64 7月の日常
7月に入って暑い日が続いたが、アキラはダレることなく練習を続けていた。
パス回しや1対1を毎日毎日、全力で取り組んで来たし、試合では攻撃と守備を両立させる為に広いフィールドを駆け回ってのけた。
その結果、アキラのサッカーの実力、特に1対1の駆け引きは攻撃においても守備においても確実に向上した。試合で間宮が強引にドリブル突破を仕掛けて来ても、今のアキラなら簡単にはやられはしない。
ただ、上には上がいて……まあ槍也のことなんだが、兎にも角にもアキラの実力が向上した結果、これまで理解していなかったあいつの凄みというものを目の当たりにすることになった。
「お願いします!」
1対1の練習時間、偶数とも少人数故の必然ともいえるアキラと槍也の対決が巡って来た時、槍也は元気な声でパスを求めた。
対するアキラは無言で槍也の背中に手を添えながら、ひたすらに相手の動向を探っていた。
基本、攻撃を遅らせることを念頭に置いているが、その一方で、あわよくばパスカットを狙い、槍也がボールを持って実力を発揮する前に勝負を決めたい……そう思っていたが、槍也はいざパスが出るまでは大人しく、むしろこちらに体重を預けるように力感がなかったが、ボールがパサーの足を離れた瞬間、スイッチが入ったように動き出した。
その動きは、槍也に添えていた手を通してアキラにも伝わった。しかしアキラの体は付いて行けなかった。
一瞬だが確実に二人の距離が空いて、そして槍也が前を向くにはその短い猶予で十分だった。
「ぐっ……!」
パスカットどころか、何の時間稼ぎも出来ずに前を向かせてしまったことに屈辱に近いものを覚えたが、そういった感情は無理矢理にでも横に置いてアキラは槍也と向き合った。これから先、一瞬でも気を散らせばそれだけで終わる。
事実、槍也は即座に仕掛けてきた。
あえてボールを晒しながら、アキラを目掛けて正面突破。
シンプルながらも非常に厄介な動きに、アキラは顔をしかめた。
これまでの練習で、槍也のことを仮想の敵として観察、時には対処してきたから良くわかる。
一見、奪えるようにも見えるドリブルだが槍也はきっちりボールを支配下に置いている。
だからチャンスだと思って足を伸ばしても、その足を伸ばした瞬間に切り返すことで槍也はディフェンスを抜く。
かといって、手出しを控えても勢いに乗ったまま間近に迫られ、そこから左右のどちらかへと抜けていく。
押しても引いても結局はペースを握られてしまう槍也の揺さぶりに、アキラは安全策を捨てた。右か左か、勘で決めて一方の対処だけに意識を集中させる。
——二者択一とか! ボランチのやるべきことじゃ、ねーけどな!
裏目が出ればそれで終わりの割り切り守備は、本来なら中盤の底であるボランチが取るべき手段ではないのだが、他に有効な選択肢が見つからないから仕方ない。
その選択肢の無さは、ある意味アキラと槍也の実力差を現していた。
──っ右! あいつは右に行く!
そう決め付けてぶつかりに行った。すると、何の根拠の無かったのに読みは当たり、槍也の軽く逆に行こうとするようなフェイントにも引っかからずにアキラは槍也に付いていけた。
勘で決めたのだから手放しに褒められる訳じゃないが、それはそれ。
先は塞いだし、上手く体を入れて相手の行動を制限しながら横に並走するこの状況、これならボールを奪えると、アキラは槍也の体を押し退けてボールを奪おうとした。
たが……アキラが体を寄せた瞬間、それまで腕や肩を通して感じていた槍也の圧力がふっと消えた。
そこにある筈の力が急に無くなったことでアキラはバランスを崩した。一方で槍也はアキラのチャージを上手くいなして、いや、それどころかアキラの力に乗っかるかのように一歩前に進んでアキラを振り切ると、利き足でのアウトサイドターンで縦に抜けていく。
体勢が崩れたままのアキラではどうすることも出来ず、ボケっと槍也の後ろ姿を眺めることしか出来なかった。
……。
……。
1対1の練習が終わった後は二手に分かれての紅白戦なのだが、その前に休憩が入る。
サッカー部の面々はマネージャーからスポーツドリンクを受け取り、アキラもまた同じように紙コップに口をつけながら先ほどの槍也との1対1を思い返していた。
こっちは一か八かの賭けに出て、それが運良く当たったのにも関わらず、なお上手を行かれた。
まだ、槍也とはそれだけの差があるということだ。
面白くはないが現状を直視しない訳にもいかない。認めて、分析して、分からない所は本人に聞けばいい。
アキラは隣に座っていた槍也に問いかけた。
「つーわけで……さっきのアレは何だ?」
「え? ……ああ。さっきアキラを振り切った動きのことなら、俺が見本にしている選手がこの前やっていたから、それを真似したんだ」
「…………」
「あれ、違った? 別のことを聞いてた?」
「いや、それで合ってるよ……」
合っているのだが、
『凄いね、槍也君。あんな説明の足りないアキラの話を理解するんだ』
ヤマヒコが感心したような声を上げた。正直なところアキラも同感だ。
自分で言っておいて何なんだが言い終わった後、今のはねーなと、自分に突っ込みを入れた。
にも関わらず、こいつは察しが良すぎて、ちょっと気味が悪いくらいだ。
もしかしたら妖怪さとりの末裔だったり、第6感の持ち主だったりするのかもしれない。
——まあ……まあ、いいか。
槍也が何であれ、聞きたいことはそれじゃない。アキラが先を促すと槍也は快く自分の知識と経験を披露してくれた。
自分のプレイの幅を広げる為にプロの試合の映像を、普通に観戦するのではなく一選手に絞って、その動きを追っていく。
時には一時停止や早戻しを使って、対象の選手が何故そう動いたのか? それによりどんな効果が生まれたのか? もし、自分だったらどんな選択をするのか? その他、自分が納得の行くまで繰り返し視聴する。
槍也がそうする対象の選手は何人かいるが、アキラを振り切った動きは、イタリアの一部リーグで活躍している選手が、つい最近に行われた試合で実際に使っていたもので、その選手は代表経験こそ無いものの、長い期間チームのエースストライカーとして活躍を続けている。
特に先ほど槍也がやったような、競り合いにおいてのトリッキーな動きは彼の十八番で、ここぞという場面で試合を決める原動力となっているそうだ。
そこまで聞いたところでアキラは会話を切り上げ、考え込んだ。
「そうか……そういうやり方もあるのか」
最初は単純にもの物珍しい動きに注意を引かれていたのだが、途中から練習方法そのものに興味が移ってしまった。
アキラもテレビでプロの試合をよく見るが、基本ボールの動きを追っている。特定の一人に集中して、その動きを追っていくような真似はした事がなかった。
けれど、言われてみれば効果がありそうで、実際に試して見るのも有りだ。有りよりの有りの話。
そんな風に、新しい試みにノリ気になったアキラだが問題が一つ。
誰を見れば良いのか、そのとっかかりすら思い付かない。
槍也の話では、槍也が少なからずこうなりたいという尊敬やあこがれの選手を模倣の対象として選んでいるのだが、アキラは自分でもびっくりする程に、こうなりたいと思う対象が思い当たらなかった。
強いて言えば小学生の頃に見た海の向こうの背番号7番なのだが、アキラはあれが何処の国の選手なのかも知らないので無理だ。
そして、問題はそれだけじゃない。仮に見本となる相手が見つかったとして、その選手の試合の映像など、都合良くアキラの手元に有りはしない。
親がスポーツチャンネルに登録していて、目ぼしい試合を何年もかけて録画してきたマメな槍也とは違うのだ。
「むぅ……」
始めるハードルが意外と高い事に悩んでいると槍也が助け船を出して来た。
「良かったら試合の映像を貸そうか?」
まだ、やって見るとも何とも言ってないのだが、どうやらアキラの雰囲気でそれを悟ったようだ。そして試合の録画を手に入れる手段に困っている事まで見抜いている。
やっぱり、こいつは勘が良い。勘が良すぎ男だ。
「……つってもFWの奴じゃ意味ねーぞ?」
「大丈夫、凄い中盤の選手が映っている奴だってちゃんとあるから。明日、学校に持ってくるよ」
「そうか……」
それだったら借りたい。ぜひ借りたいが……、
「今日にしてくれ」
アキラは端的に要求を告げた。
「え?」
「明日じゃなくて今日からやってみる。だから、帰りに回り道してお前の家に寄ってくから、今日の内に貸してくれ」
流石の槍也にも察せないものはあるようだ。目を丸くしてアキラを見返した。
練習が終わって、槍也の家に寄って、帰宅して、晩飯を食い終わって……、
「よし、じゃあ見てみるか」
独り言なのかヤマヒコへ向けた言葉なのか、アキラは自分でも判別できない様なことを呟くと、その手に持っていたDVDを器具に読み込ませた。
すると程なくして、何も映されていなかったテレビから色と音が溢れ出した。
『うぇい、楽しみ楽しみ!』
ヤマヒコが合いの手を入れた。
ちょっと前まで、
『7時を越える時間にお邪魔するのはどうかなー? 琴音ちゃん、ちょっと呆れてたよ? T、P、Oって分かる? てぃーぴーおー!』
とか小言を言っていたのに現金な奴だ。
まあ、いつまでもぶつぶつ言われるよりはマシなのだが、ふと気になってアキラは問いかけた。
「お前、画面越しでも試合の流れを追えんの?」
だとしたら凄えを通り越してドン引きものなのだが、ヤマヒコはあっさりと否定した。
『いやー、無理。流石にそんなことは出来ないよ』
「だよな。……なら、何が楽しみなんだ?」
『そりゃ解説を聞いたり、歓声を聞いたり、色々だよ。別に見なくても楽しめるよ。じゃなけりゃ、ラジオとか誰も聞かない筈じゃん?』
「なるほど……」
妙に説得力のあるヤマヒコの言い分にアキラは納得して頷いた。
そうこうする内にテレビの中では試合が始まろうとしていた。白色のユニホームを着たチームがボールを蹴ることで両チームが一斉に動き出す。
ボールを持ったFWが敵陣に切り込んでいき、観衆が一際大きな声援を上げた。
それに釣られてヤマヒコもはしゃぎながら問いかけてくる。
『ねえ! 槍也君が言ってた選手は見つかった? 見つかった⁉︎』
「そんな早く見つかる訳ねーだろ……」
あいつが「真似するにせよしないにせよ、合うにせよ合わないにせよ、一度は見ておいた方がいいよ」とまで言う選手だ。
なので贔屓の選手が居ないアキラは、とりあえずそのロアッソ゠バジルとかいうドイツの選手を看取り稽古の対象にするつもりだが、何ぶん試合は始まったばかり、海外サッカーに詳しくないアキラにはどちらのチームに所属しているかも分からない。
「まあ、中盤の選手だってことだから、ここら辺……」
アキラの台詞が途中で止まった。白いユニホームを纏った方のとある選手、背番号7番のそいつがボールを持った途端に試合が動いたからだ。
「凄……」
中盤が前線の選手へ縦パスを一本入れただけの、只それだけのプレーなのだが、パスを受け取ってから前を向くまでの動作、味方が受け取り易いようなパスの質、そもそものパスの狙い所、その全てが合理的かつ流れる様に繋がっていてアキラは目を見張った。
たぶん……いや、絶対にこの7番が槍也の言っていた選手だ。
仮に万が一間違っていたところで構わないとすら思った。
俺はこの7番を見本にする。そう決めた。
その上で試合の続きを眺めていたが、この7番は、やっぱり槍也が言っていた選手だった。日本の解説者がそう言っていた。どうやらチームの中心選手でドイツの代表選手でもあるらしい。
これだけ凄いのだから、さもありなんというところ。
とにかくプレーの一つ一つが的確で速く、ここぞという場所に走り込んで敵陣を切り崩して行く様は、見ているアキラを夢中にさせた。そして生まれた一つの予感。
──ああ。こいつは……。
根拠は無い。アキラはかつて憧れた選手の顔を覚えていない。名前も覚えていない。国籍や所属チームだって知らない。唯一覚えている背番号も、そもそも世界中で7番をつけた選手がどれだけいるのか……。
それでも、この『とんでもねー動き』はかつて見たそれと同じだ。アキラが大好きで大好きでたまらないそれだ。絶対に間違いない。
居ても立っても居られなくなる様な興奮に包まれながら試合を見守る中、テレビの中の英雄はアキラの期待に応えてのけた。
7番は敵チームを出し抜き中盤から前線へと躍り出ると、味方からのパスとは思えない程の勢いのあるボールをクルリと足首の動きだけで自分のものにし、そのままミドルシュート。DFを目隠しに使ったフックシュートはキーパーの反応を一歩遅らせ、右隅を狙ったボールは誰にも邪魔されずに悠々とゴールを割った。
スーパーゴールに観客が沸いた。
観客と一緒にアキラも沸いた。
「おおっ、ナイス! 凄えゴールだ!」
録画だというのに、拳を振り上げての全力賞賛。
ここまで素直に自分の感情を表に出した事など、いったいいつ以来だろうか?
まるで10歳の子供に戻ったかの様にはしゃいだアキラだが、ふと録画を借りる際の槍也の態度を思い返して血の気が引いた。
槍也はロアッソ゠バジルを褒める一方で故人として扱っていた。
「あっ……、……」
その時はたいして気にも止めなかったが、ロアッソ゠バジルがアキラの英雄であるなら話は別だ。
つまりはアキラの英雄はもうどこにも存在しないことになる。
遅まきながらそれを自覚したアキラは全身の力が抜け、勝ち鬨と共に振り上げた拳を力無く下ろした。
途方もない消失感は、もともと座っていたのでなければ崩れ落ちていたかもしれない。
何かの間違いじゃないかと思いたかったが、つい先程の記憶に曖昧なところは無く、それどころか名前に紐付いて去年の琴音との会話まで思い出してしまった。
『彼が23歳の時、私が小学校5、6年の頃ですね、残念ながら交通事故で亡くなったそうで、早すぎる英雄の死に、その時はドイツが泣いたそうです』
あの時も大したことだとは思わず、実際今の今まで忘れていたのたが、どうやら間違いはないらしい。
「そりゃ、泣くぜ……ドイツ……」
ようやく英雄の死を認めたアキラは、そう呟いたきり椅子の背もたれに体重を預けて天上を眺めた。
『アキラ、大丈夫?』
ヤマヒコがテンションが極端から極端まで振り切ったアキラを心配してくるが、返事をすることすらおっくうだ。何も応えず、ただ黙って虚空を眺めていた。
もう何も考えたくはなかったが、時折、英雄に憧れていた子供の頃の自分を思い出したり、よりにもよってコレを薦めた勘の良すぎる槍也への文句が思い浮かんだりと、人間なかなか無になることは出来ない。
結局最後にはロアッソ゠バジルと向き合うことになった。
アキラが知ったのは今だが、ロアッソが死んだのはもう何年も前のことだ。今更、アキラに出来ることは無いし、過去は変えられない。変えようが無い。
世の無情を感じるが、それでも無情だけが残っている訳じゃない。
ロアッソがきっかけでサッカーを始めたアキラは、ロアッソが居なくなってもサッカーを続けている。途中で挫折して、つい最近再開したばかりだが、それでもサッカーを続けているのだ。
彼の意志を継ぐとか、そんな事は言わない。言える程、彼について知ってる訳でもない。
ただ、アキラはサッカーが上手くなりたい。アキラのサッカーを見て観客が沸いて子供が目を輝かせる様な、そんな特別な存在にアキラはなりたい。
その為には、
「ちゃんと試合を見なきゃな……」
現実に戻って来たアキラがテレビに視線を戻すと、試合は前半が終わりかけていた。
つまりは、もうかれこれ30分以上呆けていたことになる。
少しばかり自分に呆れながらもリモコンを使って最初のゴールまで録画を早戻ししていると、ヤマヒコが声をかけてきた。
『アキラ、大丈夫? 今日はもう休んでもいいんじゃない?』
普段はいらんことを言ってアキラを苛立たせることも多いヤマヒコだが、今回はずっと黙ってアキラの心の整理がつくまで待っていた。今もはっきりと事情を理解している訳でもないだろうに問い詰める様子はない。
そのことに少しだけ、ほんの少しだけ感謝しつつも、全然別の事を語った。これからの未来のことだけを語った。
「いや、見るよ。見て、学んで、レベルを上げる。俺は凄え選手になるんだ」
言い終えると同時に早戻しが終わった。
今度は相手チームのキックオフで試合が始まり、それと同時にアキラの憧れも動きだした。機敏に動いてボールを奪おうとする様は、これまでと変わらず生き生きとしている。
アキラは少しもの悲しさを感じながらも、自らの糧にするべく彼の姿を見続けた。




