踊れない女領主の婿選び、三人目の侯爵は家具を壊して私の一歩を待つ
「その手を離していただけますか」
フロリアン様は、離さなかった。
愛想のよい笑顔が、返事の代わりらしい。夫候補としては便利な方だ。こちらの言葉を聞かなくても、ご自分の中ですべての審査を終えられる。
「ご安心ください、シルヴィ様。妻が踊れないなどという噂は、私が舞踏会へお連れすれば消えます。多少の失敗なら、夫の腕で隠して差し上げますよ」
私の足より先に、ご自分の評判を心配した点だけは評価しましょう。零点が一点になりました。
二十六歳の女領主に夫が必要だ、と後見人のレミが三人の候補を見つけてきた。その一人目が、いま私の許可なく右手を握っている。
「では、踊りましょう」
「私は踊らないと申し上げました」
「大丈夫。私に任せて」
何が大丈夫なのかは不明だが、任されたので処理する。
私は杖の石突きを敷物へ据えた。フロリアン様が私を引く。四拍目。杖を軸に半回転。相手の重心が右足へ移る寸前、握られた手を返して進行方向だけを変える。
私は元の場所にいた。
フロリアン様だけが、敷物の外にいた。
扉の前まで見事にお送りできた。婚礼には早いが、退場にはちょうどよい。
「いま、拍を数えていましたね」
「審査を終了します」
「ですが、あなたは——」
「次のご予定に遅れますわ」
レミが扉を開けた。フロリアン様は笑顔を探したが、敷物の上にも廊下にも落ちていなかったらしい。
追いかけて届けるほど親切ではない。私は杖を拾い直した。
候補、一名減。領地の収支には影響なし。たいへん結構。
* * *
「治すところから始めましょう!」
二人目のジェローム様は朗らかだった。
すでに名医へ話を通し、結婚後には回復を披露する舞踏会まで考えているという。私の足は、本人不在のところでずいぶん先まで予定を組まれていた。
「治療の成果を皆に見せれば、心ない呼び名も消えます。踊れない女領主ではなくなるのです」
「第二ヴァイオリンが二小節早いわ」
「はい?」
開いた窓の外、庭で楽師たちが選定日の曲を試していた。私は窓を見ずに扇を閉じる。
「そこから、もう一度」
演奏が止まった。
「承知しました」
楽師たちは私が指摘した小節へ戻り、今度は正しく弾き直した。
ジェローム様は庭と私を見比べてから、曖昧に笑った。
「耳がよろしいのですね。でしたら治療後の上達も早い」
何をどうしても治療へ運ぶ。朗らかさとは、頑丈な荷車の別名かもしれない。
彼が立ち上がる。私は座ったまま扇の先で肘を押した。
「右肘を下げて。踵は半足ぶん内側です」
「この姿勢ですか」
「左へ二拍、右を引いて反転を」
ジェローム様の身体が、難しい反転歩を一度で通した。本人がいちばん驚き、着地した靴を見下ろす。
「どこでそれを習ったのです」
「審査項目ではありません」
レミは何も書かず、記録帳を閉じた。
その音で二人目の審査も終わった。
* * *
三人目のダミアン様は、私の杖を一度見た。
見た。目を逸らさなかった。慰める顔もしなかった。
「どの審査なら、私は受けられますか」
私は返事を忘れかけた。
踊らせる方法でも、治す方法でもない。本人に審査方法を尋ねる夫候補など、レミはどこから拾ってきたのだろう。侯爵は道端に生えているものではないはずだ。
「私の歩幅に合わせて、広間を一周してください」
「承知しました。手をお借りしても?」
「どうぞ」
差し出された手に指を置く。ダミアン様は握り込まず、私が体重を預けるまで待った。
合格。
まだ一歩も歩いていないのに合格を出すのは早い。取り消し。仮合格。女領主の採点には柔軟性が必要である。
「始めます」
「はい」
私が右足を出す。彼も出す。
歩幅が違う。
ダミアン様は私に合わせようとして途中で足を止め、上体だけが先へ進み、置かれていた椅子へ腰から激突した。
椅子が倒れた。
侯爵は倒れなかった。椅子のほうが爵位をわきまえたのだろう。
「お怪我は」
「ありません」
彼は倒れた椅子を見下ろした。背もたれが一本、清々しく折れている。
「これは侯爵家に伝わる、新しい礼法です」
「名称は?」
「着席を勧められる前に、椅子のほうから辞退させる礼」
「長いので記録しにくいわ」
「では、先制辞席の礼で」
私はレミを見る。
「記録を」
「事故一件、と記載します」
事務語は強い。侯爵家の伝統が一行で事故になった。
ダミアン様は折れた背もたれを拾い、椅子へ頭を下げた。
「申し訳ない」
「家具へ謝る候補は初めてです」
「あなたの歩幅へ合わせるより、社交界の中央を歩くほうが簡単だと判明しました」
「お帰りになりますか」
「まさか。椅子一脚に侯爵が負けたと広まります」
「もう負けています」
「再戦を希望します」
私の口元が動きそうになった。いけない。審査中である。女領主は威厳を保たねばならない。椅子を一撃で破壊した男の前でも。
「再戦は明朝です」
「今度は家具の配置を覚えてきます」
「私の歩幅を覚えてください」
ダミアン様の顔から、作りかけの笑みが消えた。
「はい。そちらを覚えます」
翌朝、彼は約束の時刻より早く来た。
椅子の位置を確かめるためではなかった。私が広間へ入ると、ダミアン様は杖の側に立ち、昨日より半足ぶん狭く足を開いた。
「これでも、まだ広いでしょうか」
「一歩目を見なければ判断できません」
「手をお借りしても?」
「どうぞ」
一歩。
二歩。
三歩。
今度は何も壊れない。
四歩目で彼は成功を確信したらしく、ほんの少し顎を上げた。自信とは事故の予告状である。私は近くの花台に目をやった。
まだ無傷。
よし。審査続行。
* * *
花台は翌々日に重傷を負った。
私が曲がるため歩幅を狭めたところ、ダミアン様も狭めすぎ、両足が仲良く相談を始めたのだ。相談中の足は役に立たない。肩が花台へ触れ、花瓶が傾いた。
ダミアン様は私の手を離した。
花瓶を受け止めた。
安心した瞬間、花台本体が床へ倒れ、脚を一本失った。
救命対象を間違えている。
「花瓶は軽傷。花台は重傷。侯爵家の威厳は行方不明です」
「新しい礼法です」
「名称は?」
「花を守って台を切り捨てる、選択的献身の礼」
「花台から抗議が来ます」
「全額、私が賠償します」
翌朝、練習場所が変わった。
ダミアン様が使用人たちへ頼み、壊れ物の少ない小広間を用意していた。壁際には長椅子も燭台もない。あるのは絨毯と窓と、逃げ場を得た家具たちの安堵だけ。
「これなら何も壊しません」
「建物そのものへ衝突した場合は?」
「大広間を新築します」
「領内の石工が喜びますわ」
彼は修理費をレミへ預けるだけでなく、花台を運んだ使用人を一人ずつ呼び止めた。
「余計な仕事を増やした。すまない」
「職務ですので」
「では、その職務を増やさない時間に変えたい。明日から練習を朝一番にしてもらえるだろうか」
使用人は私を見た。私は頷く。
「承知しました。朝食の支度前なら、人手を割かずに済みます」
同情にしては手間が細かい。
いいえ、だからこそ同情かもしれない。気の毒な女領主に恥をかかせぬよう、侯爵が善行を積んでいる。親切な人ほど厄介だ。善意には請求書の宛先がない。
三日後、小広間が補修に入ったため、私たちは別室を使った。
そこには屏風が一枚だけ残されていた。
嫌な予感というものは、たいてい家具の姿をしている。
「今日は引かないでください」
「前回、私が先に曲がりました」
「私の曲がる方向ではなく、肩の動きを見て」
「はい」
ダミアン様は私の肩を見た。
見すぎた。
自分の進行方向を見失った。
屏風へ背中から突っ込み、二枚目と三枚目の境目を見事に開いた。布が裂ける音は、侯爵の自尊心が救助を求める声によく似ていた。
「屏風は意識不明。侯爵家の威厳は搬送先が決まっていません」
「これも、新しい礼法です」
「名称は?」
「壁の向こうへ最短で挨拶する、貫通礼です」
「挨拶相手がいません」
「失敗しました」
「礼法として致命傷ですわね」
使用人たちが屏風を担ぎ上げた。一人が空になった部屋を見回す。
「次回は、何をどちらへ運べばよろしいでしょう」
「何も置かないでくれ」
ダミアン様は即答した。
そして次の練習から、私を引くのをやめた。
彼が半歩、縮む。私が進む。彼が待つ。曲がるときは私の杖が床を離れる音を聞き、遅れてついてくる。
社交舞踏としては、あまり美しくない。
私には美しかった。
困る。非常に困る。花台の修理費へ上乗せして、こちらの判断力まで弁償していただきたい。
ある朝、私の裾が靴の下へ入りかけた。
ダミアン様の手が腰へ伸びる。
触れる寸前で止まった。
「支えても?」
私は裾を杖の先で外した。
「もう大丈夫です」
「そうですか」
彼は手を引いた。
不満も、照れ隠しも、せっかく助けようとしたのにという顔もない。ただ次の一歩を待った。
これで候補から外しにくくなった。
ならば別の理由を探せばよい。侯爵は領地を持つ。社交界の付き合いも多い。踊らない妻では不都合がある。やがて彼も私を舞踏会へ連れ出したくなる。いまの努力は、そのための準備だ。
「選定日には、皆の前で一曲を」
レミが予定を確認すると、ダミアン様は私ではなく、記録帳を見た。
「それは審査に必要ですか」
「候補者の技量を見る名目ではあります」
「彼女が踊ることも条件に?」
レミは答えず、私を見た。
「私は人前では踊りません。審査は予定どおり行います」
私はそう言った。
ダミアン様は一礼した。
その日から、彼は練習へ来なくなった。
ほら。
やはり同情だったのだ。公開の場で私が踊れないとわかれば、ご自分まで笑われる。壊した家具の数が侯爵の親切の上限だったらしい。
椅子、花台、屏風。三点。
ずいぶん高価な同情である。
* * *
選定日の朝、広間には楽師と使用人が並んでいた。
中央だけが空いている。
ダミアン様のために空けた場所ではない。踊れない女領主が、三人目の侯爵にも見限られる場所だ。
レミが記録帳を開く。
「ダミアン様は辞退を申し出られました」
「そう」
杖の握りへ爪が当たった。
「理由は?」
「ご本人から聞かれますか」
「必要ありません。審査結果だけを」
「では記録します。ダミアン様は、公開舞踏を強いることが夫の条件なら、自分が候補を降りる、と」
広間の楽師が音合わせを始めた。
第二ヴァイオリンは正しい小節で入った。
「どちらに?」
「先ほど退出を。回廊を抜けたところかと」
私は立った。
「シルヴィ様」
「審査に必要です」
何が必要なのかは知らない。杖を持ち、広間を出る。裾が足へ絡む。廊下が長い。侯爵の歩幅で去る男を、私の歩幅で追うのは腹立たしいほど難しい。
階段の手前で姿を見つけた。
「ダミアン様」
彼が振り返る。
「お見送りは不要です」
「していません。審査の途中です」
「私は降りました」
「私の許可なく?」
「候補を辞めるのにも、許可が必要でしたか」
「私に関わる判断を、私のいないところで済ませました」
彼の口が閉じた。
そこは反省していただきたい。尊重は万能の免罪符ではない。女領主の採点は細かいのである。
「空の広間へ戻ってください」
彼は理由を尋ねず、私の後ろを歩いた。
楽師も使用人もいない、練習用の広間へ入る。壊れ物はすべて運び出され、絨毯だけが残っていた。侯爵一人を置くには十分だ。
「なぜ辞退したのです」
「あなたが望まない舞踏を、夫になるための条件にしたくなかったからです」
「私が踊れないから、手を放したのではなく?」
「あなたが嫌だと言ったから、放しました」
答えが短い。
言い訳を積む余地も、同情を飾る余地もない。
「私は、見限られたのだと思いました」
「私は、とっくに拒絶されていると思っていました」
「なぜです」
「あなたは私を候補から外す理由ばかり探していた」
「気づいていたのですか」
「家具を見る目より、私を見る目のほうが厳しかったので」
気づかれていた。
鈍いのは足運びだけだったらしい。たいへん失礼した。心中で。まだ口には出さない。
「それでも練習を続けたのですね」
「私が上手になれば、あなたが一歩ぶん楽になるかと思った」
「舞踏会へ出すためではなく?」
「出たいのですか」
「出ません」
「では、出ない」
杖の握りに食い込ませていた爪を、一本離した。
私は杖を握り直す。
「フロリアン様を敷物から出したとき、私は拍を数えました」
「はい」
「庭の演奏が二小節ずれたこともわかった。ジェローム様の反転歩も、扇で直した」
「見ていました」
「あれで、何を思いましたか」
「あなたは踊れないのではなく、踊らないのかもしれない、と」
「なぜ聞かなかったのです」
「聞けば、答えなければならない顔をしていたからです」
問いを飲み込むことまで、彼は練習していた。
私は仮面をつけていた頃の自分を思い出す。顔も、名も、杖も隠し、貴族たちの重心を直した。誰の手を取るときも、先に許可を求めた。踊れない女領主だと知られる前なら、彼らは私の言葉を聞いた。
「かつて、灰色の仮面をつけて舞踏を教えていました」
ダミアン様の眉が動く。
「灰色の先生」
「ええ」
「王都で、難しい反転歩を扇一本で教えたという」
「私です」
彼は杖を見なかった。
私の足にも、仮面のない顔にも、証明を求める目を向けなかった。
「踊れないのではありません。古傷はあります。大きく踏めない日もある。けれど、踊り方は知っています」
「はい」
「皆の前では踊りません。傷が痛むか、転ぶか、克服できるか。そんな賭けの見世物になるのは、もう嫌です」
「はい」
「驚かないのですか」
「驚いています」
「そう見えません」
「椅子と花台と屏風を壊した男が、いまさら顔まで壊すわけにはいきません」
危ない。笑ってしまう。
まだ聞くことがある。ここで軽くしてはいけない。
「あなたは、私が踊れないから手を放したのですか。それとも、私が嫌だと言ったから?」
「嫌だと言ったからです」
「踊れると知ったいまは?」
「あなたが踊らないなら、私も公開の舞踏を辞退します」
「名誉ある役目です」
「あなたの拒絶を踏み越えて得る名誉なら、私には大きすぎる」
ダミアン様は右手を差し出した。
私には触れない。
「この手を取っていただけますか」
「何のために?」
「夫候補として、最後の審査を受けるために」
「踊ってほしいとは言わないのですね」
「あなたが決めてください。歩くなら歩く。止まるなら待つ。踊らないなら、このまま手を下ろします」
差し出された手は動かない。
私を引かない。正しさを証明しろと急かさない。秘密を知った褒美も求めない。
椅子を壊した翌朝、歩幅を狭めた。
花台を倒した翌朝、場所を変えた。
屏風を破った次には、私を引くのをやめた。
裾を踏みかけたとき、手を止めた。
そしていま、侯爵の名誉まで床へ置いて、私の一歩を待っている。
謝罪ではない。親切でもない。
この人は、失敗するたびに選び直したのだ。私が嫌だと言ったものを捨て、私が選べる場所を残すほうへ。
ならば私も、選び直せる。
私は杖を左手へ持ち替えた。
右手を上げる。
彼の指先へ触れたところで止めると、ダミアン様は握らなかった。私が掌を重ねるまで待っていた。
まったく。最後まで審査項目を守るつもりらしい。
「広間を一周します」
「はい」
「私の歩幅で」
「はい」
「その後、レミの前へ戻ります。私があなたを選んだと記録させます」
ダミアン様の指が、ほんの少し震えた。
「承知しました」
彼は私より半歩だけ短く踏み出した。
私が進むまで、次へ行かない。
一歩。
杖の音。
もう一歩。
家具のない広間を半周したところで、私は進路を変えた。ダミアン様は肩の動きを見て、遅れてついてくる。美しい型ではない。誰にも披露できない。
だから、ちょうどよかった。
レミのいる広間へ戻ると、楽師たちが一斉に立ち上がった。
「演奏は不要です」
私は告げた。
「本日の公開舞踏は中止します。今後も、私が望まないかぎり行いません」
「承知しました」
楽師たちは楽器を下ろした。
レミが記録帳を開く。
「選定結果を」
「ダミアン様を、私の夫に選びます」
「理由も記録しますか」
「家具三点の損壊と、その後の改善」
「婚姻記録としては異例です」
「では、私の拒絶を聞き、そのたび行動を変えたため、と」
レミのペンが紙を走った。
「確定しました」
私は隣の男を見上げる。
「ダミアン」
「はい」
「一歩目から、やり直しましょう」
夫は私の手を引かなかった。
私が踏み出してから、自分の足を運んだ。
一歩目で夫は転びませんでした。今朝最大の慶事です。




