第24条1項『婚約破棄は、両性の合意のみに基づいて成立し、決して真実の愛などによる一方的なものであってはならない』
*誤字脱字のご報告ありがとうございます!
大変助かりました!
初めまして。
水浅葱と申します。
初投稿になります。
帝国一の学舎であり、高位貴族の子女や優秀な貴族の子女が集まる国立学校高等部。
季節はもうすぐ春を迎えるというのに、珍しく前日から雪が降り続くある日の午後。
高等部敷地内にある会場では、卒業式恒例の卒業パーティーが行われていた。
謝恩会の意味もあるこのパーティーは、卒業生とOB、OGである保護者たちで毎年賑わう。
その中に、ウェンディ・ロータス伯爵令嬢はいた。
ウェンディは学園に入学するずっと前の10歳の頃に、ロルフ・ハーバー公爵令息と婚約を結び、入学後は同学年として過ごしていた。
この頃の貴族子女は、中等部に入学する12歳までに家同士で決めた婚約を結ぶのが一般的であった。
ロルフが側近候補として側にいた、前の皇帝で当時の皇太子アンドレアス・フォン・ベルクマンや、同じ側近候補で代々宰相を務める名家のフリッツ・ブラウン侯爵令息も、それぞれ婚約者がいた。
アンドレアスと婚約を結んでいるマーガレーテ・ビアステッド公爵令嬢は、次期皇太子妃。アンドレアスの側近候補を狙う男子学生が多いのと同様、女子学生はマーガレーテの侍女になろうとする者が多かった。
近い将来、要職に就くであろう子女が多いこの学年の保護者たちは、家門の繁栄の為の人脈作りの意味もあり、お互いに親睦を深めていた。
16歳のデビュタントまでは、貴族令嬢は家庭にて大切に厳しく教育される。
そのため女子学生のほとんどが、16歳で高等部から入学する。
高等部から入学したそれぞれの婚約者、ウェンディ、マーガレーテ、そしてフリッツの婚約者であるナディア・ロッテン侯爵令嬢は学業で切磋琢磨しながら、卒業までの3年間交流を深めて来た。
この3人はそれぞれの立場を関係なくしても仲が良く、それは親友と呼べるほどのものだった。
ちょうどその頃、裕福な平民や下級貴族から火がつき、爆発的に人気になった小説があった。
その小説はシリーズ化したり、類似した小説が続々と出版されるほどのベストセラーとなったが、どれも内容は同じだった。
婚約者のいる貴族令息が、自分より身分の低い、或いは平民の少女と恋に落ち、真実の愛に目覚めて婚約を破棄するという物語。
多数の愛読者は、そんな行動をとるような現実離れした者はいないと、あくまでも娯楽として楽しんでいた。
現実ではあり得ないからこそ、その小説は夢物語として人々の人気を集めた。
しかしながら、ウェンディたちが3年生に上がってすぐの頃。
一人の見目麗しい平民が男爵家の養女となり、学校に入学してから事情が変わった。
その少女の名前はリリー。1年前、自身が育った孤児院で幼い子の面倒をみながら働いていたところ、慈善事業を行っているハイネ男爵の目に留まり養女として迎えられた。
ハイネ男爵はすでに10人以上の孤児を養子養女として育て上げ、立派に巣立った子たちは慈善活動を更に精力的に行なった。
生徒会を通じてリリーのことを知ったロルフ、アンドレアス、フリッツは、リリーの謙虚さや、生い立ちに負けない明るさ、貴族のマナーにはそぐわないが、喜怒哀楽がすぐ顔に出るところを好ましく思い、あっという間に淡い恋に落ちた。
リリーも御多分に漏れず、小説をそのまま現実と考えるような人間ではなかった。
まさか自分が貴族令息に見染められるとは思っていないし、それぞれの婚約者に代われるほどの何かがあるとも思っていない。
何より、養女として学ぶ機会を与えてくれたハイネ男爵と、同じ境遇の中で助けてくれたハイネ家の兄姉たちの力になることしか考えていなかった。
ウェンディ、マーガレーテ、ナディアも上位貴族としての常識と品性、知性を持ち合わせた令嬢だった。
冷静に、浮つく婚約者たちを観察し、リリーの本質を見定め、リリーが周りの者たちに嫉妬や中傷されないように気を配った。
そして1年近くが経ち、近年稀に見る大雪の中で卒業パーティーが行われた。
残念ながら小説と現実の区別がつかない、おめでたい者たちが3人いた。
ロルフ、アンドレアス、フリッツである。
3人はいつも一緒に行動していた。だからお互いが誰を見て、何を考えているのか言葉にしなくても理解した。
それが執務で発揮されれば、とても良い主従関係を結べただろう。
残念ながら薄っぺらい恋をした3人の男は、冷静に現実を見ることが出来なかった。
3人は卒業パーティーで男らしく、自分たちの恋に決着をつけることにした。
少しでもリリーに近付きたくて忙しいリリーに無理を言い、自分たちが所属する生徒会に入れていた。
その生徒会は卒業パーティーに在校生代表として参加するので、もちろんリリーもパーティー会場にいる。
そこで3人同時にリリーにプロポーズをするのだ。
誰が選ばれても恨みっこなしで。
しかし、婚約者のいる身で他の女性にプロポーズをするのは男として最低だ。
なので流行りの小説に乗り、リリーにプロポーズする直前にそれぞれの婚約者に婚約破棄を告げることにしたのだ。
セリフはもちろん、今では帝国内で大人気となった『真実の愛に目覚めたので』うんぬんである。
意気揚々とパーティー会場に乗り込む3人。
会場はすでに卒業生と保護者で溢れている。皇族席にはこの後、アンドレアスの両親である皇帝と皇后も座るだろう。
卒業生は華美に着飾ることなく、皆が今日で着るのが最後になる制服をきちんと着用している。
いつもと違うところがあるとすれば、卒業生を表す白い花を一輪、胸元に飾っているところだ。
ちなみにこの花は、パーティーの終盤に婚約者と交換するのが慣わしとなっている。
3人は自分たちの婚約者より先に、生徒会の仲間と慌ただしく動いているリリーを見つけた。
一生懸命に動くリリーを見て思わず微笑んだ3人は、そのすぐ近くにいた婚約者たちを見つけると表情を険しいものへと一転させた。
そして、先陣を切ってロルフが大声を上げた。順番は事前にクジで決めている。
「ウェンディ! ウェンディ・ロータス伯爵令嬢!」
突然の大声に、会場は静まり返る。
マーガレーテ、ナディアと歓談していたウェンディがロルフの方を見る。
ロルフに続き、ロルフの後ろにいたアンドレアスとフリッツがウェンディに近付く。
「ウェンディ・ロータス伯爵令嬢。俺は真実の愛に目覚めたんだ! 君とは婚約破棄してリリ……」
パァァァァァァーンッ
ロルフがリリーの名前を言い終える前に、一歩前に出たウェンディが、その一歩に全体重を乗せてロルフに渾身の平手打ちを食らわせたのである。
静まり返っていた会場が、そのまま凍りつく。
会場にいた全員が、たった今、目にしたことが理解出来ないでいた。あの穏やかなウェンディ嬢が、女性の力とは思えない重い一撃をロルフに食らわせたのだ。人間、理解が追いつかないと動けないらしい。
それは打たれたロルフもそうであり、後ろで婚約破棄の順番を待っていたアンドレアスとフリッツも然り。
「な、何をす……」
パァァァァァァーンッ
「やめっ、話を……」
パァァァァァァーンッ
「ウェン……」
パァァァァァァーンッ
ロルフが話そうとすると、ウェンディがすかさず平手打ちをする。
繰り返すうちに、次第に平手打ちの音しか聞こえてこなくなった。
何度、平手打ちの音が響いただろうか。
遂に、すっかり大人しくなり涙目のロルフが、腫れた左頬をかばいながら膝をついた。
真っ赤に腫れた手もそのままに表情ひとつ変えないウェンディが、いつもと同じ穏やかな柔らかい声でロルフに話しかける。
「それで、ロルフ様の御用はなんでしょう?」
ロルフはもう何も言えない。何か言おうとすると、父親よりも重いあの平手打ちが飛んでくるのを学習したから。
黙り込み涙を流すロルフから視線を外したウェンディは、ゆっくりとアンドレアスとフリッツの正面に立つ。
「アンドレアス様、フリッツ様」
鈴を転がしたような澄んだ声で二人に話しかけると、目の前で友人の惨状を見た二人は体をビクッと震わせた。
「ロルフ様が何を言おうとしていたのか、ご存知ありませんか? 私、頭が真っ白になってしまって。何があってこうなったのか覚えていないんですの」
にっこり笑うウェンディの右手が時間と共に更に赤く腫れ上がる。それを見た女子学生から小さな悲鳴が上がる。
アンドレアスはちらっとロルフに目をやるが、無表情で涙を流すロルフの目にもう光は無い。
アンドレアスが何かを話したら、ウェンディの右手はロルフかアンドレアスかのどちらかに飛んで来るだろう。
アンドレアスは皇太子にも関わらず、何故か怖くて仕方が無かった。
「い、いや……知らない」
すまぬロルフと、アンドレアスは心の中で謝った。フリッツに至っては、初めて目の当たりにした女性からの激しい暴力に直立不動である。
「そうですか。あら? アンドレアス様とフリッツ様も、婚約者様に何かお話があったのでは?」
アンドレアスとフリッツは、ウェンディの後ろにいる自分の婚約者を恐る恐る見る。
ナディアは左手首を軽く振り肩を回している。ナディアは左利きだからなぁとフリッツが遠い目をした。
マーガレーテは制服のブレザーの袖口に指をかけている。あ、暗器を使うんだ、とアンドレアスは目を閉じた。
「「……特に何もありません……」」
小さな声を出した二人を、いつの間にか皇族席に座っていた皇帝と皇后、そして宰相として参加していたフリッツの父親が呆れた様子で見ていた。
「巷で流行っている小説の影響が、帝国内のあちこちで混乱を招いているそうです。実際、浮気を正当化したような『真実の愛』とやらでの婚約破棄が増えて、貴族間でのいざこざになり。裁判所も抱える案件の多さに辟易しているようでして……」
その混乱の一端を我が息子が起こそうとしていたのを目の当たりにした宰相が、情けなさそうに皇帝に報告した。
皇后もふふふと口では笑っているが、その美しい顔には青筋が立っている。情けない計画を立てた上に、ロルフを助けることなく逃げた息子が未来の皇帝として情けなく、腹が立って仕方がなかった。
「しかし、やり方はともかく、ハーバー公爵令息に全てを言わせる前に黙らせたロータス伯爵令嬢には脱帽だな。おかげで息子の愚行を止めることができた」
「全く、その通りです。うちの愚息も助かりました」
父親同士情けなく話している隣で、皇后が侍女を呼び、ウェンディに手当てをするように指示する。
皇后は、貴族の令嬢がその綺麗な手を腫らす程までして、相手の名前を決して出させなかったことに気がついていた。
婚約者の愚行を止めると同時に、その女性の立場も守ったのだ。
あのセリフを、小説の中だけで成立する馬鹿げたセリフを、彼らが最後まで言ってしまったならどうなっていただろう。
帝国中の笑い者だ。そんな皇太子に次期皇帝の椅子は与えられないと反感を買うだろう。そう考えるとゾッとする。
もちろん、息子の婚約者であるマーガレーテも発案者の一人だろう。
何らかの方法で息子たちが今日、愚行に出ることに気付いたのだ。
マーガレーテ、ウェンディ、ナディアは、誰の婚約者が一番に婚約破棄を言い出しても、同じように完膚なきまでに婚約者を叩きのめしたはずだ。
自分たちの時代の令嬢像とはかけ離れているが、それでも周りの者に示しが付かなくなる前に食い止めようと必死に立ち向かったのは認めざるを得ない。
あの娘たちが未来を担う馬鹿な息子たちの婚約者でいる限り、次の世代も安心ねと皇后は呟き、それを聞いた皇帝も苦笑いで頷いた。
ウェンディが手当てのために控室に連れて行かれ、娘の余りの所業に動けなかったウェンディの両親も、ウェンディに付き添い会場を後にした。
ロルフはすっ飛んで来た父親に腫れていなかった右の頬を思いっきり殴られ、ウェンディに謝罪するためにずるずる引き摺られて会場を後にした。
しばらく呆然としていたアンドレアスは、なんとか皇太子としての役割を思い出し、マーガレーテの手を取りダンスに誘う。
マーガレーテは口元だけ完璧な淑女の笑みを浮かべて、目を泳がせたアンドレアスのリードで踊り出す。ぎこちないフリッツと余裕の笑みのナディアが続いて踊り出し、それを見て他の卒業生たちも踊り出した。
会場は賑やかさを取り戻し、卒業パーティーは何事も無かったかのように無事執り行われた。
卒業パーティーの翌日、皇宮内の謁見の間に、ロルフと父親のハーバー公爵、フリッツと父であり宰相のブラウン侯爵が呼ばれた。
しばらくすると頬を腫らしたアンドレアスと皇帝、皇后が現れ、最後にリリーとリリーの養父ハイネ男爵が謁見の間に入ってきた。
「今回のことは大体、アンドレアスの馬鹿に聞いた」
皇帝がアンドレアスをギロリと睨みながら言う。アンドレアスは身を縮めた。ロルフとフリッツも昨晩のうちに、両親に正直に話している。
「貴族の身分でありながら、家や国が決めた婚約者を捨てて自由にしたいだと。嘆かわしい。自由にしたいのであれば、なぜ身分にあった贅沢を甘受している? さっさと平民に身を落として自由にすればいいだろう」
皇帝が至極真っ当なことを言い放つ。貴族は税で贅沢な環境を享受する代わりに、常に国の為に身を捧げる。結婚も然りで貴族の常識である。
「物語と現実の区別がつかず、そんな常識さえ忘れてしまう恥晒しなど要らん」
皇帝の言葉に3人は青ざめる。
「それに関して私も大変腹が立っております。発言をお許し下さい」
静かに聞いていたハイネ男爵が口を開いた。男爵の隣にいるリリーは俯いているが顔は険しい。
「リリーはその3人の男子学生とは結婚の約束は疎か、恋愛感情も持っていないと申しております」
アンドレアス、ロルフ、フリッツの3人は、冷や水を浴びせられたような気分になった。
リリー嬢はどう思う、と皇帝がリリーに発言を促す。リリーがゆっくり顔を上げた。
「はい、その通りでございます。入学した春頃から、3人にはやたら声を掛けられ困っておりました。私は平民で孤児でしたので、学校では勉学に励み貴族のマナーを習得するのに忙しかったのですが、無理やり生徒会に入れられてしまい、放課後の孤児院でのお手伝いが出来なくなることも少なくありませんでした」
養女にして貰った恩返しに1日でも早く立派な大人になりたいと頑張るリリーを、地位の高い自分たちと楽しくお茶をしていれば、それがリリーにとっての幸せだと信じて疑わなかった3人は、自分たちの思い上がりと浅はかさに羞恥心で赤くなる。
「それに、地位のある男性がいつも周りにいることによって、いらぬ誤解とやっかみを受けることとなり大変迷惑しておりました。それに気付いて助けて下さったのが、マーガレーテ様、ウェンディ様、ナディア様でした。いつも庇って下さり、今回の件も任せなさいと仰って……」
リリーは少し涙ぐむ。そしてアンドレアス、ロルフ、フリッツをきっと睨んだ。
「そんな方々に何をなさるおつもりだったのでしょう? あの場で婚約破棄をして私に求婚されていたら、身分差により私は拒否できませんでした。本当に恐ろしい!」
初めて見るリリーの怒りに3人はついには項垂れてしまった。
「娘のリリーは孤児院でも慕われていました。我が男爵家で然るべき教育を受けさせた後は、出身の孤児院の運営に関わらせようと考えていました。リリーもそれが夢だそうです。そんなリリーに、あなた方は勝手に何を望んでいたのでしょう。男爵家の養女だからといってどうにでも出来るとお思いでしたか?」
人格者で温厚、穏やかと評判のハイネ男爵の怒りを含んだ言葉に、男爵より身分が上の親たちも青くなる。
「特にね、あなた。アンドレアス」
それまで扇子で口元を隠し、黙って見ていた皇后が話す。
「どうやって順番を決めたかは分からないけど。もしもアンドレアスが1番にマーガレーテに婚約破棄を申し出て、マーガレーテがそれを止めようとしていたら、マーガレーテは死罪になっていたでしょうね」
アンドレアスがヒュッと息をのむ。確かに婚約破棄を言い切るのを止めるには、力ずくになるだろう。婚約者といえども皇太子に手をあげたとなると、一番重い刑が科せられるのは今のアンドレアスにも分かる。それにマーガレーテは暗器も持っていたし……
「自分勝手な婚約破棄で、一人の罪の無い命が消えて、その上でどう幸せになれるのかしら? あなた方から見たリリー嬢は、それを喜ぶような人なのかしら?」
つくづく浅慮だわ、と皇后が冷たい目で今にも泣きそうな顔をしている3人を見る。
「とにかく、お前たちはリリー嬢に多大な迷惑を掛け、マーガレーテ、ウェンディ嬢、ナディア嬢によって助けられた。特にウェンディ嬢にはな。リリー嬢にはお前たち個人の資産で慰謝料を払え。後は各家同士で話し合え。以上だ」
その後、各婚約者の家を訪れた3人は、土下座せんばかりに頭を下げ謝罪した。
皇帝と宰相はすぐに議会を招集し、帝国貴族内で増えている、流行小説に影響された『真実の愛を理由にした婚約破棄』を問題視し、その被害が想像以上に多かったことから驚異的な早さで1つの憲法を制定した。
それが、帝国憲法第24条1項 『婚約破棄は、両性の合意のみに基づいて成立し、決して真実の愛などによる一方的なものであってはならない』である。
ちなみにウェンディ法と呼ばれることもあるとか無いとか。
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「で、この憲法はウェンディ・ハーバー前公爵夫人、つまり君のお祖母様が発端となり作られたそうなんだ、キャサリン嬢」
あれから45年ほど経った国立学校高等部。
所々修繕はされたものの、重厚な歴史ある建物は当時の面影を存分に残している。
手入れされた中庭で、放課後にも関わらず一心不乱に剣を素振りしているキャサリン・ハーバー公爵令嬢に、ベンチに座り法律書を広げ説明しているのは、皇太子のウルリッヒ・フォン・ベルクマンである。
女性用の騎士服のような練習着を着て、ハニーブラウンの髪を一つに纏めてキラキラ汗を飛ばしながら剣を振る彼女はとても美しい。
気を抜くとボーッと見つめてしまう。ウルリッヒは慌てて、また法律書に目を落とした。
キャサリンは特に返事もせず、淡々と素振りに励む。
側から見れば、皇太子に話しかけられても無視するのは不敬である。
しかし毎日放課後になると、中庭で一人素振りをしているキャサリンの側に来ては、読書をしたり、たまに話しかけてくるこの同級生を、キャサリンは気にしないことにした。
「殿下。またキャサリン嬢の邪魔をしてるんですか?」
一人で鍛錬していると思っているキャサリンと、二人の時間を楽しんでいると思っているウルリッヒに話しかけたのは、ウルリッヒの側近候補で幼馴染のフィリップ・ブラウン侯爵令息だ。
3人は春からこの学校に入学した同級生で、皆同じクラスである。
「じゃ、邪魔なんてしてない! 僕は二人の時間を……」
「フィリップ様、ご機嫌よう。放課後ここには人があまり来ないので、一人での訓練はとても集中できますわ」
噛み合わない二人の返答に、フィリップは苦笑いする。
伝説の馬鹿3人と聡明な婚約者たちの孫が、キャサリン、ウルリッヒ、フィリップである。
「昨日、お祖父様……上皇陛下と食事をした時に、法科の授業が難しいって漏らしてしまったんだ。そうしたら、上皇陛下と上皇后陛下がクスクスお笑いになってね。その時に、帝国憲法第24条1項のことを聞いてびっくりしたんだ」
興奮気味に話すウルリッヒにフィリップは、あれねと頷く。
フィリップの祖父と祖母も当事者であり、さらに宰相一家の孫として教育されているフィリップは、とっくにこの話を知っていた。
何なら、あの一件が婚約を結ぶ年齢を引き上げた要因になったとも聞いている。
子供自身が交友関係を広げる年齢になってから、その時に家の事情と本人の意思を鑑み婚約を結ぶ方が、より良い婚姻関係を結べるだろうとの考えらしい。
なので、現時点で3人にはまだ婚約者はいない。3人だけでなく、大半の学生が卒業までに婚約者を見つけるのだ。
宰相になる予定のフィリップからすると、公爵家のキャサリンを妻に迎えるのは十分に考えられる。加えてあの美貌だ。
キャサリンが他家と縁を結ぶ前に婚約を申し込もうかと思った時に、一番近くで支えなければならないこの男が、キャサリンを熱い目で見ているのに気がついた。
皇太子妃になるのに、公爵家のご令嬢ならこれ以上ない縁談である。
しかもマーガレーテ上皇后陛下と、ウェンディ前公爵夫人は学生時代からの親友である。後ろ盾が強い。
ならば、ウルリッヒの恋を応援するかと観察していたが、ウルリッヒは積極的にキャサリンに近づくものの、挙動不審と言わざるを得ないアプローチしか出来ないようだ。
そもそも読書が好きなインドア皇太子と、できれば騎士になりたい公爵令嬢が上手くいくのか不明である。
休憩にするのだろう、キャサリンが模造の剣を置きハンカチで汗を拭いた。
「キャサリン嬢は、婚約相手などは考えておられないのですか?」
フィリップの問いに、隣にいるウルリッヒが固まる。
そもそも皇太子であるウルリッヒと、上皇后陛下の覚えめでたい公爵令嬢キャサリンの婚約話が一度も出ていない方がおかしい。
きっと祖父祖母世代で、結ばせたい孫たちが自然に近づくのを見守っているのだろう。
「そうですねぇ。どうせ公爵家を出される身ですので、他家に嫁ぐよりも騎士として騎士爵を賜るのも手ですわね」
ふふふと微笑むキャサリンに、あぁこの人なら本当にするな、とフィリップは感じた。
卒業までの2年半で、この人が剣よりも興味を持てる程の男に、ウルリッヒはなれるのだろうか……
隣で耳を赤くしてキャサリンの笑顔に釘付けになっているウルリッヒを見て、退屈な日々が楽しくなりそうだな、とフィリップは思った。
1年後。
誰得? と物議を醸した帝国憲法がスピード公布された。
帝国憲法第6条36項『皇族の配偶者は、騎士爵以上であれば身分を問わない。また、皇族の配偶者は公務に支障が無い限り、騎士団に所属しても構わない』
発案者は、皇太子とも前皇帝とも宰相一家とも噂された。
お読み頂きまして、ありがとうございます。
続編がもう少し見てみたい、と思われた方は、是非いいねや評価をして頂けたらありがたいです!
*よろしければ、続編もお読みください