70 槍也と義丸
ある意味、日本代表を懸けているとも言える紅白戦。
試合は槍也たち赤いビブスを着たチームからのキックオフで始まった。
槍也が最初に蹴り出されたボールを受け取って前を窺うと、白いビブスを着た相手チームのFWが素早いチェックを掛けてくる。
なのでさっと後ろにボールを預けると、受け取った中盤の選手も更に後ろへとボールを預けた。
それからしばらくの間、DFと中盤の間で安全にパスを回しながら前にボールを回す機会を窺う時間が続いた。
はたから見ると、いささかゆっくりとしているように見えるかもしれないが内実はそうでもない。
パスを出す方は、周囲の状況を把握した上での素早く正確なパスを。受け取る方も、次の展開を考えた上でのポジション取りを徹底している。
そもそもボールを受け止めるトラップ一つ取っても非常になめらか。奪われないよう、攻撃しやすいよう、ボールの置き所が考えられている。
同じレベルで実行出来る選手はそうはいないだろう。少なくとも天秤には一人もいない。
対戦相手である白ビブスチームも代表レベルだから攻めきれないでいるが、並のチームが相手だったらとっくに前線までボールが回って、ともすれば得点にまで繋がっているだろう。
味方チームも敵チームもレベルが高い、というのが天秤に慣れた槍也の率直な感想だった。
思わず感心してしまったが、いつまでも、そうしている訳にもいかない。せっかく自分が最も得意とする右のFWを任されたのだから、結果は出さなくてはならない。
幸い……と言ってもいいのかはわからないが、でも、隙は見つけた。
槍也の近くにいる相手の左のサイドバック、彼の動きがさっきからぎこちない。たぶん、こういう場に呼ばれるのが初めてで緊張し過ぎている。
となれば……。
仕掛けることを決意した槍也は、ボールがこちらサイドに回ってきたのを見計らって今の立ち位置から、サイド際の低い位置へとボールを貰いに行った。
ゴールからは遠ざかってしまったが上手くボールを受け取ることが出き、そしてファーストタッチで槍也のマークに付いたサイドバックの目と鼻の先にボールを転がした。
ある程度の距離をとって安全にいこうとした相手の反応が一瞬遅れ、更には慌ててボールを取りに行こうとしたところを狙って、左足を使って中へと切り込んだ。
刹那の駆け引きで相手を抜き去った槍也は、自分の調子が悪くないことを実感しつつ、そのまま真っ直ぐにゴールに向かって行った。
無論、相手チームも即座にセンターバックのカバーが入る。緋桜義丸。
早々に、戦う時が来た。
こうして向き合って見ると、圧倒的な体格と突き刺さるような視線が凄まじいプレッシャーを与えてくるが、抜けば即座に点に繋がるこの状況、パスを回そうとは思わない。何より試してみたい。知らずと笑みが溢れる。
──さあ、勝負だ!
立ち塞がる巨大な壁を越えるべく、槍也はますます加速する勢いで向かって行った。
……。
……。
緋桜義丸は、こちらに向かってくる滋賀槍也を迎え撃つ体勢を整えながらも、抑えきれない憤りを抱えていた。
去年、この男と出会った時から、義丸はセンターバックとしてこの男と対峙することを目標に日々を過ごしてきた。
つまり、今の状況は夢が叶ったとも言えなくもないのだが、しかし、こんな形での邂逅を望んでいた訳では断じてない。
「ちっ!」
我知らず出た舌打ちと共に全身に力が入る。
許せないと思う。かつて義丸が望んだ才能を、サッカーを志す人間なら誰でも一度は欲しいと願うFWとしての才能をこれでもかという程に持ちながら、それを遊ばせておく男。本当に許せない。
義丸だって最初はFWとして大成することを夢見ていた。
別におかしな話じゃない。
実際にプレーするにせよ観客として眺めるにせよ、サッカーで何が一番面白いかと言えば得点シーン。
点が入るのが、ボールがゴールに入るから面白い。
だからサッカーを始めようとする子どもの大半は、まずFWに憧れる。
そこでゴールを守るGKやディフェンス、パスを繋げる中盤の選手になりたいと思う人間は少ない。
勿論、サッカーを続ける内に他のポジションの魅力が分かってくることもあるし、或いは自らの適性がFWにないと悟って他のポジションへと移るケースも多々にある。
だが、いずれの場合も、それはサッカーを続ける内にそうなるのであって最初は点を入れたいと、FWになりたいと誰だってそう思う。
FWはサッカーにおける花形、ヒーローなのだ。
義丸もそうだった。子どもが集まってサッカーをする時、必ずFWをやりたがった。そして、子どもの頃から圧倒的だった体格と身体能力が、限られたFWの椅子を勝ち取らせた。
中学のサッカー部に入ってからもそれは変わらず、1年の頃からレギュラーとして活躍した。
当然、高校でもFWをやり、地区大会を勝ち抜き、全国大会で活躍し、いずれはプロやそれ以上の世界でゴールを決めることを目指していた。
日本代表FW緋桜義丸、そんな未来を本気の本気で夢見ていたのだ。
だいそれた夢かもしれないが、義丸が夢を持てるだけの根拠はあった。
なんせ自分は周りの誰よりもデカくて速くて強いのだ。おまけにボールの扱いだって下手じゃないから無敵に近い。
事実、中学の頃は半ば戦術など関係なく、サイドから適当に上げられたボールに頭を合わせるだけで点が入っていたのだから、これで自信を持たない訳がない。
義丸は自分がFWであることに何の疑問も持たずに人生を歩いてきたのだ……去年の夏までは。
「君にFWは向いていない。高校からはCBをやりなさい」
夏休みに入りかけた7月の終わり頃、穏やかな口調で天地がひっくり返るようなことを言ってきたのは、北九州赤獅子学園のサッカー部の監督だ。
「…………は?」
言葉の意味が理解できなかった義丸は惚けた顔で監督の顔を見返した。
ハイもイイエもない。言っている事が理解出来ない。
そんな義丸に監督は柔和な顔つきで容赦なく話を進めた。
「少なくとも君がウチに来るのなら、私は君をDFとして扱うよ。文句は受け付けない。特待生を取るという事は簡単なことじゃないからね。君の授業料、寮費、食費やその他もろもろを肩代わりするのだから、その分こちらの要望に応えてもらう義務がある」
「ちょ………ちょっと待ってくれ!」
そう監督を引き止める義丸の台詞からは、目上の人に対する言葉遣いが抜け落ちていた。
進学を決める大事な席においてあり得ない失態だが、そんなことすら気付かないほど当時の自分は動揺していた。
「……俺が、DF?」
自分の口から出た言葉に驚くほど現実感がなかった。
何でそんなことをしなければならないのか、理解が出来ない。
何でそんなことを言われなければならないのか、頭が追いつかない。
いっそ笑って「つまんない冗談だな、おっさん」そう流してしまおうかとも思ったくらいだが、相手の立場がそれを許さなかった。
サッカーでプロを目指そうというなら高校選びは大切だ。
サッカーの強い高校へ入れば、普段の練習からレベルの高いサッカーが出来るし、味方も優れているので公式戦も勝ち上がり易い。
そして全国でも活躍出来ればJ1プロチームの目にも止まることも夢じゃない。
部内競争は激しいが、レギュラーに成りさえすればプロへの道が開けているのが私立強豪の良いところ。
中でも北九州赤獅子学園は、義丸の住む大分の中では一二を争う程の強豪校で、全国優勝の経験こそ無いものの地区大会は2回に一度は勝ち抜ける全国常連校。
義丸の現状や家庭の事情を鑑みるに赤獅子が最もプロに近く、出来ることならここに進学したいと切実に願っていた。
なので、義丸の合否を決める監督の言葉を軽く扱うわけにもいかない。
しかし「はい、わかりました」と頷く選択肢もない。そんなことは有り得ない。
ようやく頭が回り出した頭が当然の疑問を投げかけた。
「何故、DFなんですか? 俺はこれまでずっとFWをやって来ました。それなのに何故?」
「だって君、大事なところで外すだろう?」
あっさりと言われた台詞は、義丸をギクリとさせた。
少なくとも心当たりが全くないとは言えない。
「この前の大会、君の学校は準々決勝で負けた。途中まで競っていたのに君はゴールを決めきれなかった。この前だけの話じゃない。君は中学の大会において一度だって全国に進んでいない。いずれも地区大会で負けている。つまり君にチームを勝たせる力はないという事だ」
「それは……っ! ……!」
義丸は咄嗟に反論しようとして、しかし、言葉に詰まった。
確かに監督の指摘していることは間違いじゃないが、その試合では義丸は常に2人の、時に3人のマークが張り付いていた。そんな状況で点を取れなかったことを責められても、ちょっと納得がいかない。
他の大会にしても、負けるときは多人数でガチガチに固められたからで、敗因というならそれは義丸ではなく、義丸が3人引きつけても勝ちきれないチーム力な筈だ。
だが、だからといって「仲間が頼りなかったからです」とは、言いたくなかった。
そりゃ、義丸以外にパッとした選手は居ないし、そもそも勝つ為に努力を重ねたかと言えば、まあ普通だったと思うが、悪い奴らではないのだ。うん、悪い奴らではない。
そんなチームメイトたちの責任にすることが出来ず、かといって、その状況でFW失格の烙印を押されるのも納得がいかず、結果、難しい顔で黙り込んでしまった義丸だったが、そんな義丸の心境を見透かされたかというような台詞が飛んでくる。
「味方のせいだとでも言いたげな顔だね? それを言わないのは立派だけど、でも、違うよ。問題にしているのはあくまでも君のことだけだ。私もその試合を見ていたけど、例え何人に囲まれても、君の高さと速さならゴールを決められるチャンスは何度かあったんだ。でも、反応が遅れたり、シュートがゴールの枠から大きく外れてたりと、君の動きは悪かった。そうなる1番の理由はスタミナがないからだ。君の体は全身、瞬発力に特化している。だからその体格でそのスピードが出せるわけだけど、反面、持久力には難がある。義丸君。君、マラソンとか苦手だろう?」
「…………」
義丸は答えなかった。
しいて言えば、答えられなかったことが答えだ。
「ガンガンプレッシャーをかけられると、あっという間にスタミナを使い切ってしまうわけだ。最近のFWは攻撃だけでなく守備も求められる。攻めと守りを両立させることは君には無理だ。逆にCBは君にとって天職と言える。キーパーを除けば最も運動量が少なくて済むポジションだし、君のフィジカルの強さを存分に活かせる。加えて、性格的に見ても、やはり守備が適任だよ」
そう言って監督は机の上に置かれていた義丸の内申書を持ち上げた。
「ここに書かれている担任の先生からの君の評価なんだが、校則や決まったルールをキチンと守る規則正しい生徒と書かれている。勉強が出来るわけではないから優等生とは言えないだろうけど、真面目な生徒ではあるよね」
「……それが、何なんです?」
「君はずっとFWをやってきたから知らない、もしくは実感がないのかも知れないけどサッカーの守備って攻撃に比べて決まりごとが多いんだ。ラインコントロール一つとっても味方と合わせなきゃ話にならない。それを自由がないとやり辛さを感じるのか、指針がはっきりしていてやり易いと感じるかは人それぞれだけど、君の場合はきっと後者だよ」
だから、ポジションを変えなさいと監督は締め括ったが、その説明で義丸が納得出来る筈がない。
意地を張って反論を始めた。
「スタミナなら、これから付けてみせます!」
「それは絶対に止めておけと忠告しておくよ。せっかく、誰にも負けない速さ持っているのに、わざわざ余計な筋肉をつけて、その速さを殺してしまう真似は慎んだ方がいい。センターバックをやるには十分なんだから、それでいいと思うよ」
「いいわけがっ…………なら、センターフォワードならどうです? 今どきのFWが守備を求められると言っても攻撃の為に残る奴も必要でしょう? 走り回るのではなく、高い位置で待ってロングボールを受け止められるポストプレイヤーなら活躍の場はある筈です」
「一理あると言えば一理あるんだけどさ、やっぱり君には向いてないと思うよ? それが出来ていたのなら、中学の大会でもっと点を取れてたと思うし……」
まるで聞き分けのない子どもを諭すかのような、そんな目をして監督は続けた。
「結局のところさ、君はストライカーじゃないんだって。本物は滅多にいるもんじゃないから出会ったことは無いだろうけど、彼らと君は違う。考え方も行動原理も……本当に全然違う生き物なんだよ。──義丸君。私だって普通の中学生にはこんなことは言わない。君の好きにしていいんだと、教育者らしくその背中を押すよ。だが君は常人にはどうやっても手の届かない得難い才能を持っている。おそらく……君は世界の頂点を目指せる人間だ。そんな奴が自分の進路を自分で決めるなんて贅沢は許されないと思いたまえ。そこそこのFWで終わるのではなく、世界一のCBを目指すべきなんだよ」
「…………………」
徹頭徹尾、お前はFWではないと断じる監督。
酷い話だと思うが、同時に、監督の言葉からは使命感のような物も感じた。
きっと、義丸にCBを勧めるのも、嫌がらせとかそういうことではなく本当に向いていると、少なくとも監督自身はそう確信しているのだろう。
そこまではわかる。だが……、
「納得出来ないって顔だね?」
「…………」
出来る筈がない。例え監督の言うことが全て正しかったとしても、抱いた夢を捨てられない。
そんな義丸の心情を察したのか監督は、ある提案を義丸に示した。
「まあ、今日いますぐ考えを変えろと言われても無理な話か。──なら、こうしよう。これから一週間後に、君たちの年代のトップを集めた合宿があるんだけど、君も参加してみないか?」
「……合宿?」
「そう、合宿。これでも強豪校の監督だからね。それなりに顔は広いんだ。君を推薦してあげるから、トップの連中を見てきなよ。……中でも滋賀槍也、彼のことは一度、見といた方がいい」
「……滋賀槍也?」
その名は義丸でも知っていた。同世代の日本代表FW。義丸が夢見る場所に、ここ何年も当たり前のように君臨している男。
「世間では日本サッカー界の救世主なんて呼ばれてるけど、あれは何一つ間違いじゃない。彼は天性の点取り屋。あれこそがストライカーって人種だよ」
義丸にFW失格の烙印を押した男が、滋賀槍也のことは手放しに賞賛している。
ギリリっと、自分の歯を食い縛る音が自分で聞こえた。
おそらくは監督の方にまで届いているだろうに、監督の態度は変わらない。
変わらず、朗らかな笑みを浮かべたままだ。
「先程も言ったけど、私は君を世界の頂点が狙える人間だと思ってる。だからこそ、早い内に彼と会わせておきたい。君が今後どんなサッカー人生を送るにせよ、彼との出会いはきっと大切な財産になるはずだよ。──それにほら、日本代表が集まってやるような合宿だからさ、そこで滋賀君よりも活躍すれば義丸君が日本代表に選ばれる可能性もあるわけだ。だからチャンスだと思って行ってきなよ」
「………………」
まるで夢見る若者の背中を押すかのような監督の言葉だが、義丸は難しい顔のまま沈黙を続けた。
正直なところ、義丸は人の機微を読んだりすることは、あまり得意ではない。
しかし、そんな自分でも良くわかる。
この目の前でニコニコと笑っている、タヌキ親父という言葉が自然と浮かんで来るようなこの監督は、義丸が合宿で活躍するとは考えていない。
少なくとも、義丸が滋賀槍也の上を行くとは微塵も思っていないだろう。
それどころか、むしろ持っているのは逆の考え、滋賀槍也と競い合えば自分のFWとしての才能の無さを思い知ると、FWとしてやっていくことを諦め、DFに落ち着いてくれるだろうと、そういう意図が見え隠れして……いや、そもそも隠す気すら見られない。
──くそっ……!
まるで胃の中に数百匹の蟻を詰め込まれたような最悪の気分。
舐められている。
本当に不愉快で不愉快で堪らない、堪らないが、最終的には義丸はその提案を受け入れた。
監督の思惑がどうあれチャンスには違いなく、何より自分の力に自信があった。
たとえ滋賀槍也が相手だろうと、パワーやスピードで負ける気はしなかった。高さ勝負なら絶対に勝てる確信があった。
ならば滋賀槍也と競い、勝って、日本代表に選ばれれば監督だって自分をFWとして認める筈だと、そう意気込んで合宿に参加した。
そして結論から言えば、義丸は滋賀槍也に負けた。完膚なきまでの敗北だった。
「うわっ、めちゃデカい! え? 身長何センチあるの? ちょっと羨ましいんだけど」
「ポジション俺と一緒か、よろしくー!」
滋賀槍也の第一印象はイケメン。その次が、気さくで人あたりのいい男、だった。
初めての全国の集まりに、少し緊張気味だった義丸にとってはありがたい存在で、悪い印象は一つもなかった。
そして一緒に練習をしたのだが、その時は深刻な感情は抱かなかった。
確かに足は速いが義丸だって足は速い。体格の良さは言うに及ばず、動きのキレだって負けてない。スタミナやボールの扱いに関しては一歩譲るかもしれないが総合的に見れば、いい勝負をしている、というのが義丸の自己評価だった。
そんな評価がひっくり返ったのは試合が始まってからだ。
義丸はセンターフォワードで滋賀は右のウイング。同じチームで同じくFWをやったのだが……試合中の滋賀槍也は同じFWとは思えないほど、何もかもが義丸とは違っていた。
最初に感じたことは、あいつはチームに溶け込んで持ち前の攻撃力を発揮するのが、あるいは相手DFの力を把握して隙を突くのが凄まじく早いという事だ。
義丸や他のメンバーが近くの仲間とどう連携を取るかを測っているその隣で、滋賀は敵も味方も、まるで旧知の仲のように呼吸を合わせて攻撃に繋げて行った。
そりゃ代表常連の滋賀には顔見知りの、いわゆる代表仲間だって大勢いただろうが、今回が初めてと言う奴もたくさんいた。だが滋賀はそんなことはお構いなしに、初対面の人間と高度な連携を取ってのけた。
おかげでこちらは実に動き易く、なんならパワーと高さを活かして点を決めさえしたのだが、義丸にはそれが自分の手柄だとは思えなかった。決めさせて貰ったのだ。
次いで、滋賀のプレースタイルに至っては理解不能だった。
一見すると基本に忠実で、守備にも積極的に参加する献身的なプレイヤーなのだが、時々、変な動きをする。
お前はDFかと言いたくなるほどポジションを下げてボールを貰いに行くこともあれば、自分のポジションを放棄して逆サイドまででばっていく。
そんな常識から外れた動きが、試合の流れの急所を押さえる動きだったと後から気付く。
後からだ。その動き始めでは義丸にはわからない。
刻一刻と変化するフィールドの中で常に先手を取り続ける滋賀の姿を見て、こいつは人じゃないとすら思った。
──何だ?
──何なんだ、こいつは?
試合中、何十回も繰り返した自問自答。
その疑問の答えは、ゴール前の混戦の中、敵味方の全てに先んじてボールを掻っ攫ってゴールを奪ってのけた滋賀の後ろ姿を見た時に、唐突にやってきた。
ああ、そうか……、
「……これがストライカーって生き物か」
単に足が速いとか、テクニックが凄いとか、そういうことじゃない。
点を取る為に自分の能力を発揮し、点を取る為に周りを上手く使い、点を取る為に敵を読み、点を取る為に機を窺う。
時に行う非合理な行動すらも点を取る為のもので……おそらくは、どんなに劣勢で点差が離れていても点を取ることを諦めないだろうと思わせる、人ではないストライカーという名の生き物。
これが赤獅子の監督が言う、滅多にいるもんじゃない本物だと言うなら、確かに義丸は偽物だ。
──………………ああ、くそっ。
本物を前にして義丸は悟った。悟りたくもない事を悟ってしまった。
すなわち、どうやっても、どう足掻いても、義丸は滋賀槍也のようには成れはしない……という事を。
ポキッと。自分の中の何かが折れた音がした。それはFWをやるなら絶対に持っていなければならない物。
「諦めて、どうする……」
そう口では強がってみたものの、奮い立つものはなかった。
……。
……。
合宿が終わって地元に帰ってきた義丸に赤獅子の監督が会いに来た。
やさぐれた心が一瞬、暇なのか? とも思わせたが、そんな訳はないだろう。それだけ義丸を買っているからこその行動なんだと理解はできる。
「どうだった合宿は? 勉強になったかい?」
ニコニコと人の良さそうな顔に殺意すら湧きかけたが、義丸はそうした全ての感情を押し殺して監督に問いかけた。
「俺がDFをやれば……CBなら、いつか滋賀槍也を超えることが出来ますか?」
その質問を聞いた監督は、合宿で何があったのか、義丸が何を感じたのかを全て察したのだろう。
満足げに頷いてから、真顔になって答えた。
「それは君次第さ。──特待の席を用意しよう。それと義丸君。君さえ良ければ、この夏からウチの練習に参加しないか?」
「……よろしくお願いします」
そう頭を下げたところで、事実上、義丸の進路が決まった。
同時に、いつか日本代表FWになるという義丸の夢も終わった。
それからしばらくの間、義丸の中にはどうにも消せないわだかまりが漂っていたが、そんなわだかまりを消し飛ばす為にも、義丸は積極的に赤獅子高校の練習に参加した。もちろんCBとしてだ。
そして、いくらもしない内に義丸は気付いた。自分はCBに向いている。
やみくもに走るのではなく、要所で待ち構えるというスタイルが自分に合っている。
周りと連携する組織守備を苦にしない。
何より1対1の守備では、名門赤獅子高校の誰を相手にしても無類の強さを誇った。
天性のCB。
ちょっと癪だが監督の言ったことは正しく、また指導力にも確かなものがあり、夏休みが終わって9月の終わり頃には中学3年にして赤獅子の誰よりも強くなっていた。
だが、義丸はそれで満足出来なかった。
『俺がDFをやれば……CBなら、いつか滋賀槍也を超えることが出来ますか?』
少し前、監督にそう問いかけた。
正直、最初は口だけだったと思う。FWを諦めた自分がみっともなくて恥ずかしくて、せめて何らかの大義名分が欲しくて『滋賀槍也を超える為にCBやるから 、FW諦めてもしょうがない』って自分自身に言い訳をしたくて、それを口にした。
でも、CBをやっているうちに自信がつき、野心が芽生えた。
FWでは届かない滋賀槍也にDFとしてなら並べるんじゃないかという夢を見た。
一度そうなると、もう、どうにも止まらず、義丸はひたすらに強さを求めた。
中学では高校受験を控えた同級生たちが、進学が決まっている義丸のことを「余裕じゃん」とか「遊びほうだいで、いーな」とか羨ましがったが、余裕も遊ぶ暇も一切無い。
気を遣って言い返すことこそしなかったが、むしろ義丸の方がよっぽど切羽詰まっていた。
化け物と肩を並べようとするなら、こちらも化け物にならなくてはならない。
死にものぐるいで自分を追い込む当時の義丸の頭にあったのはただ一つだけ。
滋賀槍也。
必ずいるのだと思っていた。高校の全国大会か、それとも高円宮か。勝ち上がっていった先に必ずあの男がいるのだと、義丸は疑いすらしなかった。
ところが晴れて赤獅子に入学した義丸が夏のインターハイの地区予選を勝ち上がっていっても、全国にあの男はいなかった。
なんと、名前も聞いたこともない、地区大会で2、3回戦負けするような一般校にあの男は進学したらしい。
そのことを知ったのは、確か入学してまもない頃に発売されたサッカー専門雑誌によるものだったが、気付いた時には義丸はその雑誌を握り潰していた。
許せないと、心底思った。
あれだけの才能を持った男が。
義丸が欲しくて欲しくて仕方がなかったFWとしての才能を溢れんばかりに持っている男が。
そうなりたいと本気で挑み、そうなれないと絶望し、それでも立ち上がった義丸が今なお目指す高みにいる、いる筈の男が、どこにでもいる普通の学生のように普通に進学する。サッカーを優先しない。
そんなことが許される筈がない。
これが、プロチームのユースに入って三段跳びで昇格、プロデビューを果たしたのだから高校サッカーをやる義丸ごときとは戦えない、だったら怒りはしなかった。
もしくは、名門高校に入学したが怪我で、もしくはあり得ないとは思うが実力が足りなくて地区大会で負けた、なら残念に思っても怒りはしなかった!
なのに、一般入試で! 何の実績もない無名校!
まだ全国的には無名だった義丸ですら、自分の進路を自分で決める自由はないと言われた! なのに、日本代表FWにそんな自由があっていいはずがない!
かつてないほどの憤りを抱いた義丸だったが、それでも一応、一抹の冷静さは残っていた。
全ては自分の一方的な思い入れで、恨みを抱くのは筋違い。義丸に他人の人生をどうこうしようと口を挟む権利はない。
少なくとも理屈では分かっている。分かっているが、その理屈で自分が納得しないことも分かっていた。
絶対に許せない。死ぬまで怨む。死んだ後も怨む。末代まで祟ってなお許される。
そんな黒々とした思いが義丸の中で燃えていた。
それは地区大会を勝ち抜き、夏のインターハイの頂点に立った今でも。
一切燻ることがなく、いっそ膨れ上がるかのように今でも。
……。
……。
「はっ!」
ボールを晒しながらも、足を出せば逆をとれる。そんな絶妙なタッチで距離を詰めてきた滋賀が最後、利き足のアウトタッチを使って縦に抜けようとした。
シンプルな仕掛けだが、足の速さ、ボールタッチ、緩急の付け方、全てがハイレベル。
これほどのドリブルは全国大会でも数える程しか見かけなかった。
試合が始まってから大した時間も経っていないが、ちょっと動きを見ただけでわかる。
滋賀槍也はあの常軌を逸した攻撃本能を失ってはいない。天才は天才のままだ。いや、年相応に成長すらしている。
なのに何故、こいつは、
『滋賀君。今からでも遅くない。私が推薦してあげるからユースに入るんだ。君に相応しい環境に身を置くんだ』
『ありがとうございます、監督。でも、すいません。俺は今の学校、今のサッカー部でやりたいことがあるんです』
どうして、そういうことを言う!
「〜〜〜〜〜〜〜〜!」
義丸は声なき咆哮を上げながら全身の力を爆発させた。
体の向きを変えボールを追う。隣を抜けて行こうとする滋賀と並走し、競り合い、腕を使って牽制し合いながら最後は速さでぶっちぎった。
滋賀を背中に置いて1人ボールに辿り着いた義丸はボールをキーパーへと預け、そのキーパーは逆サイドへとパスを捌いた。当面の危機が去ったことを確認した義丸はフーっと荒い呼吸を整えながら、改めて滋賀の方を向いた。
滋賀はとても驚いた顔をしているが、義丸はフンと鼻を鳴らした。こんなもので終わらせる気は全くない。
今日、義丸は目の前の男を完膚なきまでに叩き潰す気だ。
自信はある。
確かに滋賀はドリブルもスピードも同世代の中ではトップクラス。だが、ことスピードや1対1においては今の義丸の方が更に上を行く。
この一年、化け物を追った義丸は化け物へと成り上がったのだ。化け物のくせに普通の生き方をする中途半端な存在に負ける筈がない。
「何度だって仕掛けて来い。俺はそれを全て潰す。お前が笑えなくなるまで、何度だって叩き潰してやる」
義丸は、頭一つ小さい滋賀を睨みつけるかのように見下ろしながら宣戦布告をぶちまけた。




