二時十三分の時刻表
そのバス停にだけ、時刻表が増える夜がある。
そのバス停にだけ、時刻表が増える夜がある。
今はもう路線そのものが廃止されていて、昼に見れば色褪せた案内板と錆びたベンチが残っているだけの、ただの古い停留所だ。地元の人間だって、もうほとんど気にしていない。そこにバスが来ないことは、この町では当たり前になっている。
なのに深夜二時十三分になると、案内板の中に白い紙が一枚増える。
二時十三分
終点行
最初は悪戯だと思っていた。
でも、あれは違った。
あのバスは、死んだ人を乗せるために来るんじゃない。
これから死ぬ人間を、先に待たせておくために来る。
……そう考えるしかないものを、僕は見た。
きっかけは、コンビニの夜勤だった。
高校を出てすぐ一人暮らしを始めてから、僕はずっと似たような生活をしてきた。昼に寝て、夜に働いて、朝方の静かな町を帰る。安いアパートで、必要なものだけ買って、必要な人とだけ話す。親も兄弟もいないと、生活って案外すぐ形になる。誰にも待たれない代わりに、誰にも気を遣わなくて済む。最初はその静けさがきつかったけど、そのうち、それが普通になった。
その頃住んでいたのは、県境に近い地方都市のはずれだった。駅前だけ妙に新しくて、少し外れると古い団地や細い旧道が残っているような町だ。僕のアパートは駅から歩いて二十分ちょっと。川沿いの道を抜けて、使われなくなった団地の下を通る古い坂道の近くにあった。
旧道の坂を上がる途中に、古いバス停がある。
青いトタン屋根。白かったはずの支柱は下半分が赤茶けていて、ベンチも塗装が剥がれて木目が露出している。案内板のガラスは内側から薄く曇っていて、路線図は昔のまま、町名も合併前の表記で止まっていた。昼間に見れば、もう誰にも使われない設備だとすぐわかる。
でも夜になると、そこだけ妙に目についた。
街灯が一本切れていて、バス停の周りだけがぽっかり暗い。なのに屋根の青だけが変に浮いて見える。初めて見たときから、少し嫌な感じはしていた。別に心霊スポットみたいな派手さはない。ただ、誰かに忘れられた場所というより、何かがまだ使っている場所みたいに見えることがあった。
最初にその話を聞いたのは、夜勤中だった。
よく来るタクシー運転手がいて、缶コーヒーを買うたびに、たいして面白くもない噂話をレジに置いていく男だった。工事の話、事故の話、どこそこの家が揉めてるとか、そういうどうでもいい話ばかりする。でも、その日だけは妙に具体的だった。
「旧道の上のバス停、知ってるか」
深夜一時半を過ぎた頃で、店内には他に客がいなかった。
「青い屋根のやつですか」
「そうそう。もう路線ないのに、たまに待ってるのがいるんだよ」
男は千円札をトレイに置きながら、何でもないことみたいに言った。
「待ってるって、何をですか」
「決まってるだろ。バスだよ」
笑うかと思ったら、男は笑わなかった。
「二時十三分。ぴったり。前後に車なんか通ってねえのに、気づくと明かりだけ近づいてくる。で、停まる」
「見たんですか」
「見たやつはいる。乗ったやつはいない」
「なんで」
「来たのを見た時点で、みんな逃げるからだよ」
そこでやっと男は口元だけで笑った。
「まあ、逃げられたなら、だけどな」
胸糞の悪い言い方だと思った。作り話にしても趣味が悪い。僕は適当に流したけど、二時十三分という中途半端な時刻だけが妙に頭に残った。
その三日後、僕はそのバス停で、最初の違和感を見た。
夜勤明けで、二時を少し過ぎていた。いつものように川沿いを歩いて、旧道に出て、坂を上がる。遠くに青い屋根が見えたとき、ベンチに誰か座っているのがわかった。
女だったと思う。
髪が長くて、少し猫背で、膝を揃えて座っていた。街灯が弱くて細部は見えない。でも、確かに誰かがいた。
こんな時間に、こんな場所で、何をしてるんだろうと思った。終電はとっくに終わってるし、車道だってこの時間はほとんど車が通らない。人待ちにしても不自然だった。
そのまま通り過ぎるのも気味が悪くて、足音をできるだけ小さくして近づいた。
あと十メートルくらいのところで、誰もいないことに気づいた。
立ち去るところも見ていない。物陰なんかない。細い坂道の片側は法面、反対側は低いガードレールと斜面だ。隠れようがないのに、ベンチは空だった。
でも、ベンチの端だけが、わずかに濡れていた。
その日は雨なんか降っていなかったのに、誰かがさっきまで座っていたみたいに、そこだけ色が違って見えた。
嫌な感じがして、僕は立ち止まらずに通り過ぎた。
帰ってシャワーを浴びても、あの座っていたはずの女の姿が頭から消えなかった。思い返すと、おかしなことばかりだった。髪の長さや服の感じは覚えているのに、肝心の顔を思い出そうとすると、どうしても輪郭が曖昧になる。うつむいていたから見えなかっただけのはずなのに、最初からそこだけ切り取られているみたいだった。
次の夜、店でその話をしたら、大学生のバイト仲間の佐久間が妙に食いついた。
「それ、旧道の廃バス停の話ですよね」
「たぶんそう」
「やっぱりあるんだなあ」
こいつはネットの怪談話を何でも現実に結びつける悪い癖がある。怖がりのくせに、怖い話を探してくるタイプだ。
「何があるんだよ」
「昔の掲示板で見たんですよ。廃止された路線のバスが深夜に来て、乗ると帰ってこないって話。場所はぼかされてたけど、団地の上、旧道、二時台って条件がかなり近かった」
「創作だろ」
「まあ、たぶん。でも、こういうのって元になった事故とかは実際あること多いんですよ」
佐久間は休憩室でスマホをいじり始めた。しばらくして、古いまとめサイトみたいな画面を見せてくる。
雑多な書き込みの中に、こういう文があった。
『今は使ってないバス停なのに、時刻表が一枚だけ増えることがある』
『二時十三分発』
『行先は終点』
『見つけても剥がすな』
その下に貼られていた荒い写真を見た瞬間、背中が冷たくなった。
暗くてぼやけているけど、どう見てもあのバス停だった。案内板のガラスの内側に、白い縦長の紙が一枚貼られている。
「釣り画像だろ」
「かもしれませんけど、投稿かなり古いですよ。スマホの画質っていうより、ガラケー時代っぽい感じだし」
そんなの、だから何だと思った。思ったはずなのに、帰り道は結局遠回りしていた。
それから数日、僕は旧道を避けた。
でも気になりだすと、人間って面倒なもので、見なければ見ないほど頭から離れなくなる。あれは本当に見間違いだったのか。バス停の写真も、よくある怪談のコピペの一部だったのか。ただ、それだけ確かめたくなって、僕はまた旧道を通った。
その日は雨上がりで、アスファルトが鈍く光っていた。二時十分。嫌な時間だなと思いながら坂を上がると、バス停には誰もいなかった。
案内板も、いつもの古い路線図のままに見える。
馬鹿みたいだなと思って、そのまま通り過ぎかけた時、背後で紙が擦れるような乾いた音がした。
振り向くと、案内板のガラスの内側に、白い紙が増えていた。
さっきまでなかったはずの、細長い紙が一枚。
心臓が変に強く打ち始めた。見たくないのに、足が勝手に戻る。濡れた路面を靴底がきゅっと鳴らす。その小さな音だけが妙に大きく感じた。
紙には、手書きみたいな文字でこう書いてあった。
二時十三分
終点行
その瞬間、坂の下の方から、低いエンジン音みたいなものが聞こえた。
車の音とは違う。もっと鈍くて、古い機械が息を吹き返すような音だった。
僕は反射的に走っていた。
振り返らなかった。坂を駆け上がって、団地跡の横を抜けて、大通りまで出て、コンビニの明かりが見えるところまで走って、ようやく足が止まった。スマホを見ると、二時十三分を一分過ぎていた。
翌日、昼に目が覚めてからも、あの紙のことばかり考えていた。
終点行。
普通の路線バスなら、行先は地名で書く。駅前とか、市役所前とか、団地中央とか。わざわざ「終点」なんて書き方をする理由がない。雑な書き方じゃなくて、むしろ変に丁寧だった。誰かに誤解の余地を与えたくないみたいに見えた。
僕はスマホで、その辺りの古い路線を調べ始めた。
市の図書館が公開している広報誌のバックナンバーや、昔の地域交通に関する資料を見ていくと、上の団地へ向かう循環線が十年以上前に廃止されていることはすぐわかった。人口減少で赤字が続いて、便数削減の末に廃止。よくある話だ。
ただ、途中で一件だけ嫌な見出しが出てきた。
『旧上団地線車両事故、乗員乗客死亡』
地方紙の古い記事だった。見出ししか無料では見られない。でも、それだけで充分気味が悪い。路線名が合っているし、事故という単語の位置が、怪談の作り話の元ネタみたいにぴったりだった。
その日の夜、店で佐久間に話すと、こいつは珍しく少し真面目な顔になった。
「親が言ってたの、それかも」
「知ってるのか」
「うち地元なんで。昔、団地の上のカーブでバスが落ちたことがあるって。夜の便だったはずです」
「何人死んだとか聞いてないのか」
「細かくは知らないですけど……何人か、って感じじゃなくて、結構いたっぽいです」
そこで佐久間は少し声を落とした。
「でも、事故そのものより、その後の話のほうが残ってるんですよ」
「どういう」
「事故の少し前に、途中のバス停で待ってた人が一人、最後まで誰かわからなかったって」
「乗客名簿とか残ってない時代だろ。適当な噂じゃないのか」
「それだけならそうなんですけど、近所の人の話だと、その人、乗ったのを見た人がいないらしいんです」
「見失っただけだろ」
「かもしれません。でも、その頃からなんですって。夜中の廃バス停に、誰かが先に待ってるって噂」
僕は笑えなかった。
気味が悪かったのは、その噂が「死んだ人が出る」っていう形じゃなかったことだ。待ってる人がいる。来るバスがある。そこまでは、現実の延長に見えてしまう。だから余計に嫌だった。
その夜も僕は遠回りした。
でも結局、三日後にはまた旧道へ行っていた。行かなければ何も起きないはずなのに、行って確かめないと終わらない感じがあった。怪談だと、そういう行動を取るやつは馬鹿だと思う。でも、実際にその立場になると、好奇心というより確認欲求に近い。意味のわからないものを、意味のわからないまま放っておくほうがずっと気持ち悪い。
二時十二分。
坂の下からバス停が見えた。
今度は、男が立っていた。
細身で、黒っぽいスーツみたいな服。年齢はわからない。バス停の支柱に片手を添えて、道路の先をじっと見ている。その立ち方が変だった。待っているというより、来るものを確信しているように見えた。
僕が足を止めると、男がゆっくりこちらを向いた。
顔は暗くて見えない。見えないのに、見られているのがわかった。
ぞっとして動けずにいると、男は案内板の前へ移動した。
歩いた感じじゃなかった。目を離していないのに、気づいたらそこにいた。ガラスのところを指先で、とん、とん、と二度叩く。
白い紙が貼られている。
昨日と同じ細長い紙。いや、違う。今回は下にもう一枚、小さな紙が増えていた。
距離があるのに、なぜか読めた気がした。
『次は、おまえ』
その瞬間、坂の下から、平たいヘッドライトの光が差した。
古い路線バスの前面みたいな、横に広い光だった。エンジン音は小さい。濡れた路面をタイヤが切る、しゃあ、という音だけが耳に残る。
男は動かなかった。
バス停の前に滑り込んできた車両は、見たことがないくらい古かった。昔の町営バスの色に似た塗装だけが辛うじて残っていて、側面の文字は読めない。行先表示も暗く、車内灯だけがぼんやり点いている。
窓の向こうに、人が座っていた。
何人も。
みんな前を向いていた。
男が一歩前に出る。
前扉が、しゅっ、と開いた。
その瞬間、車内のいちばん前の席で、誰かがゆっくり立ち上がった。
長い髪の女だった。
最初にベンチに座っていたあの女だと、なぜかわかった。顔はやっぱりよく見えないのに、わかった。
女が、窓越しにこちらを向く。
顔のない男も、階段の前でこちらを振り向く。
バスの中の乗客たちが、一斉にこちらを向いた。
そこでようやく、僕は走っていた。
息が切れるまで走って、橋のたもとの自販機の前でしゃがみ込んだ。スマホを見ると、二時十四分。通知が一件来ていた。
佐久間からだった。
『今どこですか。旧道行ってないですよね』
嫌な感じがして、『行った』と返したら、すぐ電話が鳴った。
「今すぐ大通り出てください。橋のとこいますよね。そのまま明るいほう行って」
「なんでわかる」
「いいから」
佐久間の息は上がっていた。走っているみたいだった。
「さっき、店にあのタクシー運転手の人が来たんです。旧道の上のカーブで事故があったって」
「事故?」
「軽がガードレールに突っ込んでるって。二時十三分くらい」
喉の奥がひどく乾いた。
「その人が、事故車の前を古い路線バスみたいなのが通っていくのを見たって言うんです」
その晩はアパートに帰れなかった。駅前のネットカフェで朝まで過ごした。ブースの安っぽい仕切りの向こうで誰かがいびきをかいていて、空調の風が乾いていて、そういう生活臭に囲まれているのに、頭の中ではずっとあのバスの扉が開く音がしていた。
朝になってからニュースを確認すると、旧道上で軽乗用車の単独事故、運転手死亡、深夜二時台、原因調査中、と短い記事が出ていた。現場写真の端に、遠く小さく、青い屋根が写っていた。
あのバス停だった。
それからしばらく、僕は旧道を完全に避けた。
でも、避けていても向こうから頭に入り込んでくるものはある。レジを打っていても、電子レンジの終了音が古いバスの降車ボタンみたいに聞こえる。夜中の店の自動ドアが開く音に、あの前扉の気配が混じる気がする。帰宅して眠ろうとすると、部屋の外を大型車が通ったような微かな振動が床に伝わることがあって、カーテンを開ける勇気が出ない。
決定的だったのは、一週間後、アパートの郵便受けに入っていた紙だった。
宛名も何もない、二つ折りのコピー用紙。
開くと、古い新聞記事の複写だった。
『上団地線転落事故 乗員乗客七名死亡』
白黒の荒い写真には、斜面の途中で横倒しになったバスらしき車体が写っている。記事には、カーブを曲がりきれずに転落し、運転手と乗客七名の死亡が確認された、とある。
そして余白に、ボールペンで一文だけ書かれていた。
『ひとり多い』
誰がこんなものを入れたのかわからなかった。管理会社に連絡しても、当然心当たりはない。共用部の防犯カメラはトラブル時以外見せられないと言われて終わった。
気味が悪くなって、僕は近所でそれとなく聞いてみた。すると、一階の端に住んでいる年配の男が、その話を聞いて妙なことを言った。
「おまえさん、あのバス停を夜に見たのか」
「見ました」
「なら、見られたな」
「……何にですか」
男は曖昧に笑った。欠けた前歯が見えた。
「あそこは待ってるやつだけじゃない。迎えに来るやつもいる」
「バスのことですか」
「乗るための迎えじゃない。降ろすための迎えだ」
そう言って、男はそれ以上何も話さなかった。
その言葉が、ずっと頭に残った。
迎えに来るんじゃない。降ろしに来る。
最初は意味がわからなかった。でも、何度もあの時の光景を思い返しているうちに、気づいたことがあった。僕が見た男は、バスに乗ろうとしていたんじゃなかった。あれは階段の前で立ち止まって、僕のほうを見ていた。あの女も、こっちへ何かを伝えようとしていた。
あのとき、あのバスは、乗せるために来たんじゃない。
誰かを降ろすために来た。
そう考えると、急に全体の意味が変わってしまった。
つまり、あのバス停で待っている「人」は、乗客じゃない。これから現実の事故で死ぬはずの人間が、先にそこへ置かれている。事故が起きるより前に、もう待たされている。だから現場で目撃される。だからバスの中にもいる。時間の順番が、おかしくなっている。
そんな考えは馬鹿げているはずなのに、一度そう見えると、もうそれ以外に説明がつかなくなった。
その頃から、僕は意識して古い記録を探し始めた。
図書館へ行って、地元紙の縮刷版や郷土資料をめくった。古い住民の聞き書きみたいな冊子まで見た。そこで、事故そのものとは別に、気になる断片がいくつか見つかった。
上団地線は元々、さらに奥の集落まで伸びていたこと。ダム建設と道路の付け替えのあと、利用者減少で終点が団地前まで短縮されたこと。その「古い終点」が、今の旧道のさらに上、封鎖された脇道の先にあったこと。
そして、事故が起きたのは路線短縮の直後ではなく、さらにその数年後だということ。
つまり、事故当時の正式な終点は団地前で、あの旧道のバス停は途中停留所だった。
じゃあ、時刻表に書かれている「終点」はどこなんだ。
そこが妙に引っかかった。
市の資料ではもう消えている。古い路線図を見ても、終点名は戦後の町名整理で変わっていて、今の地図と一致しない。でも、ひとつだけ、手書きの補足が入った古地図の複写に、似たような場所の名前が残っていた。
『宮ノ下仮終点』
今は存在しない地名だった。
資料室の司書に聞いても、「ああ、その辺はダム工事のときに道筋も呼び方もかなり変わってるんですよ」としかわからなかった。ただ、ついでにこんな話も教えてくれた。
「昔、あの辺の山裾に小さな集落があって、事故や崩落があるたびに、なぜか行方の曖昧な人が一人出るって話があったそうです。死者数には含まれないけど、いたはずの人がいる、みたいな」
その言い方に、僕は郵便受けのメモを思い出した。
ひとり多い。
数えられているのに、数に入らない一人。
そういうものが、昔からあそこにはいたのかもしれない。
ここまで来ると、自分でも何をしているんだろうと思った。普通に考えれば、夜勤帰りに変なものを見て、過敏になって、都合のいい資料だけ拾い集めているだけだ。でも一方で、あの紙を見たことだけは現実だった。あのバスを見たことも、事故の時刻が一致したことも、現実だった。
見なかったことにはできなかった。
だから僕は、もう一度だけ旧道へ行くことにした。
正直、行きたくはなかった。でも、ここまで来て避け続けても、じわじわ生活を侵食されるだけだと思った。見に行って、何もなければそれで終わる。何かあっても、それで最後にする。そう決めた。
夜勤を休んだ日の深夜、僕はスマホの録音をオンにし、小さなライトをポケットに入れて、旧道へ向かった。
二時前の町は静かだった。住宅街を抜けると、犬の鳴き声もなくなる。川沿いに出ると、水の流れる音だけが暗い中で平たく広がっていた。橋を渡り、旧道に入って、坂を上がる。団地跡の前まで来ると、あたりの空気が少しだけ冷たくなった気がした。
バス停には、誰もいなかった。
案内板も元のまま。白い紙はない。二時十一分。こんなものかと思い始めた時、法面の草むらの奥で、何かが擦れる音がした。
ざり、ざり、と湿った土を掻くような音。
僕はライトを向けた。草が一本、二本、揺れている。風じゃない。下から上へ、筋を引くみたいに揺れが近づいてくる。
二時十二分。
音が止んだ。
その直後、背後で、低いブレーキ音がした。
振り向くと、バスがいた。
本当に、気づいたらいた。
坂の下から近づいてくるヘッドライトもなかった。エンジン音が膨らむ気配もなかった。ただ、後ろを見たら、もうバス停の前に古い車体が停まっていた。前扉が開き、車内灯が薄く灯っている。
窓の向こうに、いくつも人影がある。
でも前回より暗い。光が点いているのに、車内の奥が異様に深い。座っている人間の輪郭だけが浮いて、顔のあたりだけが落ちて見えない。
運転席のあたりから、平板な声がした。
「次、終点です」
車内アナウンスみたいな、感情のない声だった。男とも女ともつかない。でも、すぐ近くで喋られたみたいに、耳の奥に直接入ってきた。
その時、いちばん後ろの窓に、女の顔が浮かんだ。
あの、最初にベンチに座っていた女だった。
今度は顔が見えた。青白くて、目の下が深く窪んでいて、唇だけが妙に赤い。額がガラスにぺたりとつくくらい近づいてくる。息で曇るはずなのに、ガラスは曇らない。
口が動いた。
声は聞こえないのに、何を言っているかだけがわかった。
――降りて。
ぞっとした。
乗れ、じゃない。降りて、だ。
次の瞬間、車内の奥から何本もの手が扉へ伸びた。
黒い袖。子供みたいに細い腕。年寄りみたいに皺のある手。白い指。爪の欠けた手。みんな同じ方向に、こちらへ向かって伸びている。
その手の間から、あの顔のない男が立ち上がった。
ゆっくり前に来て、階段の上で止まる。
それから、片手をこちらに差し出した。
その手つきで、ようやく一階の男の言葉の意味がわかった。
迎えに来るんじゃない。
降ろすために来る。
このバスは、乗客を増やすために来るんじゃない。
もう先に乗っているやつを、どこかへ置いていくために来る。
僕は一歩後ずさった。
その瞬間、右足首を、後ろから冷たい手が掴んだ。
声も出なかった。
見下ろすと、法面の草むらから、泥だらけの腕が一本だけ伸びていた。ありえない角度で土の中から生えてきたみたいに、僕の足首を掴んでいる。
反射的にライトを落とした。地面を転がった光が草むらを照らし、その中に、人の上半身が見えた。
男だった。
スーツの胸元。泥で汚れた顔。額の片側が潰れたみたいに崩れている。最近見た事故写真にいそうな、生々しい潰れ方だった。
そいつが口を開いた。
「違う」
喉の奥が裂けたみたいな、掠れた声だった。
「僕じゃない」
聞こえたのはそれだけ。
次の瞬間、見えない方向からものすごい力で引かれる気配があって、足首を掴んでいた手が外れた。草むらの男の体が、斜面の上でも下でもない、変な方向へずるっと引きずられた。土を擦る音と、喉の潰れた短い悲鳴。
そして、背後で扉が閉まった。
しゅっ、という軽い空気音じゃなかった。もっと重い、古い鉄が噛み合う音だった。満足そうな、閉まり方だった。
僕はそれでようやく走れた。
大通りまで逃げて、コンビニの明かりが見えたところで吐いた。膝が震えて、立っていられなかった。スマホの録音は途中で切れていて、聞き返しても、風みたいな雑音と、最後に遠くでブレーキの抜ける音が入っているだけだった。
それから、僕は旧道に一度も近づいていない。
数週間後、アパートを引き払い、町を出た。仕事も変えた。夜勤もやめた。二時台に起きていること自体が嫌になったからだ。何より、あの場所から距離を置きたかった。住んでいる町の地図のどこかに、あの青い屋根があると思うだけで息が詰まるようになっていた。
新しい町に移ってから、最初の二ヶ月くらいは比較的平穏だった。昼間の仕事に慣れるのに必死で、夜は普通に寝る。帰り道にコンビニへ寄って、六畳の部屋で食事して、風呂に入って寝る。そういう生活を繰り返しているうちに、ようやくあれは過去のものになり始めた気がしていた。
でも、本当は終わっていなかった。
半年くらい経った頃だった。
仕事帰りに駅前の定食屋へ入って、壁にかかったテレビをぼんやり見ていたら、ローカルニュースで、聞き覚えのある地名が流れた。
旧道上団地線跡付近で、また事故。
箸を持つ手が止まった。
画面には、ガードレールに突っ込んだ車の映像。単独事故。運転手死亡。深夜二時台。原因不明。
そこまでは、前にも見たようなよくある事故だ。
でも次に映った現場の端に、あの青い屋根が映り込んだ瞬間、心臓が嫌な打ち方をした。
店を出てから、震える手で記事を探した。
死亡したのは二十代男性。帰宅途中。飲酒なし。事故原因不明。目撃者の証言として、現場付近で古い路線バスのような車両を見たという通報があったが、確認できていない、とある。
そこまで読んで、嫌な汗が出た。
けど、本当にまずかったのは、その下の現場写真だった。
事故車のフロントガラスに、白い紙が挟まっていた。
荒い画像を拡大すると、縦長の紙に手書き文字が見える。
二時十三分
終点行
そこで終わっていれば、まだよかった。
記事の日付を確認して、もっと嫌なことに気づいた。
その事故が起きたのは、僕が最後にあのバス停を見た夜から、ちょうど半年後の同じ日だった。
つまり、あの時草むらから足首を掴んだ男は、「直前の事故の被害者」なんかじゃなかった。
半年前の時点で、まだ死んでいないはずの人間だった。
その男が僕に向かって言った、「僕じゃない」。
あれはたぶん、助けを求めていたんじゃない。
順番が違う、と言っていたんだ。
自分の番じゃない。まだ現実では死んでいない。なのに先にここへ置かれている。そういう意味だったんだと思う。
そこまで考えて、ようやく全部がひとつにつながった。
あのバス停で待っているのは、過去の死者じゃない。
これから事故や転落で死ぬ人間たちだ。
現実の事故が起きるより前に、もうあそこへ集められている。
だから、目撃される。
だから、バスの中にいる。
そして事故が起きると、人数だけが現実に追いつく。
じゃあ、『ひとり多い』とは何なのか。
最初は、記録に残らない乗客のことだと思っていた。事故の死者数に含まれない、数え間違いの一人。でも、それも違う気がした。
あの新聞記事には、運転手と乗客七名死亡とあった。
なのにメモには、ひとり多い。
あのバスは、席が足りなくなっているんじゃない。
いつも一人分、余っているんだ。
ずっと、その意味がわからなかった。
わかったのは、さらにその少し後だ。
新しい部屋の最寄り駅前に、小さな市営バスの停留所がある。昼間は学生や買い物帰りの年寄りが普通に並ぶ、本当に何でもないバス停だ。
先週、仕事帰りが遅くなって終電で帰った夜、その時刻表の端に、見覚えのある白い紙が差し込まれていた。
最初、息が止まった。
縦長の紙。手書きの文字。
二時十三分
それだけだった。
終点行、の文字はまだない。行先も何もない。ただ、時間だけが書かれていた。
僕はその場で紙を引き抜いて、細かく破って捨てた。コンビニのゴミ箱に押し込んで、何度も確認してから部屋に帰った。
でも翌朝、駅へ向かう途中で停留所を見たら、同じ場所にまた紙が差し込まれていた。
今度は文字が少し増えていた。
『ひとり分、空いています』
さすがに足が止まった。
周りには通勤の人が何人もいたのに、誰もその紙を見ていないみたいだった。学生がスマホを見ながら時刻表の前を通っても、目線がそこを素通りする。中年の女の人が停留所の柱に寄りかかっても、紙に気づく様子がない。
僕だけが見えているのだと、その時はっきりわかった。
その夜、帰りたくなかった。
でも帰らないわけにもいかない。終電で駅に着いて、息を詰めるみたいにしながら停留所を見た。
紙はまだあった。
文面が、また変わっていた。
『まだ、あなたの番ではありません』
それを見た瞬間、寒気より先に、変な納得が来た。
ひとり多い、というのは、事故の数え間違いでも記録漏れでもない。
あのバスには最初から、毎回余席が一つある。
現実の死者数とは別に、常に一人分だけ、空いている席がある。
たぶんそれは、次の便へ持ち越される席だ。
次の事故でも埋まらない。
そのまた次でも埋まらない。
ずっと空いたまま、誰か一人を待っている。
そして、それが僕なんだと思う。
まだ僕の番ではない。
つまり、いずれ来る。
そういうことだ。
それからというもの、二時十三分が近づくと、どこにいても嫌な気配がするようになった。
最初は気のせいだと思っていた。けど何度も続くと、もう偶然では片づけられない。
部屋で眠っていても、二時十三分ちょうどに一度だけ、窓の外でバスのブレーキみたいな音がする。今の部屋は幹線道路から離れていて、大型車なんてほとんど通らないのにだ。カーテンの向こうで、しゅっ、と空気の抜けるような、前扉が開く時の音がする。
会社の飲み会で終電を逃し、駅前のベンチで始発を待っていた夜には、遠くでアイドリングする低いエンジン音がずっと聞こえていた。見回しても、近くにバスなんていない。なのに耳を澄ますと、アナウンスみたいな平板な声が混じる。
――次、終点です。
先月は、もっと直接的だった。
寝ぼけて夜中に目を覚ました時、枕元に置いたスマホの画面が勝手に点いていた。何の通知もないのに、ロック画面に白い縦長の図形が浮いて見えて、目を凝らしたら、スクリーンショットでもないのに、細長い紙が表示されていた。
二時十三分
終点行
慌ててスマホを落としたら、画面はすぐ消えた。履歴にも何も残っていない。夢だったのかもしれない。でも、その時だけ部屋の外で、ゆっくり誰かが降りるみたいな足音がした。ベランダのすぐ向こうで、アスファルトじゃなく、鉄の階段を下りるみたいな音が三歩だけ鳴って、止んだ。
カーテンは開けていない。
開けたらたぶん、誰かが立っているからだ。
それが僕なのか、まだ僕じゃない誰かなのかはわからない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
あの旧道のバス停で見た女は、「助けて」とは言っていなかった。
あれはたしかに、「降りて」と言っていた。
つまり、もう車内には席がある。
あとは、どこで降ろされるかだけなんだ。
最近は、通勤路の停留所だけじゃなく、町中の時刻表が気になって仕方ない。駅前のロータリー、市役所前、病院の角、住宅街の小さな停留所。白い縦長の紙が挟まっていないか、そればかり見てしまう。疲れている日は、視界の端で何枚も見えることがある。近づくと普通の広告に変わるものもある。でも、たまに本当に混じっている。
見つけた時は、破って捨てる。
次の日にはまた戻っている。
だから、もうわかっている。
あれは時刻表なんかじゃない。
予定表だ。
まだ現実では起きていない事故の、到着予定だ。
この話を書こうと思ったのは、昨日の夜、とうとう紙に僕の行先が増えたからだ。
駅前の停留所。終電を降りて、誰もいない歩道を渡って、何気なく時刻表を見た。
白い紙が一枚。
そこには、前よりはっきりした字でこう書いてあった。
二時十三分
終点行
その下に、今まではなかった小さな追記があった。
『旧道経由』
そこまで読んだ瞬間、背後で、あの音がした。
しゅっ、と扉の開く音。
振り返っていない。
振り返ったら、たぶん乗っている自分と目が合う。
だから僕は、こうして先に書いている。
これを読んだ人がどう思うかはわからない。疲れていたとか、精神的に参っていたとか、そういう説明はいくらでもできると思う。僕だって、本当はそういうことで片づけたい。でも、二時十三分ぴったりに、部屋の前の廊下で一度だけ足音が止まることや、郵便受けの底に細長い紙片が増えていることや、眠りに落ちる直前、窓の外に青い屋根の影が見えることは、どうしても説明がつかない。
さっきからずっと、部屋の外でエンジンがかかっている。
古い機械が、じっと待っているみたいな音だ。
まだチャイムは鳴らない。
まだ僕の番じゃないからだと思う。
でも、そのうち鳴る。
あるいは、鳴らずに扉だけ開く。
その時、もしベランダの向こうにあの女がいて、ガラス越しに口を動かしたら、今度こそ意味がわかってしまう気がする。
あれは忠告なんかじゃない。
順番の案内だ。
先に乗っている僕が、まだ外にいる僕に向かって、降りる場所を教えている。
だから、もし夜中に使っていないバス停の時刻表に、見覚えのない白い紙が挟まっていたら、見ないほうがいい。
読まないほうがいい。
剥がしても無駄だ。
特に、二時十三分とだけ書いてあったなら、もうその停留所は使われている。
人間のためじゃない便が、そこを経由し始めている。
そしてもし、その下に『まだ、あなたの番ではありません』と書いてあったなら、安心しないほうがいい。
それは助かったって意味じゃない。
座席が一つ、取ってあるってことだから。
……今、また聞こえた。
しゅっ、と、扉の開く音。
今度は前より近い。部屋の玄関のすぐ前だ。
誰かが降りてきたみたいな、重さのない足音が、廊下をこちらへ歩いてくる。
止まった。
ドアスコープは覗かない。
覗いたら、外に立っているのが僕自身でも、もう驚けないから。
ただ、一つだけ言える。
もし明日の朝、この部屋が空になっていて、机の上に白い紙が一枚だけ残っていたら、そこに書いてある行先は、たぶん地名じゃない。
終点でもない。
「次」だ。




