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第6話 『息子』と『娘』と『母』


「うう、あたまいたい…………」


 見事な二日酔いだった。

 十蘭(シイラン)は頭の中からガンガンとハンマーを打ち付けられているような感覚に、うなだれるしかなかった。


「情けないわね。治ったらさっさと出ていきなさいよ」


 リビングに水を運んできたのはローザだった。小さい背丈でひょこひょこと動き回る姿はまるで兎だ。

 十蘭はベッドから起き上がったものの、強い眩暈から歩くことができなかった。それを見たローザは無理に追い出すことはせずに、こうして十蘭をソファに座らせたのだった。


 十蘭はまだ朦朧とする意識を、喉に水を流し込みハッキリとさせる。深く深呼吸すると、いくらか落ち着いた気がした。


 見回すと、そこは一般家庭のリビング、という感じの場所だった。

 床は柔らかな絨毯が敷かれており、中央の艶がかかったテーブルの周りには布張りのクッションが施されている。壁には暖炉が据えられ、振り子時計や磁気の花瓶、飾られた小さな風景画が部屋の雰囲気を格別なものにしていた。どの家具も上質な品だと分かる。

 テーブルには分厚い本が積み重なっており、油ランプの明かりが静かに揺れている。ローザが本を読んでいたのだろうか。壁際を見るとぎっしりと本が詰まった本棚が三つ並んでいた。


「なんか、すごく気品があるお家ねえ」


 十蘭が感心して声を漏らすと、ローザは本を棚に戻しながら悪態をついた。


「当たり前でしょ。あなたみたいな庶民の娘と一緒にしないで」


「ひっどーい、ローザちゃん」


 彼女の言うことは間違っているわけではないが、直接言われると心にくるものがある。


「その呼び方、背筋がぞわぞわするわ…………」


 ローザはちゃん付けで呼ばれたことに対して不満がありそうだった。本を盾にして十蘭からの視線を遮ろうとする。最終的には調理場と思わしき場所へと引っ込んでしまった。


「ねえ、俺にも水ちょうだい。オレンジジュースでもいいよ」


 そこへ割って入ってきたのはジェイだった。礼服ではなく、私服であろうシャツを身に着けているせいか印象がガラリと変わった。脚を組んで椅子に座っている姿がさまになっている。


「あなたねえ、自分でやったらどう? 『お兄ちゃん』なんだから」


「面倒くさい。関係ないし、そういうの」


「じゃあ出て行って。読書の邪魔よ」


「嫌だよ。しぃらんと話したいもん」


「ならこの家から出ていきなさいってば! もうすぐお母さまも帰ってくるのに!」


 一向に立ち上がろうとしないジェイと、読書を邪魔されたくないローザ。終わりのない口論が暖炉に薪をくべているかのようだ。

 この場にいるのも気まずいし、頭痛がひどくなる前に早くベッドに寝転がりたいという気持ちも湧いて出てくる。どちらにせよこの家からは出たくないなあ、と居心地の良さを認めると、十蘭はソファに背を預けてリラックスの体制をとる。




 そこでガチャリ。と、玄関の戸が開いた。




 ────────十蘭の背筋に悪寒が走った。


 ソファが背を向けているため、戸の方向を見ることができない。暖炉の火など最初からなかったかのように冷たい空気が流れる。それはドアが開いて外の冷たい空気が入って来たからとか、そういった次元ではない。

 扉の上部で揺れている鈴の音までが遠く聞こえるような気がする。視界が泥に覆われている気がする。


 何か(・・)がそこにいる。十蘭はそれを感じ取るだけで精いっぱいだった。


 獣でも、亡霊でもない。恐ろしく冷たく、残忍で、禍々しい気配。もっとなにか、恐ろしいものがそこにいる気がした。


 しかし────────ローザが目を輝かせ、ジェイも嬉しそうに言った。


「お母さま! おかえりなさい!」

「おかえり、ママ」


 お母さま、と呼ばれた彼女は、コツコツと高いヒールの音を鳴らしながら家の中へと足を踏み入れる。そうして、撫でるような、這うような声で言う。



「ただいま────いい子にしてたかしら、私の愛しい子たち」



 振り返ったときにそこにいたのは、童話の中の魔女のような雰囲気を纏った、妖艶な女性だった。

 ローザが母と呼び、ジェイがママと呼んだ、彼らの母親だろう。




「おや…………お客様?」


 ソファに座るもう一人の影……十蘭のことに気づいたのか、彼女は十蘭の方に目を向ける。重力さえ無視してしまいそうな重圧。


「俺の友達。酔っ払いのしぃらんだよ」


「はっ初めまして! ジェイロッド君のお友達の(ルオ)十蘭ですっ」


「ふうん……………………」



 …………これ、死ぬのでは。

 アルコールが入った状態で勝手に上がり込んでしまった挙句、思春期の息子とただならぬ関係にあるなんて勘違いされたら……とてもじゃないが無事に帰れる気がしない。


 ただ見下されているだけなのに、とてつもない重圧を感じる。


ジョウ……」


 黙ってしまったジェイの母は、突然ぼそりと、一言だけ発した。十蘭にとってどこかで聞いたことがある名前だ。


「へ?」


「羅といったら、彼の管轄の諜報員でしょう。────羅さん、私のジェイが何か粗相を働いたかしら」


「いえっ、そんな……私の方が迷惑をかけてるといいますか……」


 母親は十蘭にぐいっと顔を近付けて覗き込んだ。ぎらりと光る眼光の前では、追い詰められた獲物の気分だ。


 そうだ、思い出した。周というのは、CROWNに所属する十蘭にとって上司のような存在の男であった。十蘭自身は直接関わったことはないが、その名前を同僚から聞いたことがある。

 しかし、今はそんなことはどうでも良い。問題はなぜ今それを彼女が言ったかだ。


「(…………え? なんでこの人が、私のこと知ってるの? というか、私が諜報員ってことも知ってる!?)」


 彼女の口から諜報員という言葉が出たということはそういうことだ。なぜ彼女が十蘭のことを知っているのか。

 ジェイが話した、という線はないだろう。なぜならジェイと十蘭は昨日初めて会ったばかりであり、ジェイがこの家に帰ったのも十蘭を連れて来た時である。彼が母親に十蘭について話すタイミングはない。


「あ、あのぅ……失礼ながら、お母様はなんのお仕事をされているので……?」


 するとジェイの母はそんなことを聞かれるとは思っていなかったのか、一瞬だけきょとんとした表情を見せた。


「ふふ……知りたい?」


「いえ、無理にというわけではないですっ」


「そう? なら、疲れているから私はこれで。ごめんなさいね、十分なおもてなしができなくて」


「おかまいなく! わ、私もそろそろお(いとま)しようかなーなんて!」


 さっきまでとはいかないものの、彼女が言葉を発するたびに背筋が凍り付きそうになる。


 ジェイの母はニコリと笑ってから、リビングの奥に姿を消した。

 ローザがそれを名残惜しそうに眺め、十蘭の方にくるりと体を向ける。


「というわけで帰りなさい。お母さまのお休みの邪魔になるから」


 切り替えが早い。母親に向ける目は甘えたいと言う欲求が含まれた子供のものだったのに対して、十蘭に向けるのは警戒心を剝き出しにした小動物のような目だ。

 十蘭は、そんなに嫌われてるのかな…………としょんぼりして見せ、気になったことをジェイに質問してみる。この話はローザに聞こえないように、こそこそ話でだ。


「……一つだけ聞いていい? ジェイは、あの人(母親)に言ってあるの? CROWNのこととか、幹部のこととか……」


 すると、聞こえない距離と声量で話していたはずなのにローザがしかめっ面をした。



「幹部? 確かに実力と権力はそれくらいかもね。でも、『J』がそんなつまらない地位に就くわけないでしょ」



 ……………………。


 『J』?


 なぜそこで、CROWNの暗殺者集団の中でも異常者と噂される男の名前が?


 十蘭は助けを求めてジェイを見た。



「あ。言ってなかったけど、俺。ジェイロッドこと『J』だよ。ただの頭文字なのにコードネームみたいになるのって、なんかかっこいいよね」



 「……………………えええええ!?!?」



十蘭の上司の周という人物は今後別に出てきません。

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