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第8話 取引現場


 十蘭(シィラン)はひとり、カフェの席に残される。

 少しもしないうちに、立ち上がって会計を済ませた。


 その金額は今まで見た事ないくらい────というわけでは別になかった。なぜなら十蘭がいつも食べている時の金額とほとんど変わらないからである。

 ジェイは育ち盛りだから沢山食べると言っていたが、大食いの十蘭が食べる量には到底及ばなかった。


「…………さてと」


 時刻は昼にはまだ遠い。

 十蘭がこれからすることといえば、


「もちろん、ジェイの尾行よね!」


 十蘭はジェイが本当に、あの『J』なのかを見定めるために尾行することにした。


 節度ある人間として、友人を尾行するのは如何なものか……とは思わない。

 十蘭は諜報員だ。むしろこれが本業である。もちろん動機は個人的なものだが。


 ジェスターの仕事、と言えば、すなわち殺しの依頼だ。ジェイは今から誰かを殺しに行く。


 十蘭は何とも思わない。それが彼の仕事だと言うなら、止める理由はない。マフィアという世界に身を寄せているのならば、誰かが死ぬことなんて日常的だ。


 十蘭は通りに出て目を光らせた。

 今しがた出て行ったジェイの影を見つけようと、目だけを動かして探す。





 ────数分後。


「見つからないよぉ〜…………」


 とぼとぼと、一人街を歩く十蘭。

 すれ違う人全員が、十蘭を綺麗に避けていくような感覚。

 そう思えてしまうくらい、ジェイが見つからないことに対して鬱憤を感じている。ほんの少し前まで、確かにその背中を捉えていたのに。


「私の尾行を撒くなんて、ホントに只者じゃないわ……」


 落胆と呆れを含んだ溜息を吐く。

 十蘭が諜報員として活動してきてから、人を尾行する機会は何度もあった。成功しなかった事などほんの数回しかない。

 だと言うのに、至って普通の家庭で育ってまだ酒も飲めないような人間……つまりジェイがが十蘭の追跡を撒くなど、信じがたい。

 そもそも彼は尾行に気付いていたのだろうか。実は気付いておらず、任務のために十蘭の知らない隠れ家に入って行ったという可能性も…………と考えて、十蘭は両手で頬を軽く叩いた。


「自分の力を過信しすぎない! ジェイが本当に『J』なのかを確かめたかったんでしょ! 私を撒いた時点でそれは証明されたようなものじゃない!」


 それこそが自分の過信になっていることには十蘭は気付かなかった。


「はあ……しょうがない。帰ってお昼前ご飯でも食べよっかな」


 がっかりしたらお腹が空いてきた。失敗したとはいえ一時間近く尾行のために体を動かしていたのだから、十蘭にとっては十分に腹の虫が鳴る時間だ。


 とはいえ、思ったよりもだいぶ遠くまで来てしまっていた。街は広いが、どうやら十蘭の知らない区画まで来たようだ。人の密度も街の雰囲気も同じだが、見慣れない建物に道順である。


 迷子になって帰れない……なんてことはないが、十蘭は寂しがり屋なので、何の収穫もなく一人でおずおずと帰宅するのが情けなく感じてくる。


「うーん……ジェイはこの辺でいなくなっちゃったわけだし、待ってたら出てくるかな?」


 十蘭が足を止めたのは、通りかかっただけでは目に付きそうもない、一段と空気の重い路地だった。建物同士が肩を寄せ合うように挟まっていて、石畳は雨と油で黒く磨かれ、壁は色あせてところどころ黒ずんでいる。

 普通だったら近づきたくはない。だがジェイがここに入って行った可能性はあるため、十蘭はその路地を見張れる位置で少し休むことにした。



 十蘭はふと、路地の奥に目を向けた。そこで、影に潜む何かと目が合う。



 びくり、と肩を震わせた。

 そこでは何かの取引が行われているようだった。暗闇には男が二人、片方の男が手に何かを持っていて、もう片方の男は布の包みを握りしめている。どちらも、正気ではなさそうだった。


「……………………あぁ?」


 地の底から這って出てきたような声で、一人の男が近づいて来る。

 腹が飛び出していて足取りが肉に邪魔されるくらいふくよかな体型で、しきりに鼻を鳴らしている。


「何見てんだ、てめえ……」


「(やば、見ちゃいけないものだったかなあ……)」


 十蘭はどうやってこの場から逃げるかを考えながら、目を泳がせて後ずさった。

 すぐさま振り向いて走る? いや、背中を見せたら撃たれるかもしれない。一発蹴りでも入れてから逃げる……でも、もし捕まってしまったら、どんな目に合うか分からない。


 見たところ武器になりそうなものはないが、それは相手も同じだ。落ち着いて対処すれば、上手く逃げられるだろう。まずは相手を刺激しないように……と、話をする姿勢に入る。


 しかし、男の口から発せられた言葉は予想とは異なった。


「欲しいのか、コレ?」


 男は手に持った小瓶のようなものを掲げて振った。黒いラベルが貼られていて、中身は気分が悪くなるような赤黒い色の液体が少しだけ入っている。

 ゴロツキの間で流行っている薬物のようなものだろうか。液体状のものはあまり見たことないが、この小瓶の中身についての取引が行われていたことは間違いなさそうだ。


「え……ええと、それは何か素敵なものなの?」


 少なくとも十蘭に害をなそうとする動きが見られなかったことから、その液体について、興味本位で聞いてみる。


「これはな、これを体に入れるとなあ、キレが良くなるんだよ。それからすごくいい気分になって、ふわふわするんだ……。俺は気分が良くなってるときは連れの女を大事にできたけど、効果がなくなったのか、昨日すごく殴っちまった。今朝起きてもまだ顔と腹を抑えて震えてたから、イラっときてまた殴っちまった。それでコイツを買いに来たんだよ。帰ったらまた優しくできるといいなあ」


 男はまだ液体を投与していないのに、効果が現れるときの気分を思い出しているのか、多幸感に浸った顔で吐き気を催すような内容を語った。

 いわゆる覚せい剤とか、ヘロインとか、そういった類の薬物だろう。残念ながら十蘭は関わったことはないし、興味もない。


「(やっぱり面倒なのに絡まれちゃった……)」


 高揚感を覚えている人間を相手にするのは面倒だし、断ってしまったら逆上してくる可能性もある。


「おい、何突っ立ってんだ? 終わったらさっさと行けと言ったんだ、ここを出たら人目に付くから」


 十蘭が考えていると、もう一人の男が路地の暗闇から姿を現した。ひょろりと長い体型で、その鋭い目つきは十蘭に気付いた途端、獲物を見る目に変わった。


「なんだ、女か。お前が殴ったっていう女とは違うよな。俺がもらっていい?」


「待てよお。コレ買ってくれるかもしんねえ、お前の顧客になるかもしんねえから」


「(買わないし着いて行かないから!)」


 どちらを断っても、ろくなことにならないのは想像がつく。二人を躱して逃げるのは難しく、思ったよりまずい状況だった。


「あのっ、私、道に迷っちゃって。近くの駅にでも案内してくれないかなー、なんて。そうしたら、ソレ買うの考えます」


 もちろん嘘だ。どこでもいいから人の多い場所に行ければ、隙をついて逃げられる。彼らが行っていたのは違法の取引だから、派手に騒げないのはお見通しだ。


 ここで十蘭を見逃すか、大人しく道案内をして解散とするか。どちらにしても、十蘭は逃げられる。


「うーん。俺たちも、特別この辺に詳しいってわけじゃないんだよね。良かったら一緒に駅探さない?」


 ひょろい男が言葉巧みに誘った。だがこれはどうせ嘘だ。

 道に詳しくないふりをして十蘭を連れまわす口実を作って、最後には人気のないところに引っ張られておしまいだ。


 いつの間にか路地から出る道を塞がれている。あとは行き止まりか、暗い路地の奥しか逃げられる場所がない。正直言って暗い路地には入りたくはないが、この二人から逃げきるためには他に選択肢がなかった。


「あっ、後ろ!」


 十蘭は路地を塞いでいたふくよかな男の後ろを指さした。そこには何もないし誰もいないわけだが、かれの注意を逸らすには十分だ。


「えっ?」


 よし。振り向いた。

 ひょろい男の方は、もしも腕を掴まれたとしても振り払える。あとは十蘭が路地に逃げ込むだけだ。

 一瞬の隙をついて、細い路地に体をねじ込ませたその時だった。



 十蘭が見たのは────二人の男の身体が、まるで干された布団のように後ろに吹っ飛ばされるところだった。



「ふう、やっと見つけた…………ん?」


 颯爽と現れたその人物は、ほんの十数分前まで十蘭が追いかけていた背中。圧倒的な武術を持った男、ジェイだった。


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