65 先輩マネージャーの主張
アキラが夕飯の後、ロアッソ゠バジルの試合を見ることが日課になって早10日ほど。
この間、槍也からDVDを借り、それを見て学び、数日後には返却して次のやつを借りる……というのが一連の流れになっていた。
昨夜も、借りたばかりの新作……アキラにとっての新作を視聴した。
因みに昨夜の録画は、これまでの様なクラブチームの試合ではなくドイツ代表としての試合だったが、クラブチームの中核だったロアッソ゠バジルは代表でもチームの要を担っていて、チーム全体の攻守の主導権を握っていた。
まだ若手だったロアッソがチーム全体に影響を与えられるのは、ロアッソの大局観や判断力が、代表チームの中ですら頭一つ抜けているからだろう。
加えて、多彩で正確なボールタッチが、時に無謀とも思える彼の攻撃をきっちり現実の物へと変えている。もう何本も彼の映像に目を通して来たが一向に飽きが来ない。
貪るように目を通して、そしてそれはアキラのサッカーにも影響を与えていた。
「ボール!」
気温は高いが気持ちのいい風が吹いている土曜の午前、アキラはシンプルな一語で味方にボールを要求した。
アキラと同じく明るい暖色系のビブスを付けた味方のDFは、そばに張り付いている敵FWに苦心しながらもアキラの方にパスを通した。しかし、若干ボールの勢いが弱い。
このままではボールを受け取っても前を向けない、そう判断して即座に方針を変えた。
ボールを待つのではなく、ボールに近寄ってボールを確保するのもなく、むしろ逆、一時的にボールから遠ざかってでもアキラはアキラに付いて来ているマークの動きの邪魔をした。
腕を広げて背中を広げて、相手の踏み出そうとしている先を自分の体を使って潰す。それで相手の勢いが止まるやいなや、今度こそボールを迎えに行ってクルリと前を向いた。
すると、間髪入れずにヤマヒコの指示が飛んでくる。
『3の7、ゴー!』
そこに蹴り出すには慌てて距離を詰めて来ているマークが邪魔だ。アキラは利き足のアウトタッチでボールを横に流して前を空けてから、次のタッチでDFラインの裏へとボールを放り込んだ。
サイドバックとセンターバックのちょうど真ん中を抜けるボールは、味方にとっても相当厳しいボールだったが、パスの受け手である槍也はあっさりとマークを振り切ってボールに追いついた。
簡単そうにやっているが、マークの振り切り方やボールの出し手であるアキラとの呼吸の合わせ方、他にもボールの軌道を読む力、短距離ダッシュ、勢いのある長距離パスをきっちりと自分の支配下に置くボールタッチなど、様々な要素がハイレベルで噛み合っている。
更に決断力や決定力まで兼ね備えている槍也は、抜け出したアドバンテージを失うことなく即決で中央へと切り込むと、前に出てシュートコースを狭めようとしたキーパーの足元を抜いてゴールを決めた。
それを後ろから見届けたアキラは、グッと拳を握った。
「良し」
その呟きはゴールを決めたことに対してというよりは、自分の動きに対してのものだった。
録画の中のロアッソはボールを持ったらパスにドリブルにシュートと、それはもう好き放題にやっているが、その前提として、そもそもボールを持って前を向くのがもの凄く上手い……という事にアキラは最近気が付いた。例え厳しいマークが付いていたとしてもスルッと前を向いているのだ。
どうしてロアッソにそれが出来るのかをアキラは説明出来ない。口で説明出来るほどにロアッソの動きを理解していない。
少なくとも、あれをやれば出来るとか、これを直せば改善するとか、そんな単純な話ではないことぐらいは理解している。
あれは、いついかなる時でも攻撃に繋げるロアッソのサッカーそのものだ。簡単にわかる筈がない。
けれど、だからと言って「分からない」で済ませるなんて真っ平ごめんだ。一つ一つの動きを見返して、考えて、実際に使って見て、いつか必ず自分の物にして見せると、そう思ってる。
とりあえずは、今の動きはまあまあだった。
次は更に上手くやってみせる。
「時間が足りねえな……」
アキラはシャツの袖で汗を拭いながらも、最近感じている不満を口にした。
今日は土曜で学校が休みだから朝から晩までサッカーが出来るが、平日は放課後からしか部活が出来ないのでサッカーに当てる時間が少なくていけない。
思うに日本人は勉強しすぎではなかろうか? 授業はお昼ぐらいで終わっておけよと、真面目に思う。
「まあ、でも……あと1週間の辛抱か」
その頃には一学期が終わって夏休み。毎日が日曜日だ。今より更に暑い日が続くのは勘弁だが、サッカーに当てられる時間も増えるだろう。
そんなことを考えている内に試合が再開したので、アキラはロアッソの動きを思い起こしながら試合へと入り込んで行った。
そして試合が終わって休憩時間、アキラは琴音から受け取ったスポーツドリンクを飲みながらぼんやりとしていた。試合で集中していた分、反動でおっくうで仕方ない。この倦怠感が抜けるにはもう少し時間と水分が必要だろう。
因みにアキラがそんな感じなのに、アキラの同居人は元気一杯でさっきの試合を振り返っている。
『いやー、間宮君はいいね! 凄くいいよ! 状況に合わせてポストプレイをしてくれるし、状況に合わせて裏へ抜けてくれる。どんな状況でも一定の働きをしてくれる安心感があるよ!』
「…………そだな」
疲れている所にマヤヒコの謎の間宮推し、アキラの相槌は限りなくなげやりなものだった。
一応、言っていることはわからなくもない。うちのサッカー部の中盤の選手の中で最も優れている選手は自分で間違いないが、次点に上がるとするなら間宮だろう。
2ヶ月前の県大会でも間宮はレギュラーでこそなかったが、中盤の交代要員として試合に出ていた。
派手さはないが身体能力も背丈も平均以上のモノがある。たぶん、サッカーじゃなく野球やバスケといった他のスポーツやっても、まあまあそれなりに活躍するんじゃないか? という気がする。
けれど、何かとぶつかり合うことの多い間宮を素直に認めることは、アキラには少しハードルが高くて……、
「へーい、佐田君。ちょっといいかな?」
ぼんやり考え込んでいたら、背後から声をかけられた。
女性で琴音の声ではないとなれば、もう一人のマネージャーである沖島先輩だろう。
「何ですか?」
アキラが振り向くと、先輩はニコニコと人当たりの良い笑みを浮かべながらも妙なプレッシャーを放っていて少し引いた。
そして、
「佐田君。8月の遠征合宿の宿泊代金。昨日までが一時締め切りのアレなんだけど、流石に今日は忘れてないよね?」
と、言われたことで圧力をかけられる理由を悟って先輩から目を逸らした。
「あー……それはですね……」
疲れていた頭を再起動させていい訳をアレコレ考えたが、親から貰った封筒入りの宿泊費が現在アキラの部屋の机の上にある以上、上手いいい訳なんぞある筈がない。
「すいません。忘れました」
悩んだ末に正直に告げると先輩はため息を一つ。
「もー、君ら男子は仕方がないね。……週明けの月曜日には持って来るように。もし忘れたら、部活の前に学校から自宅までを往復マラソンして貰うから。わかった?」
釘を刺されたアキラは精一杯、真面目な顔を作って頷いた。
そしてアキラの他にもいる粗忽者から集金する為に踵を返した先輩の後ろ姿を見て、アキラは安堵のため息を付いた。
ヤマヒコが呆れる様に言う。
『何やってんのさ? 昨日、あんなに忘れないようにって注意したのに……』
『昨日じゃなくて今朝、家を出る前に言えよ!』
そうしなかったのは他ならぬヤマヒコだって忘れていたからに違いない。
つまり責任は自分とヤマヒコで等分である、という理屈を主張したら、
『アキラが寝坊して遅刻しかけたのが原因じゃん⁉︎』
と、倍の勢いでいい返されて口喧嘩になった。
もし聞き取れる者がいるなら呆れるであろう低俗な言い争いは、最後にヤマヒコが折れることで決着を迎えた。
少し投げやり気味にヤマヒコがボヤいた。
『もー、アキラはほんとアキラだよ。まあ俺は年長者だから譲ってあげるけど、渚ちゃんはアキラを含めたみんなのサポートをしてくれてるんだから、あんまり迷惑をかけないようにね』
アキラがアキラってどういう意味だ? とか。
さりげなく自分を年長者にするな、とか。
お前は先輩のことを渚ちゃん呼びかよ? とか。
言いたいことは山ほどあったが、口喧嘩に疲れたのはアキラも同じだ。何も言わずにスポーツドリンクに口を付けた。
そのままズズズと、カップを傾けて最後まで飲み干したが少し物足らない。
なので、空のコップを持ったままポットの所まで行っておかわりを注いだのだが、その途中でふと思う。
──これだって、あの二人が用意したんだよな……楽しいのか?
普段から備品の管理やドリンクやタオルの用意など様々な雑用を引き受けてくれる女子マネ二人は、サッカー部にとって助かる存在だとは思うが、逆に二人にとっては何のメリットがあるのか?
少なくともアキラなら、実際にサッカーをやるわけでもないのにサポートだけやるなんて絶対にやらない。死んだってごめんだ。
それでも琴音の方はブラコンの一言である程度納得も出来るものの、逆に言えば沖島先輩の方はわからない。
──雑用が好きで好きで仕方がない。……んな訳ないよな?
──好きな人がいる……とか?
──いや、でも、特別誰かを贔屓してる素振りなんてねーし……。
色々と考えて見たがこれだという答えは浮かばず、また、それを真正面から問えるほど親しくもない。
更に付け加えるなら、どうしても知りたいという欲求もなかったので、休憩が終わって練習を続ける内にアキラの興味は他へと移って行き、練習が終わった頃には抱いた疑問ごと記憶の底へと埋もれて行った。
……。
……。
夏休みが始まった事で授業が無くなり、アキラがサッカーをやる時間が大いに増えた。
それは良いことだが日差しが暑い。
いや、マジで暑い。別に今年は特別な猛暑という訳でもないが、帰宅部だった去年までとは違い、運動部の一員として迎える夏は洒落にならないぐらいに暑くて暑くて仕方ない。
そんな訳で昼間の休憩時間、飯を食い終わったアキラは冷たいアイスを食いたくなった。
アキラだけではなく、かなりの人間が同じことを考えたが、今いる日陰から這い出てコンビニまで向かうのは御免だった。
そんなやる気なし達が話し合いをした結果、じゃんけんで負けた2名が買い出しと、一旦の代金の建て替えを行うことになったが、残念な事にその日のアキラの運は非常に悪かった。
炎天下の日差しの中、歩きながらボヤいた。
「くそ、今日の占いは2位だったのに……マジで当てになんねえな、アレ」
一学期、何かと一緒にいる事が多かった琴音が占い好きとあって、アキラも何となしに星座占いを気にするようになったのだが本当に当てにならない。当たった試しがない。むしろ逆張りした方がいいんじゃないかとすら思う今日この頃だ。
「ちくしょう、なんで俺は最後パーを出した? つーか、あっつ! コンクリートが煮えたってやがるぜ……」
アキラと同じく運に見放された柏木もボヤいた。
とりあえずサイフを持ち出す為に鍵を管理している部長とマネージャー2人の内、アキラにとって最も気安い琴音から鍵を借りて部室へと向かっているが、その僅かな道のりすら暑い。必然、愚痴も多くなる。
声を大にしてアキラは主張した。
「そもそも、じゃんけんってのが良くねーんだよ。運だけじゃねーか? サッカー部なんだからサッカーで白黒つけりゃいいのに!」
「飯食った後に出てきた案なんだから仕方ないだろ……だいたい、そういうやり方だと橘がかわいそうだ。アイツ、高校からサッカー始めたばっかなんだぜ?」
「何言ってんだ? 俺だってサッカー始めたのは高校からだよ」
アキラにとっては当たり前のことだったが、それを聞いた柏木は目を見開いた。まじまじと見つめて「あー……」と声にならない声を出す。
「そういやそうだったか。お前、高校からで中学はサッカーやってなかったよな。それなのにあんなに偉そうなのか……」
「別に偉そうにはしてねえだろ?」
「あー……自覚がねえ……」
何か心外な事を言われながらも部室にたどり着いた。同じような無骨な立方体が立ち並んでいる中の、右から三番目がサッカー部の部室だ。
アキラは部室の鍵を開けて室内に入った。
そしてさっさとロッカーに入った財布を取り出すつもりだったが、奥にある換気用の窓の向こう側にいた沖島先輩と目があって動きを止めた。先輩はアキラたちを見て気まずそうに眉をひそめた。
部室の向こう側には塀ぐらいしかなく、何処かへの近道なんかでもない。そんな辺鄙な場所で一体何をやっているのか? 疑問を抱いたアキラは窓を開けて先輩に声をかけた。
「先輩、どうしたんですか?」
「いやー、あのね……うーん……」
どうやら、あまり人に話したくないようで先輩は言い淀んだ。そんな先輩の足元には水の入ったバケツとタオルと洗剤用具が置いてある。
それらの使い道を自然と連想したアキラが窓から身を乗り出して部室の壁を振り返ると、そこには赤いスプレーで荒々しい落書きが書かれていた。
それ事態が問題だが、書かれている内容は更に問題だった。
《日本代表が遊んでんじゃねーよ! うら切り者!》
名前こそ書かれていないが誰に向けた言葉なのかは一目瞭然でアキラは眉をしかめた。
同じく身を乗り出して落書きを目にした柏木も唖然として呟いた。
「うわ……こりゃ、酷えわ……」
先輩が同意を示すかのように頷いた。
「ホントにね。わざわざ夏休みに学校来てまでやる様な事じゃないよね」
は〜〜っと、ため息をつきながらも先輩は事情を説明してくれた。
といっても、先輩もみんなとお昼の弁当を取りに来たときに、少し室内を換気しようと窓を開けたら発見したただけで、犯人が誰か、いつ描かれたのかは見当もつかないらしい。
学生なのか部外者なのか、それすら不明だ。
実際、落書きの犯人を見つけるなど、現行犯でもない限り不可能に近いだろう。
──面白くねえな……。
と、率直な感想をアキラは抱いた。
何処の誰の仕業かは知らないが、槍也がこの学校に居ることにアキラは無関係ではないし、仮にそうでなくとも同じサッカー部員だ。この無責任な落書きが愉快な筈がなかった。
一方的に殴られて殴られっぱなし、そんな釈然としないものを感じてイライラしていると、沖島先輩は静かな口調でこれからのことを語った。
「それでね、この落書きなんだけど……後で部長にだけは報告するつもり。でも出来れば他の誰かに見られて事が大きくなる前に消しちゃいたいな……って思っているの」
なるほど、先輩がアキラたちを見て気まずい顔をした理由がわかった。
誰にも見つかる前に処理するつもりだったのにアキラたちと鉢合わせしたからだ。そのことを理解したアキラは、気付いたら先輩に噛みついていた。
「こっちは悪くねーのに、口をつぐまなきゃならない理由があるんですか?」
この落書きを消して、何ごとも無かったかの様に先生等に報告もしないというのは、アキラの感覚では犯人への手助けに近い。
犯人を探し出すのが無理だとしても、学校が犯人を探している、問題視している、ぐらいの姿勢を見せたほうがまだマシだ——というのがアキラの率直な考え方だったが、アキラの視線を真っ直ぐに受け止めた先輩は困った顔で自分の意見を述べた。
「佐田君の言うこともわかるんだけどさ、私としては槍也君や琴音ちゃんにコレを見て欲しくないんだよ」
「…………ん、それ……は……」
先輩は犯人の捜索よりも、被害者である槍也やその妹である琴音の方を気遣っている。
攻撃的な思考に囚われていたアキラだが、言われてみれば一定の理解は出来る。槍也は嫌な思いをするだろうし、琴音はたぶん槍也以上にショックを受けると思う。
どっちがいいのか……少し考え込んだ後にアキラは方針を変えた。
「じゃあ、俺も手伝います」
「えっ?」
「2人でやれば練習が再開する前には消せるでしょう」
「うん。ありがとう」
という訳で2人で壁の清掃を、
「おい、俺を忘れるなよ! 先輩、先輩! 俺も手伝います!」
訂正、柏木も含めた3人で壁の清掃を行うことにした。
室内にある掃除用のタオルを持つと、一度部室を出てから裏手側へと回り込んだ。すると、改めて落書きが目に入る。
──ええい、くそ!
アキラは不満をぶつけるかのように洗剤の入ったスプレーを壁に吹きかけて、しばらく間を置いてから雑巾で擦った。
塗料が剥がれ易いタイプなのか洗剤が強力なのか、そこまで力を入れなくとも壁の汚れが落ちていくが、落書きはかなりの広範囲に渡っているので3人でも結構な手間だ。
苦心している柏木が苦々しげにボヤいた。
「しっかし、何でこういうことをやるかね? 裏切り者って……元は槍也のファンだったのか? ファンがこんなことをするなよ」
先輩は壁を擦りながらも、その言葉を否定した。
「違うよ、ファンはこういう事をしない。こういう事をする人は槍也君に何の思い入れもなくて、ただ世の中を騒がせたいだけの、しかも自分が責任を負いたくないっていう、そんな人がやることだよ」
普段は穏やかな雰囲気の先輩らしからぬ毒舌だが、的は射ているとアキラは思う。
こんな事をやる奴は、そもそもファンなどと呼べない。只のろくでなしだ。
そしてそんなろくでなしの為に、この暑い最中に本来やる必要もない清掃作業をやっているのかと思えば怒りが留まることを知らない。
なんとかひと泡ふかせてやりたいと思って色々と考えてはみるが——例えば監視カメラの設置だったり、指紋の採取だったりを考えてみるが、どのアイディアも現実味が欠片もない。どうやらアキラは将来、警察にも名探偵にもなれないようだ。
──なりたくもねえけどな……っと!
想像の中ですら犯人が見つからないアキラは不毛な考えを捨てて、一刻でも早くこの作業を終わらせようと雑巾を持つ手に力を入れたが、ふと隣を見ると同じく壁を擦っていた柏木の手が止まっていた。
どうした? と、思って柏木の視線の先を追ってみると、沖島先輩が壁の上側の汚れに手を伸ばす為に背伸びを繰り返していた。
この先輩がそういう動きをすると、別にアピールしている訳でもないのに自己主張の激しい胸元がそれはもうヤバいことになる。
柏木の視線がそれを追って上下に揺れていた。
——全く……、
わかる。気持ちは良くわかる。少なくとも柏木を軽蔑出来ない程度にはアキラも年頃男子高校生だ。
が、
「手ぇ動かせ、馬鹿野郎」
「お、おう! そうだな!」
思わず柏木の尻を蹴っ飛ばすと、柏木は慌てふためきながらも掃除を再開した。
しかし、そんなアキラたちのやりとりを見て、先輩が不思議そうに首を傾げる。
「うん? どしたの?」
そう邪気の無い顔で尋ねてくるが、馬鹿正直に先輩の胸をガン見してました、などと答えられる筈がない。
「あー、なんというかかんというか、あれ……あれだよな佐田」
「おまっ……! あー、えーと……」
焦る柏木から唐突に話題を振られたアキラは、
──こっち見んなよ!
とか、
──何でもありません……で良かったのに何で思わせぶりに言葉を濁すんだ⁉︎
とか、内心で柏木を罵倒しながらも何とかうまい話題を探そう躍起になった。
そして、追い詰められたアキラの脳みそが、少し前に抱いた先輩への疑問を思い出した。
「そ、そういえば少し気になっていたんですけど、先輩は何でマネージャーやってるんですか? マネージャーって自分でサッカーをやる訳でもないのに俺らのフォローで忙しいですよね。実際、今日だって朝から色々やって貰って、挙句の果てにはこの暑い最中、壁の落書き消しまでやってるんですから、結構損な立場じゃないですか?」
質問に対して質問を返すという、苦し紛れのやり方だったが効果はあった。先輩は真面目な顔で考え込んでいる。このままアキラたちの挙動不審ぷりは忘れ去って欲しい。
そして、しばらくして先輩は、自分で自分の気持ちを再確認するかの様に答えた。
「言われてみればそうかもしれないけど……でも、損だなんて考えたことは無いかな。私、高校に入る前から『高校に入ったらサッカー部のマネージャー、やるぞー』って決めてたからさ。やりたくてやってるし、楽しいから続けてるんだよ」
にこりと微笑みながらの台詞は裏がある様に見えない。本当に楽しいからマネージャーをやっているのだと理解するには十分だったが、じゃあマネージャーの仕事の何が楽しいのか、それがアキラにはわからなかった。
「わからないって顔してるね?」
「……雑用が楽しいとは思えないんで」
「雑用が楽しいんじゃないよ。サッカー部の応援をするのが楽しいんだ。ファンってそういうものだよ? ——私の親って……あっ、母親の方ね。私のお母さん元サッカー選手でさ、私が中学に上がる頃までは現役選手だったから、よく試合の応援とか行ってたんだ」
「うおっ⁉︎ 親がプロとかマジですか⁉︎」
「うん、マジなのですよ。それでね、観客席からサッカーを見て応援するだけでも凄く楽しいんだけど、そこから一歩進んで自分で何かしたくなったからマネージャーやる事にしたんだ」
「……そこまでサッカー好きなら、もう選手やった方が良くないですか?」
「それね!」
アキラの素朴な疑問に先輩は深く頷いた。
「実は私も子供の頃はチャレンジしたんだ。サッカークラブに入ったり、お母さんから習ったりとかしたんだけど、でも実際にやってみると大違い。ボールを持った時に他の選手がボールを奪いに来るのがめちゃくちゃ怖くてさ……あれは私には無理。向いてません。なので選手は止めてサポーター一本で頑張ることにしたんだよ。——佐田君はプレーする側の人間だからピンと来ないかもしれないけど、私は応援したい。みんなは助かる。誰も損してる訳じゃないから、それでいいじゃない?」
それでいいじゃない? と言われたアキラは、まあ、それでいいかと思った。
確かにアキラにとっては理解しづらい話ではある。しかし、本人が望んでやっているならケチをつける筋合いはない。
「そうですね。それでいいと思います」
と、無難な返事を返してこの話題を終わると、その後は特に盛り上がる話題もなく粛々と壁の掃除を続けていった。
……。
……。
「ふい〜〜……やっと終わった。二人ともありがとね!」
壁の落書きが綺麗に消えたところで先輩がお礼を言った。
「いやいや、これくらい何てことないですって!」
柏木は照れたように返事を返した。アキラも軽く頷いたが、掃除が終わったら終わったで別のことが気になる。
「そろそろ休憩時間が終わるだろ。つーか、手遅れか?」
見当たるところに時計が無いのでハッキリとは言えないが、体感的には練習が再開していてもおかしくない。
「そうだね。早くグランドに向かおっか。もし遅刻してたら私がフォローするよ」
その台詞に頷くと、アキラたちは掃除用具を部室にしまい、足早にグランドへ向かった。
結論から言えば遅刻はしなかった。グランドから見える校舎の時計を見るに、練習が再開する時間まで、まだ2分くらいの猶予はあった。
けれど、サッカー部の面々は既にアキラたち以外の全員が揃っていて、練習が始まるのを今か今かと待ち構えている。
「やっべえ、ほんとギリギリだったな……」
焦りつつも安堵していると、そんなアキラたちの元へ部員たちが数人やってきて盛大に噛み付いた。
「佐田ぁあっっ! 俺たちのアイスはぁぁぁああっ⁉︎」
「あっ……」
その、ある種の切なさすら感じさせる咆哮を受けて、アキラは思わず柏木と顔を見合わせた。
「あー……そういや、そうだったな」
「すっかり忘れていたぜ……」
別の用事が出来て、そちらにかかりきりになってしまったが、そもそもアキラたちはアイスの買い出しに行ったのだ。
ぶっちゃけ、もうアイスなんてどうでもいいのだが、ずっと待っていた彼らには悪いことをしたと流石に思う。
「すまん、うっかり忘れた」
「はあ⁉︎ 何でアイスを買いに行ってアイスを買ってくるのを忘れるんだよ⁉︎」
「いや、色々あってだな……」
「食ったのか⁉︎ 俺たちを放って置いて自分たちだけアイスを食いやがったのか⁉︎」
「お前ら、少し落ち着け! 俺もアイスは食ってねえから!」
「嘘つけえぇぇっ!」
暑い中、待ちぼうけさせられた事がよほど腹に据えかねているのか、これまでにない勢いで責められた。
言い訳をしようにも、落書きの事は口に出来ない。
また、逆の立場ならアキラだってそれ相応の文句を言っただろうと思うとイマイチ乗り切れない。
心理的に不利な状況のまま散々に言われたが、そんな状況に沖島先輩が待ったをかけた。
「みんな、ごめんね。ちょっとした用事があって、偶々通りかかった二人に手伝いをお願いしたんだ。私としてはすっごい助かったから、あんまり責めないで欲しいな。——あ、もちろん二人ともアイスを買う暇なんか無かったよ」
先輩のお願いの効果は即効かつ強力で、さっきまでの剣幕がピタリと収まった。どいつもこいつも沖島先輩のお願いなら仕方がないなぁ……とか、ぶん殴ってやりたい。
ヤマヒコなんかは『これが人望の差かぁ……』と、しみじみ呟いているがそれは違う。奴らは美人に弱く、胸で人を差別するエロ猿なのだ。
──お前ら、試合で敵になったら覚えていろよ? ぶっちぎってやる。
密かにやり返すことを検討していたら、部長がみんなに号令をかけた。
練習再開の合図だ。
「みんな、暑いけど練習、頑張ってねー」
先輩が誰にともなくそう言った。
それを聞いていた奴らが調子の良い返事を返して部長の元へと集っていく。
アキラも軽く答えてそちらに向かおうとしたが、途中で琴音に呼び止められた。
「佐田君。佐田君。部室の鍵を返して下さいな」
「ん? あ、ああ、そだな」
アキラはポケットから取り出した鍵を琴音に手渡した。その際に琴音の顔を見つめた。部室の落書きの事を知らないのだから当たり前だが、彼女の表情に陰はない。
「? 何でしょう?」
「いや、何でもない」
まじまじと見つめられた琴音が不思議そうに問いかけて来るが、アキラは誤魔化した。
実のところアキラは、沖島先輩の提案に賛同しつつも、どこか納得しきれないしこりの様なものを抱えていた。
しかし、こうして改めて彼女の姿を見るに先輩の判断は正しかったと、そう思う。
──まあ、これで良かったか。
まるで小指の先に刺さったささくれが抜けたかのような、そんな小さな満足感を覚えながらアキラはみんなの元へと歩いて行った。




