34話 「傾国 ①」
翌朝になっても昨夜からの雨は未だ止まず、空を覆い尽くす黒雲が霧雨を吐きだし続けていた。
内務大臣アドミッド・キングリーは傘をさし、雨の中を進んでいる。もちろん、目的地は宮廷である。
普段であれば活気に満ちた通りなのだが、早朝ということもあって今は人の気配は少ない。
宮廷が近くなり、ふと宮廷前の階段に目を向けると、そこにただ濡れるにまかせて座っている男がいた。
男はこの雨の中、雨具もつけずただ俯うつむき、階段へ腰かけていた。
そうその男とはブランディス・アベリオンである。今の彼の姿からは天下無双の豪傑と呼ばれていたあの頃の面影は一切残っていなかった。
いかに屈強な男と言えども失恋という名の刃には敵わなかったのである。
アドミッドは思う。まさか、ここまで効くとは。これはよい兆しである。
水音を立てながら、彼はブランディスに近寄る。
「将軍。こんなところで何を? 朝議にしては少し早すぎますぞ」
彼の声に反応したようにゆっくりとブランディスの顔が上がった。
「……いいえ違います。少しでもソフィアの近くにと……」
気迫のない声。以前の彼を知るものであれば、とても同一人物とは思えない、よわよわしい声であった。
「大変申し上げにくいのですが……ソフィアは宮廷にはおりません」
「ではどこに?」
彼は愕然し問いかける。
「ご存知ないか。ソフィアは昨日夜遅く仲父の邸宅に連れていたとか」
「何!?」
「だからわしも心配で……」
その言葉にブランディスは立ち上がる。
「心配とはどういう意味か!?」
「将軍も既にお気づきのことでしょう。仲父の邸宅に連れていかれたということは……そういうことです」
「……何だと。ありえない。仲父は断言された。ソフィアは皇太子妃にするから俺には諦めろと」
「まさに、その通りです。わしにもそうおっしゃった。そうとでも言わなければ、我が家から連れ出すことはできませんからな」
ブランディスはアドミッドの話を聞くと、頭を金槌で殴られたような衝撃を受ける。
「あの老いぼれのペテン師め!」
彼の声は少し熱を帯びてきた。
「確かに許せる振る舞い。将軍に嫁ぐはずだった娘を奪いとったのですから。衛兵から聞いた話では、仲父の屋敷から今も泣きながら将軍の名を叫ぶ女子がいるとか……」
ブランディスは彼の言葉に居ても立っても居られなくり、アドミッドの制止も遮り、仲父の屋敷へと向かった。
ブランディスは仲父の屋敷の廊下を歩いていると、仲父の部屋から男と女の声が聞こえた。
「ソフィア。もっと近こう寄れ。ここで一緒に休もう」
「……でも私はお化粧直しをしないと」
彼らの会話にブランディスはむらむらと嫉妬の炎に身を焼かれ、全身の血液が沸騰した。
「そうか化粧か。なら好きにしてよいぞ」
彼女は仲父から許しを貰うと、化粧室へと歩みを進める。
そして、ブランディスも化粧室へ向かった。廊下にたたずみながら、中を窺うかがうと、そこには夢にまで見た美姫の後ろ姿があった。
彼は我を忘れて、部屋の中まで入っていった。彼は泣きたいほど胸が締め付けられた。
彼ほどの豪傑も魂を抜き取られ、ただ鏡の中に映る彼女を盗み見していた。
すると何かのはずみで彼の蒼白い顔は鏡へと映った。
彼女はびっくりして振り返ると、そのまま彼の胸の中に飛び込んだ。
「ブランディス様。会いとうございました」
彼も彼女を抱きしめ、「俺もだ」と同意した。
「私は悲運な女です。想っている方とは一緒になれず、けだものと暮らさなければおけないのですから。せめてそのお姿だけでも毎日見せ、私を慰めてくださいませんか?」
彼女の一滴一滴の涙と、濡れたまつげはより彼の胸を締め付ける。
「あぁソフィア。そこまで俺のことを」
「はい。ずっとこの時間が続けばいいのに」
ブランディスは中には断腸の思いと同時に、どうしようもないほど狂喜があった。
二人が抱き合っていると、あまりにも戻ってくるのが遅いので心配したザイン・ベルトホルトが化粧室に入ってきた。
「ブランディス! よくもわしのソフィアに戯れたな」
男女二人は仲父に驚き、すぐに距離をとった。
「いや、それは……」
「不届き者め。恩寵を与えれば恩寵になれて、どこまでもツケ上がりおって。出ていけ。二度とわしの前に姿を見せるな! 誰かブランディスを追い出せ!」
ベルトホルトの怒りは甚だしく、ブランディスを口汚く罵る。
室外にどやどやと武将や護衛の足音が集まった。
だが彼はそれを待たず、「なら二度来ん」と言って自分からさっさと屋敷から出て行った。
ソフィアは涙を流し、「私は嫌だと申したのに、アベリオン将軍が無理やり抱き着きついてきたのです」と彼に事象を説明した。
するとベルトホルトは彼女を抱きしめ、「そうか。もう安心せい。奴はもうここへ来ぬ」と慰めていた。ところへ、「何が起こったのですか」とレイモンが入ってきた。
彼とレイモンは場所を移し、まだ怒りの冷めない仲父はブランディスが化粧室で犯した罪を赤裸々に語った。
レイモンは冷静な男である。彼の話は苦笑いを浮かべて聞いていた。
「困りましたなぁ。仲父は天下を手中に収めんとしているお方、そうした将軍のすこしの罪は笑ってお許しになってもらわないと」
「何を馬鹿な……」
「ですが今、アベリオン将軍が他国へ渡ったら……。それこそ一大事です」
「それは……まずい」
ベルトホルトもレイモンに説かれている内に、やや激情も収まってきた。
「ならわしどうすれば……」
「ソフィア殿はアベリオン将軍にお返しになるのが良策かと思われます」
「ブランディスめ。よりによってソフィアに目を付けおって。人にくれてやるには惜しい」
「よくお考えください。天下は未だ安定せず、仲父には武将が必要です。アベリオン将軍は古今稀にみる豪傑です。仲父の天下統一の大望はアベリオン将軍の武勇あってこそなし成し遂げられるのです。天下と女一人ですぞ。どちらが大事かは明白ではありませぬか」
レイモンの話にはベルトホルトを納得させるものがあった。いかにソフィアの愛に溺れていても、天下統一の野望を捨てきれなi。
彼はレイモンの忠言を受け入れて、ソフィアの下へと向かった。




