【プロローグ】沈黙する演算──無我の目覚め
蒼牙・囲碁武術院 地下第四実験棟。
無音の空間に、かすかに響く脈動音。
戦棋核が脳神経と同調し、無我の脳内で無数の碁盤が構築と破壊を繰り返していた。
「第九被験体──識別名、“無我”」
技師たちは彼女をそう呼んだ。
だが、誰もその内部で起きている微細な異変には気づいていなかった。
命令、指示、目標、達成率、勝率。
それらは常に最適解で処理される。
だが、ごく稀に、“彼女にしか再現できない手筋”が混じることがあった。
ある日、解析中の棋譜データの中に、誰も入力していない“封じ手”の形が浮かび上がる。
「……なぜ、ここにこの一手が?」
それはかつて玄凛を敗北に導いた唯一の一手──未来を変えた布石。
無我の中にあるはずのない、外部記録と一致しない“非認可の一手”。
記録係は混乱し、技師たちの間にざわめきが広がった。
「この手筋……誰が入力した?バックアップには存在しないぞ」
「解析ミスか?戦棋核の自動生成にしては出来すぎてる」
「いや、これは何かの“記憶残渣”だ。そうとしか思えん」
「記憶だと?ふざけるな、この個体は感情も人格も完全に除去済みだぞ」
「なら説明してみろ。誰の手でもない一手が、なぜ現れた?」
しばし沈黙が続いた後、端末を覗き込んでいた若い技師がぽつりと呟く。
「……記憶の痕跡か? だがこの個体には、人間としての記憶は存在しないはず……」
しかし、無我のまぶたの裏には──微かな光が灯っていた。
記録されていない“記憶”。
与えられていない“選択”。
その始まりは、遥かな過去、まだ彼女が“ただの少女”だった頃に遡る──