【第1局】鏡像の碁盤──命令の中の違和
白い部屋。
四方の壁に囲まれた無機質な空間の中で、無我は一人、盤に向かっていた。
脳内演算──開始。
演算値照合──問題なし。
盤上には、配置された石と仮想敵の打ち筋が再構成される。
目の前にあるのは物理的な碁盤ではない。彼女の視覚皮質に直結された内部投影。
打たれた一手に対し、彼女の脳内演算は即座に最適手を導き出す。
勝率、92.3%。
消費演算コスト、基準内。
右手が碁石を取るように動き、空中にそっと置かれる。
それは仮想空間でのみ存在する“一手”だった。
無我に感情はない。
勝利の意味も、敗北の重さも知らない。
彼女はただ、命令された「次の手」を、演算によって導き、正確に実行するだけの存在だった。
だが──
ときおり、特定の盤面にさしかかると、無我の演算が一瞬だけ遅延する。
そして必ず、奇妙な手筋が“混入”する。
その手は、どこか懐かしく、そして哀しい形をしていた。
勝率は低く、最適解でもない。
しかし、その一手にだけ、彼女の脳波には微細な変化が起きる。
それは、記録されることのない、“ノイズ”と呼ばれる揺らぎ。
技師たちはまだ、それを異常とは呼ばない。
ただ「演算誤差」として処理している。
だが、無我の中では確かに何かが芽生えつつあった。
それが「記憶」なのか、「感情」なのか。
無我自身もまだ、理解していなかった。
ただ彼女の指が、何度もその“哀しい一手”を模倣するたびに、
その動きだけが、少しだけ人間らしく見えるのだった。
同時に、無我はもう一つの訓練にも晒されていた。
それは、戦棋核を用いて“棋力”を“戦気”──つまり武力へと転化する応用実験。
演算された布石を、脳内の神経刺激を通じて肉体反応に変換する訓練だった。
虚構の盤で構築された戦局に応じて、無我の体は剣の構え、拳の角度、重心の移動まで自動的に動く。
それはまるで、碁石一手に命を宿すような制御だった。
命令は一貫している──「勝率を上げろ」「殺意を高めろ」「迷いを排除しろ」。
数十の敵影を仮想戦場に投影し、囲碁の布石に従って無我が敵を殲滅するまでの所要時間を測定する。
「ただの囲碁じゃない。これは戦術の言語だ」
技師は誇らしげに言った。
無我は一度も命令に背かず、仮想敵に負けたこともなかった。
だが、全ての勝利のあとに、彼女の手の震えだけが、数秒間止まらなかった。
──それは、恐れか。
──それとも、記憶か。
誰も知らない。無我自身も、まだ。
だが、異変は戦気転化の際にも現れていた。
ある訓練中、囲碁の布石に沿って無我の腕が“斬撃”の構えを取るはずの瞬間、動きが一瞬だけずれた。
それはほんの数ミリの誤差──だが、想定された“殺しの動作”ではなく、別の“何か”を模倣する動きだった。
技師がログを確認する。
「……今の挙動、制御遅延か?」
「違う。明らかに入力された布石と対応しない角度だ」
一部の演算ログには、“封じ手”に近い形が検出されていた。
“殺意”を転化すべき演算に、“対話”の構えが混じっている。
それは、兵棋としてあってはならない“揺らぎ”──
無我の内部には、戦術では定義できない“意志の断片”が、徐々に混入しつつあった。