは審査に必要ですか」


「候補者の技量を見る名目ではあります」


「彼女が踊ることも条件に?」


 レミは答えず、私を見た。


「私は人前では踊りません。審査は予定どおり行います」


 私はそう言った。


 ダミアン様は一礼した。


 その日から、彼は練習へ来なくなった。


 ほら。


 やはり同情だったのだ。公開の場で私が踊れないとわかれば、ご自分まで笑われる。壊した家具の数が侯爵の親切の上限だったらしい。


 椅子、花台、屏風。三点。


 ずいぶん高価な同情である。


    *    *    *


 選定日の朝、広間には楽師と使用人が並んでいた。


 中央だけが空いている。


 ダミアン様のために空けた場所ではない。踊れない女領主が、三人目の侯爵にも見限られる場所だ。


 レミが記録帳を開く。


「ダミアン様は辞退を申し出られました」


「そう」


 杖の握りへ爪が当たった。


「理由は?」


「ご本人から聞かれますか」


「必要ありません。審査結果だけを」


「では記録します。ダミアン様は、公開舞踏を強いることが夫の条件なら、自分が候補を降りる、と」


 広間の楽師が音合わせを始めた。


 第二ヴァイオリンは正しい小節で入った。


「どちらに?」


「先ほど退出を。回廊を抜けたところかと」


 私は立った。


「シルヴィ様」


「審査に必要です」


 何が必要なのかは知らない。杖を持ち、広間を出る。裾が足へ絡む。廊下が長い。侯爵の歩幅で去る男を、私の歩幅で追うのは腹立たしいほど難しい。


 階段の手前で姿を見つけた。


「ダミアン様」


 彼が振り返る。


「お見送りは不要です」


「していません。審査の途中です」


「私は降りました」


「私の許可なく?」


「候補を辞めるのにも、許可が必要でしたか」


「私に関わる判断を、私のいないところで済ませました」


 彼の口が閉じた。


 そこは反省していただきたい。尊重は万能の免罪符ではない。女領主の採点は細かいのである。


「空の広間へ戻ってください」


 彼は理由を尋ねず、私の後ろを歩いた。


 楽師も使用人もいない、練習用の広間へ入る。壊れ物はすべて運び出され、絨毯だけが残っていた。侯爵一人を置くには十分だ。


「なぜ辞退したのです」


「あなたが望まない舞踏を、夫になるための条件にしたくなかったからです」


「私が踊れないから、手を放したのではなく?」


「あなたが嫌だと言ったから、放しました」


 答えが短い。


 言い訳を積む余地も、同情を飾る余地もない。


「私は、見限られたのだと思いました」


「私は、とっくに拒絶されていると思っていました」


「なぜです」


「あなたは私を候補から外す理由ばかり探していた」


「気づいていたのですか」


「家具を見る目より、私を見る目のほうが厳しかったので」


 気づかれていた。


 鈍いのは足運びだけだったらしい。たいへん失礼した。心中で。まだ口には出さない。


「それでも練習を続けたのですね」


「私が上手になれば、あなたが一歩ぶん楽になるかと思った」


「舞踏会へ出すためではなく?」


「出たいのですか」


「出ません」


「では、出ない」


 杖の握りに食い込ませていた爪を、一本離した。


 私は杖を握り直す。


「フロリアン様を敷物から出したとき、私は拍を数えました」


「はい」


「庭の演奏が二小節ずれたこともわかった。ジェローム様の反転歩も、扇で直した」


「見ていました」


「あれで、何を思いましたか」


「あなたは踊れないのではなく、踊らないのかもしれない、と」


「なぜ聞かなかったのです」


「聞けば、答えなければならない顔をしていたからです」


 問いを飲み込むことまで、彼は練習していた。


 私は仮面をつけていた頃の自分を思い出す。顔も、名も、杖も隠し、貴族たちの重心を直した。誰の手を取るときも、先に許可を求めた。踊れない女領主だと知られる前なら、彼らは私の言葉を聞いた。


「かつて、灰色の仮面をつけて舞踏を教えていました」


 ダミアン様の眉が動く。


「灰色の先生」


「ええ」


「王都で、難しい反転歩を扇一本で教えたという」


「私です」


 彼は杖を見なかった。


 私の足にも、仮面のない顔にも、証明を求める目を向けなかった。


「踊れないのではありません。古傷はあります。大きく踏めない日もある。けれど、踊り方は知っています」


「はい」


「皆の前では踊りません。傷が痛むか、転ぶか、克服できるか。そんな賭けの見世物になるのは、もう嫌です」


「はい」


「驚かないのですか」


「驚いています」


「そう見えません」


「椅子と花台と屏風を壊した男が、いまさら顔まで壊すわけにはいきません」


 危ない。笑ってしまう。


 まだ聞くことがある。ここで軽くしてはいけない。


「あなたは、私が踊れないから手を放したのですか。それとも、私が嫌だと言ったから?」


「嫌だと言ったからです」


「踊れると知ったいまは?」


「あなたが踊らないなら、私も公開の舞踏を辞退します」


「名誉ある役目です」


「あなたの拒絶を踏み越えて得る名誉なら、私には大きすぎる」


 ダミアン様は右手を差し出した。


 私には触れない。


「この手を取っていただけますか」


「何のために?」


「夫候補として、最後の審査を受けるために」


「踊ってほしいとは言わないのですね」


「あなたが決めてください。歩くなら歩く。止まるなら待つ。踊らないなら、このまま手を下ろします」


 差し出された手は動かない。


 私を引かない。正しさを証明しろと急かさない。秘密を知った褒美も求めない。


 椅子を壊した翌朝、歩幅を狭めた。


 花台を倒した翌朝、場所を変えた。


 屏風を破った次には、私を引くのをやめた。


 裾を踏みかけたとき、手を止めた。


 そしていま、侯爵の名誉まで床へ置いて、私の一歩を待っている。


 謝罪ではない。親切でもない。


 この人は、失敗するたびに選び直したのだ。私が嫌だと言ったものを捨て、私が選べる場所を残すほうへ。


 ならば私も、選び直せる。


 私は杖を左手へ持ち替えた。


 右手を上げる。


 彼の指先へ触れたところで止めると、ダミアン様は握らなかった。私が掌を重ねるまで待っていた。


 まったく。最後まで審査項目を守るつもりらしい。


「広間を一周します」


「はい」


「私の歩幅で」


「はい」


「その後、レミの前へ戻ります。私があなたを選んだと記録させます」


 ダミアン様の指が、ほんの少し震えた。


「承知しました」


 彼は私より半歩だけ短く踏み出した。


 私が進むまで、次へ行かない。


 一歩。


 杖の音。


 もう一歩。


 家具のない広間を半周したところで、私は進路を変えた。ダミアン様は肩の動きを見て、遅れてついてくる。美しい型ではない。誰にも披露できない。


 だから、ちょうどよかった。


 レミのいる広間へ戻ると、楽師たちが一斉に立ち上がった。


「演奏は不要です」


 私は告げた。


「本日の公開舞踏は中止します。今後も、私が望まないかぎり行いません」


「承知しました」


 楽師たちは楽器を下ろした。


 レミが記録帳を開く。


「選定結果を」


「ダミアン様を、私の夫に選びます」


「理由も記録しますか」


「家具三点の損壊と、その後の改善」


「婚姻記録としては異例です」


「では、私の拒絶を聞き、そのたび行動を変えたため、と」


 レミのペンが紙を走った。


「確定しました」


 私は隣の男を見上げる。


「ダミアン」


「はい」


「一歩目から、やり直しましょう」


 夫は私の手を引かなかった。


 私が踏み出してから、自分の足を運んだ。


 一歩目で夫は転びませんでした。今朝最大の慶事です。

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