56 世代交代
試合も終盤、永谷がDFからの弾んだボールを足元へ納めた時には、既に相手のハイプレスが敷かれていた。
背中越しに感じる相手のプレッシャーが強力で、とてもじゃないが前を向けない。
いや、正確にはこれまでの試合の中で、前を向いてのドリブル突破やFWへの縦パスを何度も試みたのだが、そのことごとくが失敗に終わった。足の速さやマークの寄せ方といった基本的な1対1の能力で、相手の方が遥かに上回っている。
辛うじて上回っている体格の良さを生かしてボールをキープするも、相手チームの戻りの早さを考えれば、状況は刻一刻と悪化していく一方だ。
事実、戻ってきた中盤の1人が永谷を前後から挟み込もうとしている。
「ぬ……ぅ!」
永谷は挟み込まれる前にボールを左サイドへと流した。
ハイプレスを熟知する彼には、それが相手の思うツボであることは承知していたが、かといって2人に囲まれてなおボールをキープ出来る技術は永谷には無い。他に選択肢がなかった。
更には、永谷からのボールを受け取ったインサイドハーフを相手の選手が囲っていく。
味方もパスコースを作ろうと頑張ってはいるのだが相手の動きが一枚上手で、程なくライン際に追い詰められてからの無理なパスをパスカットされた。
「っ、プレス!」
攻守の立場は逆転したが、味方もボール保持者の側にいた。間をおかずにボールを奪還しようとハイプレスを仕掛けたが、相手の中盤はくいっ、くいっ、と器用にボールを転がして時間を稼いだ。
その間に周囲の人間がパスコースを作って、一度バックパスからのFWへの縦パスが入る。
——くそっ!
永谷は自陣に戻りながらも胸の内で呻いた。
パスワークひとつとっても、自分たちと黒牛では、はっきりと差がある。
試合前まで抱いていた、黒牛や魚沼といった強豪相手にも互角に渡り合えるという見通しは、ここに至っては甘かったと認めざるを得ない。今の自分たちに黒牛のハイプレスを突破する方法など…………、
「いや、まだだ! まだ、やれる!」
後ろ向きな考えを振り払うかのように永谷は駆けた。
試合へと意識を戻せば、先ほど縦パスを受けていたFWは上手く時間を稼ぎ、上がってきた味方と連携してショートパスを繰り返すことで、こちらの左サイドを抜けるところだった。
ボールは自陣の最奥まで運ばれてしまったが、幸いにも朝霧が上手くバランスを取った事で中央の人数は足りている。
ここで踏ん張ることが出来れば、こちらにもチャンスが巡ってくる。
ペナルティエリア内のどこに上げられても反応して対処するつもりだったが、そんな永谷の考えを見透かしているかのようにボールはペナルティエリアよりずっと後ろ、後衛から上がってきたセンターバックの元へと放り込まれた。
予想外の展開に味方の反応が遅れたが、次の瞬間、一番近くにいた永谷が動いた。
パスカットは無理だが、正面に回ってシュートコースを消す事は出来る。そしてプレスをかけて首尾よくボールを奪えれば、カウンターにまで繋がる。
全身の力を振り絞るような短距離ダッシュで、シュートモーションに入っているCBの正面に回った。
が、しかし……相手は永谷が壁になるやいなや、ゴールを狙うことを止め、ボレーシュートから右から左への横タッチへと挙動を切り替えた。
決して派手なスーパープレーという訳じゃない。むしろ対極の、基本的でありきたりなボール捌き。永谷自身同じような動作は幾度となく行っている。
だが、動作のキレが永谷たちのそれとは違いすぎて反応出来なかった。
そしてワンタッチで永谷を置き去りにしたCBは、ツータッチ目でこちらの守備の隙間を縫うような縦パスを放った。
勢いよく転がるボールは、同じくその場所に走り込んで来た黒牛のFWが受け取り、そこからのダイレクトシュートが軽々とゴールを揺らした。
ぴっ〜……と、本日6度目のこちらの失点を告げる笛が鳴る。
「っ……!」
思わず唇を噛み締めた永谷、そんな永谷の横を今しがたゴールを決めたばかりのFWが通り抜けていった。
「キャプテン! アシストあざっす! これで今日のMVPは3点決めた俺ですね! 俺に決まりですね!——あの滋賀槍也と点を取り合って勝ってるんすから、プロのスカウト来ちゃたりしませんかね⁉︎」
嬉々とした彼の言葉に、永谷を振り切ったCBが呆れたように応えた。
「たかだか地方の2回戦で、プロからのスカウトが来るわけがないだろう。少なくとも1部のチームからは絶対に無い。……青森はプロ志望だったか?」
「もちっすよ! 絶対プロに行ってやります!」
「なら、こんなところであんまりはしゃぎすぎるな。俺たちの目標はあくまで全国優勝、夏になってからが本番だ。まだスタートラインにすら立っていないのに、油断を招くような行為は慎め」
「ストイック〜! さすがJ1チームからの内定が決まっている人は違うわ〜! ——よし、俺も見習います!」
たわいもない会話をしながら自軍へと戻っていく二人。
そんな二人を永谷は愕然としながら見送った。
彼らの視界に自分たちは映っていない。勝って当然の相手だと思われている。
だが、それを悔しいと思えるならまだしも、永谷が抱いたのはある種の諦観だった。
なぜなら、永谷は彼らの様に本気でプロの世界に行こうなどと考えたことがない。
たわいもない妄想としてなら想像したことはあっても、実現可能な目標にはなりえない。永谷にとってプロとはそういうものだ。
それなのに、黒牛の連中は当たり前のようにプロの世界を視野に入れている。
プロ、そして全国優勝。
自分たちと彼らでは見ている世界がまるで別世界で、それは、これまでの隔絶とした実力差も相まって永谷の心を折るには十分だった。
——俺たちでは……勝てない。
そんな風に肩を落とした永谷だったが、その丸まった背中をばしっと勢いよく叩かれた。
「おら! なにしょぼくれてやがる!」
驚いて振り向くと、いや、声で振り向く前から分かっていたのだが、やはり篠原だった。
篠原は永谷の首にガシッと腕を回して距離を詰めると、まるで内緒話でもするかのように囁いた。
「なあ、まだ試合が終わってもねーのに、ちょい情けねーこと言うけどさ……この試合はもう決まってるな。こっからの逆転はどー考えても無理だ」
「それは……」
永谷は篠原の言葉を否定出来なかった。つい今しがた、自分でもそう考えたからだ。
何も言えないでいると篠原が話を続けた。
「なら、これが俺らの最後の試合ってことだろ? ……だったら最後まで頑張ろーぜ? みっともなくても最後まで走るのが俺らのサッカーじゃん? ——つーかさ、一人で落ち込んでねーで、ちょっと周りを見渡してみろよ」
そう促されてフィールドを見渡せば、仲間たちは傷つき、ショックを受けている顔だが、誰一人として戦意を失っていなかった。続けてベンチや観客席を見ればチームメイトが応援の声を上げている。
「………………篠、お前の言う通りだ」
力の差は歴然としている。けど、みんながやる気なのに、部長である自分が諦める訳にはいかない。いや、それどころか自分こそが率先してチームの先頭に立つべきなのだ。
「みんな! まずは1点、取り返しに行こう!」
誰よりも自分自身を鼓舞する為に永谷は声を張り上げた。
それに仲間たちの力強い反応が返ってくる。
——大丈夫だ。俺たちは最後までやれる。
気持ちを立て直した永谷は、感謝の意味で篠原の背中をぽんと叩くと自らのポジション、トップ下へと戻った。
それと同時、滋賀のキックオフで試合が再開された。
ボールを持って敵陣に切り込む滋賀の後ろ姿を見て漠然と思う。
滋賀からは一言の恨み言も聞いたことはないが、おそらく……いや、間違いなく俺たちは滋賀の能力を活かしきれていない。全くもって不甲斐ない先輩だ。
だが、しかし、それでも——
例えみっともなくとも、精一杯あがく為に永谷は前を向いて走りだした。
……。
……。
「みんな、次の学校に迷惑がかからないよう、手早く綺麗に着替えを済ませてくれ」
試合が終わってロッカールーム。永谷たちは速やかに着替えを済ませてロッカールームを後にしようとしていた。
中には目を赤く腫らしている者もいて、永谷だってその気持ちは痛い程わかるが、だからといって他校に迷惑をかけて良いという道理はない。
一通りみんなの着替えが終わり、忘れ物だったり散らかした物がないかを確認してから、各々、室内を後にした。
その際に、永谷は朝霧を呼び止めた。
「朝霧、ちょっといいか?」
「はい。大丈夫です」
おそらくは永谷が声をかけることを予想していたのだろう。朝霧に何の用かと探るような気配はなかった。
部員達のいなくなったロッカールームで、永谷はしばし無言だった。
柄にもなく、言葉に迷っている。
本来なら永谷が先代の部長から託されたように、朝霧に天秤のサッカーを託していただろう。永谷自身、それを望んでいた。
だが今日の試合。永谷たちは最後まで走りきり、やれるだけのことはやりきったと納得はしているが、それでも最終的なスコアは6対1。
惨敗と言っていいスコアだ。一矢報いたこちらの1点も滋賀の個人技である。
天秤のサッカー自体は、何も通用しなかった。
それでも、それしか選択肢がなければ託しただろうが、今の天秤には他の道もある。
佐田明。
試合中、自分たちでは黒牛のハイプレスを突破出来ないと思い知った時、永谷は確かにあの後輩のことを思い浮かべた。
永谷には佐田を使うという選択肢は取れなかった。取れなかったが……、
——部長……すいません。
迷いを振り切った永谷は、胸中で先代の部長に一言謝ってから永谷の言葉を静かに待っている次代の部長へと話を切り出した。
「朝霧、俺たち三年は今日で引退だ」
「はい」
「そして次の部長は朝霧、お前なんだが……俺は、お前は俺なんかよりも、よほどいい部長になれると思っている」
「いや、それは……」
永谷の言葉を否定、もしくは謙遜しようとした朝霧を軽く手をかざす事で制止した。
「本当だ。朝霧は周りのことを良く見れているし、やる気も判断力もある。決断力もな。だから……」
「……」
「だから朝霧、朝霧はこれまでの天秤のサッカーを無理に引き継ごうなんて考えなくてもいいんだ。朝霧が正しいと思った事を進めてくれ」
「……」
「今まで何くれと支えてもらった事は本当に感謝している。——きっと朝霧の作るサッカー部は、きっと今までのどの世代のサッカー部よりも強くなるさ」
そう言い終えて最後は笑ったつもりだが、上手く笑えたのかは自分でもわからなかった。
そんな永谷に朝霧がぺこりと頭を下げながら言う。
「部長、これまでありがとうございました」
その言葉を聞いて、終わったな……と、そう思った。
いや、厳密にはこれから部のみんなへ挨拶が残っているのだが、それでも永谷の高校サッカーは終わった。
ジワリと目じりに涙が浮かんだが、それを朝霧に悟られないように拭った。
「じゃあ、みんなの所に戻ろう」
そう朝霧を促して永谷はロッカールームを後にした。




