【エピローグ】千の手の名のもとに
試合からしばらくの後──
蒼牙の実験棟から極秘裏に移送された“第九被験体”は、処分を免れ、行方不明となったと記録されていた。
だが真実は──彼女は救われていた。
引き取ったのは、かつて蒼牙に仕え、今は沈黙の道を歩む元兵棋士・玄凛。
その背後には、密かに協力していた者がもう一人いた。
技師・ハン・リン。
彼は観察記録βを改ざんし、無我の“存在証明”を書き換え、脱出経路を手引きした。
「選ばせてやってくれ……今度こそ、自分の一手を」
その願いを託し、姿を消した。
山奥の庵で静かに暮らす玄凛のもとに、感情を失いかけた少女がいた。
その瞳に、再び人の光が灯るには、長い時間が必要だった。
はじめは言葉も感情もなかった。
だが、彼女は囲碁盤を前にすると、なぜかゆっくりと石を置くことができた。
その一手一手が、かつて彼女が失ったはずの「自分」を少しずつ取り戻していた。
そして、彼女は新たな名を与えられる。
──千手
“誰かの命令ではなく、自分で選ぶ手を打てるように”との願いを込めて。
季節は巡り、月下の戦棋演武祭──
玲秀からは雫、そして蒼牙からも正式な兵棋士が派遣されるこの日。
雫と玄凛が並んで歩き、語り合っていた。
「──あの頃の蒼牙は、誰かを造ることばかり考えていた。破壊することすら創造の一部だと」
「でも、きっと誰かが、“選びなおす”未来を信じてたんだと思う」
静かな夜風の中、二人が歩を止めたその時──
ひとりの少女が、光の差す中からゆっくりと姿を現した。
髪を結い、穏やかな瞳で立つその姿。
「……来たのね、千手」
雫が微笑む。
千手は無言で頷き、懐から白石を取り出し、盤の端にそっと置いた。
それは、かつて彼女が打った“封じ手”の余韻を、確かに宿していた。