第九章〜風邪〜
風邪
雨の中、見慣れた海を見る。これでこの海を見るのは最後になるかもしれない、という思いが一瞬頭に浮かんだが、すぐに思考から締め出した。頭がふらふらする。
「レイ」
突然名前を呼ばれ、驚いて振り向いた。目の前に立っている人物は泥まみれで、傘を持たずびしょびしょに濡れていた。
「アリス……なんでここに……」
「なんでって、心配に決まってるじゃない。世界樹のあたりは嵐だってリアから聞いて、慌てて追ってきたのよ」
ばれたか。心の中で舌打ちした。余計な心配をさせるのは避けたかったのだが。
「大丈夫だよ。おれの任務は戦闘じゃない。結晶の力でリヴァイアサンを封印することだ。少し雨風が強いからって、心配することはない」
「でも……もし何かあったら……」
「大丈夫だって。お前こそ、びしょ濡れじゃないか。傘貸すよ。どうせ基地までそんなにかからない」
そういって傘を差し出した。受け取ろうとしないので、無理やり押し付ける。
「あのね、レイ……」
「ん?」
アリスはなにやらもじもじしている。何か言いたそうだ。何を言いたいかは察しがついた。
「レイは、わたしのことどう思ってる?」
竜王から教えてもらって、アリスの感情は知っていた。だがいざとなると、恥ずかしくてはぐらかした。
「どうって、美人の居候かな」
「そうじゃなくて……好きか嫌いかよ」
「それは……友達として?」
「恋愛の対象として」
「…………」
黙りこむ。どう答えればいいのだろう。竜王に教えられたときから、互いの感情が同じことには気づいていた。だが言わなかったのは、それによってアリスを悲しませるかもしれないと思ったからだった。
自分の愛する人を失うのは、周りには想像できないほどの苦痛を伴う。アリスは一度も口にしてないが、彼女は両親を亡くしたばかりだ。そこにもう一度苦痛を与えるかも知れないと思うと、答えられなかった。
「どうなの?」
なんて答えればいいだろう。迷っていると、アリスが距離をつめてきた。
「おれは……」
おれは、アリスのことが好きだ。
だが、好きだからこそ、この気持ちを伝えることができない。あと一歩が踏み出せない。
「おれは……」
踏み出すことができない。伝えれない。黙っていると、アリスが一歩足を踏み出してきた。
「レイ。どうして……」
アリスが抱きついてきた。飛行服に顔をうずめ、涙をこらえている。
「なんで、気づいてくれないの?」
「…………」
「なんで……」
アリスを傷つけたくない。だが、無言で立ち去ることができない。
レイは、必死に涙をこらえているアリスの耳元にささやいた。
「必ず戻ってくる」
時間だ。基地へ向かわないといけない。咳き込みながら、ふらふらと歩き出した。
海岸に立ってすすり泣いているアリスを見る。
――絶対に、帰ってこよう。
帰ってきて、もう一度二人で海に。
アリスは、砂浜に立っていた。レイが去ると、何かつっかえが外れたかのように、大声を上げて泣きじゃくった。
ひとしきりなくと、レイに抱きついたときの感覚を思い出した。
熱かった。
冷たい雨の中で、レイの身体は熱くほてっていた。まるで、風邪のときのように……。
「……レイ」
つぶやいた。呼んだら彼が戻ってくるような気がして、何度も呼んだ。しかし、戻ってはこなかった。
泣きながら、海岸をあとにした。茂みを抜け、広場を歩く。出歩いている人はいなかった。
「……レイ」
もう少しで広場を抜けるというところで、向かいから人が歩いてきた。慌てて涙を拭う。
太った男だった。ずしんずしんと歩いていく。すれ違うとき、目が合った。泣いていることを悟られまいと、目をそらす。
「すいません」
「ほぇ?」
男に話しかけられた。全く予想してなかったので、おかしな返事をしてしまった。
「もしや、アリス・エインズワース嬢ですか? アドルファス大佐と申します。軍のものですが、よろしいですか?」