一章 夢のような日々
高校二年の春。周りの同級生は、新しいクラスにも慣れてきて幸せな学生生活を送っているのに、僕だけは相変わらず教室の端で誰の目にも止まられない存在のままだった。
そんな僕の人生が、ほんの少しだけ揺れ始めたのは、5月のある夜のことだ。
奇妙な夢を見た。
夢の中で、僕は見知らぬ草原に立っていた。周囲はやわらかい陽射しに包まれ、そよ風に揺れる野の花が色とりどりに咲いていた。現実では嗅いだことのないような甘い香りが漂っていて、まるで別の世界に迷い込んだかのようだった。
そこで僕は、彼女に出会った。
年齢は僕と同じくらいに見えた。腰まで伸びた長い黒髪をなびかせ、白いワンピースが良く似合う褐色肌であった。
彼女は僕を見るなり、にこっと笑った。
「こんにちは」
その声は驚くほど明るく、屈託がなかった。
「……僕?」
「ほかに誰がいるの?」
周囲を見回しても、草原には僕と彼女しかいない。なんとも夢らしい空間であった。
「名前は?」
「えっと……」僕はためらった。夢の中でも人見知りな自分に嫌悪感が湧いた。
「名乗りたくないなら、無理には聞かないよ。私は君のことを"君"と呼ぶから」
彼女はくすっと笑い、草の上に寝転んび、青空を見上げながら、問いかけた。
「ねえ、君はどうしてそんなに暗い顔してるの?」
「……僕の顔、暗い?」
「うん。さっきから曇ってるもん。夢の中くらい、楽しいこと考えようよ」
彼女の言葉に、思わず苦笑がもれた。夢の中でまで性格を指摘されるとは思わなかった。
この日の夢は、そこで終わった。
次の日も、彼女は現れた。
今度は古い遊園地の観覧車の中だった。窓の外にはネオンがきらめき、遠くの街並みが幻想的に広がっていた。
「こんにちは!」
彼女は嬉しそうに身を乗り出した。
「昨日の……」
「昨日の?」
「昨日のこと…覚えてるの?」
「もちろん。だって君と約束したでしょ。また会おうって」
僕はそんな約束をした記憶はなかったが、否定できずに口をつぐんだ。
彼女は夢の中で、やけに鮮やかに存在していた。声も、仕草も、笑顔も、現実の人間となんら変わらなかった。むしろ現実よりも生き生きとしているようにさえ感じられた。
「君はさ、いつも人の顔見ないんでしょ」
「……どうしてわかるの?」
「わかるよ。全然目が合わない。目を合わせるの、怖いんでしょ」
「……」
図星を突かれ、言葉を失った。
夢の中の彼女は、まるで僕の心を透かして見ているかのようだった。
「大丈夫。私はちゃんと君を見てるから」
そう言って彼女は僕をまっすぐに見つめ、笑った。
その瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
それからというもの、僕は夜が来るのを楽しみにするようになった。
学校では相変わらず孤独で、誰かと話すことはない。昼間はただ時間をやり過ごすだけ。けれど夜になると、夢の中で彼女に会える。
ある日は海辺を歩き、ある日は図書館で話をした。夢の中の風景は毎回違うのに、彼女だけは必ずそこにいて、僕を待っていた。
「ねえ、君は本当に変わってるね」
「僕が?」
「そう。普通、夢だとわかったら思いっきり好きに遊ぶでしょ?空を飛んだり、すきなものを食べたり。でも君はただ、私と話してるだけ」
「それじゃだめなの?」
「ううん、嬉しいよ!」
彼女の笑顔を見るたび、僕の胸は少しずつ軽くなっていった。現実では人と目を合わせられない僕が、夢の中の彼女とだけは視線を交わせていた。
夢の中での時間は、現実とは別の速さで流れているようだった。
教室では一日が長くて仕方ないのに、彼女と過ごす夜はあっという間に過ぎてしまう。 気づけば目が覚めて、そこにはいつもの天井が広がっていた。
「……また会いたい」
そんな言葉を口にしてしまった自分に、驚く。
他人と距離を置いて生きてきた自分が、誰かを求めている。
その事実が、彼女は僕にとって大切な存在であることを認識させた。
ある夜、僕は彼女と古びた図書館の中にいた。
高い本棚が果てしなく並び、窓からは月明かりが差し込んでいた。
背表紙に刻まれた文字はどれも読めない。けれど、その空間は不思議なほど落ち着ける場所だった。
「ねえ、君は将来のこと、考えたりする?」
彼女が本をめくりながら、ふいに尋ねてきた。
「将来?」
「そう。大人になったら何になりたいとか、どこに行きたいとか」
「……考えたことないや」
答えた瞬間、我ながら情けなく思った。
周りの同級生は部活動に打ち込んだり、進学先を口にしたりしている。なのに僕はただ、その日その日をやり過ごすだけだった。
彼女はそんな僕を責めることもなく、ふっと笑った。
「いいんだよ。考えられないってことは、まだ選べるってことだもん」
「……そうなのかな」
「そうだよ。私なんて、選びようがないんだからさ」
彼女はぽつりと、そう言った。
その言葉に違和感を覚えた。
「選びようがない……って?」
「んー、内緒。いつか話すよ」
彼女は笑ってごまかしたけれど、その瞳の奥に一瞬だけ影が落ちたのを、僕は忘れられなかった。
学校は、ひどく退屈だった。
授業中、黒板の文字はまるで霧のように頭をすり抜けていく。
周りの笑い声が遠くに聞こえる中、僕はただ机に突っ伏していた。
──夜になれば、彼女に会える。
それだけが支えだった。
夢の中で、彼女は相変わらず眩しいほどに明るかった。
海辺を歩きながら、波打ち際で足を濡らし、空を仰いで笑う。
「ほら、君も走って!」
「……無理だよ」
「大丈夫、夢なんだから」
彼女に手を引かれると、不思議と足が軽くなった。
砂浜を駆けるなんて現実の僕には考えられないことだ。
笑い声が風に溶けて、胸がいっぱいになる。
けれど、ふと立ち止まった彼女の表情は真剣だった。
「ねえ、君は現実で寂しくないの?」
「……寂しいっていうか、慣れてる」
「慣れてても、寂しいものは寂しいんだよ」
その言葉に返す言葉が見つからなかった。 自分の孤独を、彼女に見透かされている気がした。
それなのに、不思議と嫌じゃなかった。
夢と現実の境界が、次第に曖昧になっていった。
昼間、誰かの笑顔を見るたびに彼女のことを思い出す。
教科書を開いても文字は頭に入らず、代わりに彼女の声がよみがえる。
──どうして夢の中の存在に、ここまで心を奪われているんだろう。
自分でも理解できなかった。
でも、ただ一つ確かなのは、彼女と会えない夜を想像するだけで息苦しくなる、ということだった。
彼女はベンチに腰掛けていた。
夜の公園では、街灯が淡い光を落としていた。
僕が近づくと、彼女は少し笑って言った。
「今日ね、体が重くて動けなかったんだ」 「体……?」
「うん。でもここに来たら、少し楽になった」
その言葉の意味が理解できず、俺は眉をひそめた。
夢の中で「体が重い」なんて、どういうことだ?
まるで彼女が現実に存在しているみたいじゃないか。
「君は現実にもいるの…?」
思わず問いかけていた。
彼女は一瞬だけ黙り込み、やがて柔らかく笑った。
「それは秘密。でも、君ならきっと探せる」
探せる──。 その言葉が心に深く刻まれた。
目が覚めても、胸の高鳴りは収まらなかった。
夢だからこそ、彼女は自由に笑える。
でも、現実の彼女は……何かに縛られている。
彼女の声が脳裏で繰り返される。
「選びようがない」
「体が重い」
それらの断片が少しずつ繋がり始めていた。 彼女は、現実にいる。
そう考えた瞬間、背筋が震えた。
夢だけじゃ足りない。
本当の彼女に、会ってみたい。
それからというもの、僕は彼女との会話を注意深く聞くようになった。
授業中、学校の帰り道、ずっと頭の中では彼女の言葉を繰り返す。
どんな小さな情報も見逃すまいと。
夢の中で彼女が口にした一言一言が、現実の彼女の手がかりになる気がしてならなかった。
五月が終わり、梅雨の気配が近づいてきた頃。 僕は決意を固めていた。
──彼女の居場所を探そう。
それは無謀で、それこそ夢みたいな話だと自分でも思う。
でも、夢が現実とつながっているのなら。
彼女が本当に存在するのなら。
どうしても、確かめたかった。
最後まで読んでくださりありがとうございます。