【第2局】観察記録β──揺らぐ完璧
蒼牙囲碁武術院の研究区画。技師ハン・リンは監視端末の前から動けずにいた。
「……まただ」
彼の視線は、無我の訓練記録ログに釘付けだった。
数値上は問題なし──それどころか、これまでの全被験体の中で最高の安定率を誇る。
だが、彼女の“指の動き”に、たしかに違和があった。
「この一手……棋理には沿っている。でも、なぜこの打ち方になる?」
映像をスロー再生しながら、ハン・リンは顎に手を当てる。
「まるで“誰かに見せる”ための打ち方だ……まさか」
上司に提出した日報には書けなかったことが、いくつも溜まっていく。
“演算に基づかない微細な動作のズレ。脳波の揺れ。手の癖。すべて──人間的だ。”
彼は、ただの技術者だった。命令には従う。ただ、真実も無視できない。
無我が機械的に繰り返す「封じ手に似た構え」──
その再現頻度は、時間を追うごとにわずかずつ増えていた。
「これ以上“人間”に近づいたら……どうなる」
ハン・リンは書簡を封じると、ひとつの思いに至る。
“この個体は、単なる兵棋ではないかもしれない。”
だが彼には、技術者としての任務があった。
「ノイズの検出次第、即時報告と初期化申請」──それが上層部から命じられた明確な指示。
それでも彼の胸の奥では、もうひとつの声が小さく囁いていた。
“だが、もしそのノイズの奥に……記憶があるとしたら?”
“命令と、観察者としての良心。どちらが真か。”
彼は迷っていた。
ただの計算誤差かもしれない。
だが、もしそれが“彼女の選んだ一手”だとしたら?
葛藤を抱えたまま、ハン・リンは端末を閉じ、再び“記録β”のファイルに手を伸ばす。
それは命令違反ぎりぎりの、静かな反抗だった。
その結論を出すには早すぎる。
だが彼はすでに、それを証明するための観察を“記録β”と名づけ、独自に記録し始めていた。