第三章〜海〜
海
翌日から、アルシアは働き始めた。家事は、リアに見習わせてやりたいくらい手際がよかった。
「よく働くなぁ」窓拭きをしているアルシアを見てつぶやく。「誰かさんも、見習ってくれねえかなぁ」
「うるさいっ。宿題の邪魔!」リアが鉛筆を投げ出して睨んできた。手元には、中等学校で使われている、魔法の歴史についての教科書が置いてある。
「はいはい、分かってますよ」皿を拭きながら返事する。磨き上げた皿は、我ながらピカピカだった。皿を見つめていると、後ろから声をかけられた。
「窓拭き終わりましたよ。次は何をしますか?」
振り向くと、頭に三角巾をかぶったアルシアが微笑んでいた。手には雑巾とバケツを持っている。
「あぁ、掃除はもういいよ。ちっとも働かない誰かさんと違って、よく働いてくれたし。ありがとう、助かったよ」リアの射るような視線を感じながら言う。「夕飯までだいぶ時間があるし、どう? 君さえよければ、近くを案内しようと思うんだけど」
「本当ですか? 行きます。準備するんで待っててくださいっ」
「う、うん」あまりの勢いにたじろぐ。そんなに散歩したかったのか。なら、もっと早く誘っとけばよかったな、そう思った。
きれいに拭かれた窓を見る。汚れていたガラスは、今では透き通っていた。天気も良いし、楽しくなりそうだ。
街を案内していると、顔見知りから、何度も声をかけられた。
「いつの間にそんなきれいな人と知り合ったんだ?」
「よぉレイ。彼女か?」
「美人とデートか。うらやましい……」
と、羨望と好奇心満載の言葉にはやし立てられる。隣で歩いているアルシアは、恥ずかしそうに身を縮こまらせていた。
「知り合ったのは一昨日、彼女じゃないっ、デートじゃねぇ!」
質問の嵐に答えながら、アルシアの手を引き広場を横切る。左肩には、水着とタオルの入った布袋を担いでいた。
「ここから十分くらい歩くと、海がきれいな場所があるんだ。穴場で誰もいないから、のんびりできるよ」
「そうなんですか。でもレイさん、一日中家にいて大丈夫なんですか? お仕事は何を?」
一瞬言葉につまる。言うべきだろうか。迷った末に、正直に打ち明けた。
「空軍で戦闘機に乗ってる。この前墜とされて、新しい機体の準備ができてないから、しばらく休暇をもらったんだ」
「へぇ……。しばらくってどのくらいですか?」
「二週間くらいかな。あと、敬語じゃなくて良いよ。何歳?」
「……今年で十九歳」
「じゃあおれより二歳年上だ。敬語を使うのはおれのほうかな、アルシアさん」
「う、ううん。別に普通でいいよ……」
「そう。あ、もうすぐだよ。こっちこっち」道からそれ、薄暗い茂みの中に踏み込む。草が手足をくすぐり、くすぐったかった。
アルシアの手を引き茂みを歩く。しばらく進むと、潮の香りが強くなってきた。そして次の瞬間、急に目の前がひらけた。
「わぁ……すごくきれい!」アルシアが驚きの声をあげた。子供のようにはしゃぐアルシアを見て思わず頬が緩む。ここに連れてきてよかったと、心から思った。
目の前には、真っ白な砂浜が広がっていた。周囲を岩と樹木に囲まれていて、秘密基地を連想させる。
そして何よりも目を引くのが、唯一拓けた正面に広がる海だった。美しく澄んだ水には、色とりどりの魚が戯れ、穏やかな波が砂浜に打ち寄せていた。青くきらめく海は、陽の光を浴びて、よりいっそう輝いていた。
「ねぇ、早く泳ぎましょう?」アルシアが、もう我慢できないとばかりに布袋を奪った。
「着替えはどこでするの?」
「岩場の影は?」
「分かった。……のぞかないでね? 絶対だよっ?」
「のっ、覗きなんてしないよ!」
「そう。じゃあ、ちょっと待っててね」
アルシアは近くの岩場に駆けていった。レイも着替え始める。シャツを脱ぎ、膝まである緑色の海水パンツに履き替えた。脱いだ服をたたみ、簡単な準備運動を行う。アキレス腱を伸ばしていると、岩場から、水着に着替えたアルシアが出てきた。
「どう? 似合ってるかしら?」
ポーズをとり、悪戯っぽく尋ねてくる。
似合っていた。
ビキニ姿のアルシアは、サンタレム、否、東大陸の住人全員に訊いて、全員が美しいと答えるだろうと思えるくらい。それこそ、どんな宝石よりもずっときれいで魅力的だった。
「ねぇ、レイも早く来てっ」
「ん? ああ。分かった」思わず見とれていた。「ちょっと待ってて」
レイは、高さ五メートルほどの岩に向かっていった。周囲の小さな岩を使って登る。岩の先端に立ち、足元に目をやった。十分な深さはある。
「ねぇ、何してるの?」アルシアが日光に目を細め、見上げてきた。
後ろへ戻り、助走を始める。端まで駆け抜け、跳躍した。ひざを抱え、前方に一回転する。一瞬の浮遊感の後、豪快なスプラッシュと共に着水した。舞い上がった飛沫がアルシアに降り注いだ。
「きゃっ」短く悲鳴を上げる。「えい!」
「ぷわ」
海面に顔を出した瞬間に水をかけられた。口の中に海水が入り、強烈な塩辛さが広がる。
「ははっ」笑いながら立ち上がり、海水をかけ返す。「それ!」
「きゃ!」
しばらくの間、夢中で海水をかけ合っていた。二人の顔には、自然と笑みが浮かんでいた。
日が傾き始め、家に帰ることにした。レイと並んで、夕焼けに染まった広場を歩く。何を話したら良いのか分からず、広場の中心にある噴水に目をやる。噴水の側では、歓声を上げながら模型飛行機を飛ばして遊んでいる子供たちがいた。
ふと、レイの両親はどうしているのだろう、と疑問に思った。一昨日から泊めてもらっているが、一度も顔を合わせたことがない。出稼ぎでもしているのだろうか。
「ねぇ……」尋ねようとしたが、大きな泣き声に阻まれた。
「うぇぇぇん! レイおにいちゃぁん…………飛行機こわれちゃったよぅ……」
振り返ると、六歳くらいの男の子が泣きべそをかきながら、模型飛行機を抱えている。模型飛行機は、右翼が折れてしまっていた。
「なんだ、また壊したのか?」
「うん……おうちで遊んでたらぶつけちゃったの……」
「分かった、直してやるから泣くな。もう部屋で飛ばさないって約束できるか?」
「うん……」
「よし。直ったら家に持ってってやるよ」
手を振って男の子と別れる。男の子はもう泣き止んでいた。
「ねぇ、それ直せるの?」気になって訊いてみる。
「直せるよ。たまにチビどもに頼まれるんだ」
「へぇ」
自慢げに胸を張るレイは、みんなの頼れるお兄ちゃん、という感じがした。レイは街を歩いていると、子供から老人まで、多くの人に話しかけられる。周りから頼りにされているのだろう。
レイは優しかった。会ったばかりのアルシアに優しく接してくれたし、周りにも明るく振舞っている。わがままで不細工な誰かさんとは大違いだ。
――レイは、どんな人が好みなんだろう。好きな人はいるのだろうか。
自分の思考に気がつき、頬を染めた。今の考えを頭から追い出す。命の恩人だから、特別な気がするだけだろう。と、一人で納得した。隣のレイは、アルシアの気持ちなど気づかない様子で、夕焼け空を見上げていた。
「楽しいの?」
「ん?」
「空飛ぶのって、楽しい?」
「もちろん」
「ふーん」
空を見上げたまま答えるレイを見つめる。金色の髪が風になびいていた。楽しそうに空を見つめている。
――空には何があるのだろう。
いったいレイは、空に何を見ているのだろう。わたしも飛べば見えるのだろうか。
その日の夜。ふと気がついた。
――もしかしてわたしは、レイに恋心を抱いているのではないか?
まさか。レイはいい人でハンサムだが、だからって恋するわけが無い。助けられたことに恩を感じているだけだ。
一人で納得しながらリビングに入った。レイは、リアに宿題を教えているところだった。
「あ、アルシア」
レイは顔を上げ、うれしい提案をしてきた。
「お前、空飛ぶか?」




