53 試合の翌日
ゴールデンウィークが終わって翌々日、御堂恭平が教室に入ると、自分より先にアキラの姿があったので、おやっ……と、意外に思った。
普段はもっとギリギリ、あるいはチャイムが鳴った後に慌ててやって来ることも珍しくはないものぐさ男が、こんなに時間に余裕をもって登校しているとは珍しい。
丁度、話したい事もあったので、荷物を置いた恭平は一つ手前の席でだらけた姿勢で机に寝そべるアキラの肩をポンと叩いた。
「佐田、おはよう」
「んあっ! ……っ!」
「んっ?」
誓って言うが恭平は大した力を入れた訳じゃない。ただの軽い挨拶である。
であるのに振り向いたアキラの顔には、
——何してくれるんだ、てめえ!
という恭平に対しての非難が浮かんでいる。こちらの方こそ何なんだと言いたいが、その痛みを堪えるしかめっ面を眺める内に合点がいった。自分の席に腰を下ろしながら尋ねた。
「もしかして筋肉痛か?」
半年前までバリバリのスポーツマンだった恭平の予想は間違っていなかったようで、アキラは涙目で頷いた。
「そうだよ! まじでヤベーよ!」
「目にくまが浮かんでるが、寝れないレベルなのか?」
「夜中の2時に痛みで目が覚めて……そっから一睡も出来なかった」
「それはそれは……」
どうりでくたびれている訳だと恭平は納得した。
「昨日の試合ではだいぶ活躍していたからな。その反動が来たんだろう。——佐田。お前、サッカー上手いな」
「ああっ? ……何だ、見てたのか?」
「少しだけな」
昨日、美術室でデッサンを繰り返していた恭平は、休憩と気分転換を兼ねて屋上へと上がった。
すると、グラウンドではサッカー部が試合をしていてアキラが無双していた。アシストが1本にミドルシュートが1本。
恭平は自分が見たシーンを簡潔に伝えて「やるじゃないか」と賞賛を添えたのだが、何故かアキラの顔は沈んでいった。
「どうした?」
その率直な質問に、アキラは苦々しげに答えた。
「いや、褒められといて何なんだが……別に勝った訳じゃないからな」
「ん? じゃあ負けたのか?」
「いや、負けてもない。引き分けで終わった。——正直、途中まで勝ったかと思ってたけど……最後に滋賀にひっくり返された」
「ああ、なるほど……」
サッカー選手としての槍也をよく知る恭平は、納得して頷いた。
あれはそういう男だ。なるほど……以外に言いようがない。
同意を示す恭平にアキラの愚痴は続いた。
「まあ、滋賀の1点は仕方がないとして……問題はその後だったな。流れが完全に切られて、その巻き返しも出来なかった……つーか、それをやるだけの体力が残ってなかった。もし延長戦があったら絶対に負けてたな」
「ほうほう……」
恭平はサッカーから離れたが、だからと言ってサッカーが嫌いになった訳じゃない。したがってサッカー談義も嫌いじゃない。
そんな訳で暫しの間、大人しくアキラの愚痴を聞いていた恭平だが、アキラの愚痴が一通り終わったところで、今度は自分の疑問をぶつけてみた。
「そういえば、佐田。昨日、お前がサッカーをやる姿を見て思ったんだが……」
「ん? 何をだ?」
「もしかして滋賀が天秤に来た理由は、お前だったりするのか?」
昨日、屋上から試合を眺めていて、恭平はアキラのことをサッカーが上手いと思った。より正確には、ちょっと上手すぎないか? とすら思った。
はっきり言って、高校からサッカーを始めたにしては異常だ。そしてそれは、この学校においてもう一つの異常である槍也の事も連想させた。
思い返せば槍也は最初からアキラの事を気にしていた。
更には、槍也の妹でクラスメイトでもある滋賀琴音も、何故かアキラの面倒を見て練習に付き合っている。
これまでは単なるお人好しか、もしくは変わった趣味の持ち主かと思っていたのだが、そこに昨日垣間見たアキラのサッカーを加えると、また違った推測が生まれたりもする。
さて、どうなのか? と、興味ありげに相手の様子を眺めると、アキラは難しい顔で何やら言葉に迷っている。
そして、
「あ〜〜……その質問、ちょっとめんどいからパスでいいか?」
という返事が返ってきて、率直に言って呆れた。
「お前……」
別に言いたくないなら、それはそれで構わない。恭平に相手の意に沿わないようなことを無理に暴き立てる趣味はない。
だが、誤魔化すにしても、もうちょっと言い方があるだろう。
めんどいからパスとは何かあると自白しているようなものだ。
いっそ、しらばっくれ方を伝授してやりたい気持ちになった恭平だが、気を取り直して話題を変えた。
「まあ、いいか。——それでサッカー部には戻れたんだよな? 良かったじゃないか」
意図的に当たり障りのない話題を選んだつもりだったのだが、アキラはまたしても難しい顔を浮かべている。
「なんだ? また問題を起こしたのか?」
「いや、そうじゃない。……ただ、もう一度サッカー部から離れて、もうちょっとだけ自主練を続けようかなって考えているだけだ」
「やっぱり問題を起こす気じゃないか……」
一体、それのどこが『いや、そうじゃない』なのか……誰か親切な解説者がいて欲しいものだ。なんとなしに周囲を見渡したが……まあ、いる筈もない。
「一応、佐田なりの理由はあるんだろ?」
「当たり前だろ? えーとだな……俺がサッカー部から離れた理由。パスとトラップに集中したかったって、それは言ったよな?」
「ああ、それは聞いた」
「だな。で……だ、それにある程度納得して、ちょっと試してみたかったからサッカー部に戻ったんだけど……他にも、パスとトラップの次は1対1の技術を覚えるべきだって思ってたんだ。攻めるにせよ守るにせよ要るだろうって。でも、その場合はパス練習と違って滋賀には頼めないだろう?」
「ま、そうだな」
恭平は真顔で頷いた。これに関しては全面的に同意だ。1対1の練習は身体的な接触がどうしたって多くなる。はっきり言ってしまえば、牽制の為に伸ばした腕が相手の胸や腰にぶつかるなんて日常茶飯事だ。小学生ならいざ知らず、高校生の男女でそれは有り得ない。
「もし、お前が滋賀にそんな事を頼むような奴なら、俺はお前と友達止めてるぞ」
「しねーよ。だいたい、その状況で集中出来る筈がねーし。そーいうのはもっと遠慮の要らない相手、競り合ってる最中に間違って肘がぶつかったり足を蹴り飛ばしても全然構わない奴とやるべきだ」
断言するアキラに、それもどーかと思いはしたが所詮は他人事、サッカー部の面々が蹴られる分には恭平に害はないので、適当に頷いておいた。
「そんな訳で、1対1を磨くにはサッカー部の奴らが適任ってこともあってサッカー部に戻ったんだけど……昨日の試合で少し考えが変わった。1対1の技術はもちろんいるよ。実際昨日、俺が滋賀にあっさり抜かれなければ点を失うことも無かった。でも、それ以上にパスの方がまだまだだって気付いてな、そっちを先になんとかしたい。今のままじゃ、全然足りない」
「足りないって……さっきも言ったが昨日のお前は大したもんだったぞ?」
恭平は本心で言ったが、真顔で否定された。
「いや、全然足りない。あれで満足できるほど俺は謙虚じゃない。もっと上を狙えるんだから、もっと上を狙うべきだろ」
恭平に、というより自身に向かって言っているようなセリフの中には、貪欲なまでの向上心と、それが自分に可能であるという絶対の自信が窺えて、恭平は目を見張った。
昨日の時点で相当に面白いプレイヤーだったのだ。それが更に化けるなら、一体何になるのか? ちょっと予測がつかない。
「……確かに上を狙えるなら、躊躇する理由はないな」
「だろ! だろ!」
好奇心混じりに恭平が肯定すると、アキラは機嫌良く笑った。
それからしばらくは、サッカーの話に限らず、適当な話題を適当に交わしていたのだが、ある時、アキラの視線が恭平の斜め後ろに向けられた。
「お、やっと来た」
その言葉に釣られて恭平が振り向くと、ちょうど、滋賀が教室へと入って来たところだった。
——ああ、なるほど。
と、恭平は納得した。先程の話からすると、アキラはもう一度サッカー部を離れてパスの練習をする気で、その為に滋賀の協力は必要で、なおかつ本人には、まだ話していないのだろう。
そんな恭平の予測を裏付けるかのようにアキラが立ち上がった。
「ちょっと、滋賀に話があるから行ってくるわ」
軽い口調でそう断ってくるアキラに、こちらも軽く頷いた。
そして滋賀の方へと向かうアキラの後ろ姿をなんとなしに見送りながら、ふと、
「もしかすると、本当に大物になったりするかもな……」
そんなことを考えた恭平だった。
……。
……。
アキラが琴音に「もう一度パスの練習に付き合ってくれないか?」と頼みに行ったところ、返ってきたのは思わず背筋が寒くなるような笑顔だった。美人が怒ると洒落にならない。
「え? ……佐田君。今、あなたは何と言いました? ちょっと聞き取れなかったんですけど? もしくは聞き間違えたのかもしれません。ああ、きっと聞き間違いですね。そうに決まってます。ですから、申し訳ないですけど、もう一度、正確に、私に解るように言ってくれませんか?」
「お、おぉ……いや……えっと……」
そりゃ昨日の今日で、またサッカー部から離れるようというのだから、アキラがサッカー部に戻る為に何かと手を尽くした彼女が、なにかしら不満を抱くとは思っていた。
が、それにしたって言葉の一語一句を区切りながら問い返してくる様は、控えめに言っても大変な迫力がある。
思わず返事に詰まってると、見かねたヤマヒコが口を挟んできた。
『ほら、言わんこっちゃない。やっぱり怒られたじゃん。——アキラ、今ならまだ間に合うよ。謝って許して貰おうよ?』
『できるか、馬鹿! お前はちょっと黙ってろ!』
アキラはその案を即座に却下した。アキラだって別に好き好んで琴音の機嫌を損ねたい訳じゃない。ただ、だからといってここで引くぐらいなら、そもそもがこんな頼み事をしたりはしない。
おじけた性根を奮い立たせると、アキラは空いてる隣の席に座って琴音と向き合った。
そして、彼女の目を見てはっきりと言う。
「もう一度パスの練習に集中したい。だから、その練習に付き合って欲しい。——別にくだらない冗談や何かで言ってる訳じゃない。本気で真面目に頼んでる」
どうせ、アキラに上手く取り繕うような真似なんて出来ない。いっそ開き直ってストレートな気持ちをぶつけた。
それが功を奏したのか、彼女は力なくため息をつきながらも椅子から立ち上がると椅子をこちらへ向け、アキラに向き直る形で座り直した。
どうやら、こちらの話を聞く気にはなってくれたようだ。
目線で「はい、どうぞ」と話の続きを促されたので、アキラは話を続けた。
「サッカー部に戻るちょっと前にさ、滋賀は聞いただろ? インフロントキックやアウトサイドでのキックは覚えなくていいのかって? 覚えてるか?」
「ええ、覚えています」
「あのとき俺は、真っ直ぐ蹴られれば、それで十分だって思ってた。わざわざボールを曲げる必要なんてどこにも無いって……でも昨日の試合をやってみて分かった。ボールを曲げる技術は要る。むしろ、俺にこそ絶対に必要な技術なんだってわかったよ」
そう思ったきっかけは、目の前のこいつの兄貴だ。
槍也は状況に合わせてボールをカーブさせたりスライスさせることで試合を優位に進めていた。
使用頻度はさほど多くはないが、それが必要な機会というものが確かにあった。
そして、アキラに関しては更に事情が異なる。
常人と違ってヤマヒコの援護があるアキラにはパスの相手を探し出す必要がない。つまり、その分だけ状況を見定める余裕がある。
「味方にパスを出す時、受け手の利き足に出すか逆足に出すかの違いだけでも随分と違うだろ? それを更に一歩進めて、ボールを受け取った相手が次の動きに移行しやすいパス。いったら味方の攻撃を加速させるパス。そういうパスを俺は出せると思う。その為に、状況に合わせて色んなパスを蹴れるように俺はなりたい。これからの俺のサッカーに絶対に必要なんだ。……つー訳で、もう一度パスの練習に集中したい」
アキラが理由を言い終えると、場に重苦しい沈黙が舞い降りた。
琴音はアキラの話を聞き終えると、
「そうですか……」
と呟いたきり沈黙を貫いている。
ただ黙っている訳ではなく、色々考えているのだろうけど、それにしても沈黙が重い。
次第に耐えきれなくなったので何か口走ろうとしたが、その一瞬手前で琴音がどこか恨めしげに言った。
「どうせ佐田君は、何を言ったところで意見を変えたりはしませんよね?」
「ん、んんっと……」
まあ、ぶっちゃけそうなんだが、でも、そんな風に言われるのは、まるで人の話を聞かない男だと思われているようで心外というか何というか……。
言葉に困っていると続けて聞かれた。
「でも、サッカー部のことはどうするんですか? もうすぐ大会ですよ?」
これに関しては既にアキラの中で結論は出ていたので(なんせ、昨晩は碌に寝られなかった分だけ考える時間は山程あった)、それをそのまま告げた。
「どうするって……別にレギュラーでもない俺が抜けたって大して影響があるわけでもなくないか?」
元々、アキラがレギュラーになれる可能性は少なかった。ましてや昨日の試合は引き分けがやっとだった。引き分けは勝ちじゃない。特に挑む側にとっては。
それで自分がレギュラーに選ばれるとは思えなかった。
ここから更に何か出来る時間もないだろうし、今回は自分は至らなかったと認め、次に向けてレベルを上げるべきだ……と、そういうアキラなりの考えを伝えると彼女は首を振って否定した。
「まだレギュラーは決まっていません。そして昨日の佐田君は凄かったです。それはサッカー部のみんなにもちゃんと伝わっています。きっと佐田君がレギュラーになれる可能性もゼロではないと思いますよ。ですから、それが決まってからでもいいんじゃないですか?」
と、そう熱心に訴えかけてくるが、アキラはなおも懐疑的だった。
首を傾げながら唸った。
「いや、無理だと思うぞ……」
別に変に自分を卑下している訳じゃない。昨日の試合では槍也の次ぐらいの活躍はしたと思う。
しかし、天秤のサッカーを重視しないアキラをレギュラーに組み込むということは、これまで培ってきたサッカーを捨てるも同義だ。部長や先輩たちがそこまで思い切るとはどうしても思えなかった。
第一、もし万が一アキラがレギュラーに選ばれるなら、なおさらパスの練習に集中するべきだと思う。
今の自分が全国までたどり着けるとは思っていないし、仮にたどり着けるにせよ、実力はあればあるほどいいだろう。
結局のところ、サッカー部がどうであれ大会がどうであれ、アキラのやるべきことは一緒だ。
「なあ、滋賀。昨日の俺は凄かったんだろ? これでボールを曲げられるようになったらもっと凄くなるよ。そうなるってわかってるのにジッと待ってなんていられないんだ。だから頼む」
アキラが精一杯真面目に頼み込むと、琴音は難しい顔で考え込んでいたが最後には、
「全く……わかりました。佐田君の練習に付き合います」
と、不承不承ながらも頷いてくれたのでホッとした。
彼女に断られていたら、アキラの練習計画がだいぶ変更を余儀なくされていたところだ。
「助かる。ありがとう」
短いながらも、心の底からの言葉だった。