52 天秤高校のサッカー7
試合も終盤。滋賀槍也は、今日、何度目かもわからない感嘆の声を上げた。
「いや、アイツ本当に伸びたな」
槍也の感心の対象はもちろん佐田だ。久しぶりに見た佐田のサッカーはあいも変わらず才能に溢れていて、そして別人かと思うほどに進化を遂げていた。
そのプレーを見ればわかる。どうやら、サッカー部に顔を出さなかった期間も真面目に研鑽を積んでいたみたいだ。
琴音から話は聞いていたが、実際この目で見て改めて嬉しく思う。
とはいえ、素直に喜んでばかりいる訳にもいかないのが、今の槍也の立ち位置だ。
槍也はレギュラーチームのFWで、今現在、試合に負けている。
勝つ為にはもう2点必要なのだが、現状レギュラーチームが点を取るのは難しい。
今、試合の流れは間違いなくサブチームにある。
その原因はもちろん佐田の活躍だが、だからといって、もう佐田1人を抑えれば良いという状況でもなかった。
槍也が思案する間にも、佐田が味方のサイドバックに対して声を張り上げていた。
「坂上! もっと中に寄れ! いんだよ、別にサイド使われても! まず中を潰せ!」
いい指示だと槍也は思う。
味方のポジショニングをよく見ているし、レギュラーチームの攻め方もちゃんと把握している。何より多少おおざっぱであろうとも、素早く迷いがないのが秀逸だ。
普通サッカー経験が浅いとなかなか周りへ指示を飛ばすことが出来ないものだが、佐田は自分が指示を出す立場であることを微塵も疑っていない。
言われた坂上先輩も、特に不満を見せることなく極々普通に佐田の指示に従っている。
試合が始まった当初では考えられない光景だ。
纏まりを欠いていたサブチームが、今では佐田を中心としたチームに生まれ変わりつつある。
こうなるとサブチームは強く、この流れを変えられる人間は、レギュラーチームの中では、もう自分を置いて他には居ないのかもしれない。
——そろそろ緩んできたかな……。
槍也は自分を囲む面々をさりげなく観察しながら、そう思った。
これまでにも自分が徹底的に囲まれることは何度もあった。
そういう時、たいがい槍也は大人しく試合から消えることにしている。
自分に人が付けば付くほど、他の場所では数的優位が出来上がっているのだから、無理に自分にボールを集めるより仲間に任せた方が効率がいい。
そして複数に囲まれている状況というのは、時間が経ってくると、数的優位に安心するのか意外と囲んでいる方に隙ができ易い。
もちろん最後まで隙が出来ないケースもあるが、大切なのはいざという時の為の心構えだ。
特に今のサブチームは勢いがあるが、勢いがあるからこそ些細な綻びに目がいかない。
——佐田、気付いてないだろ? 今、お前の周りの奴らはさ……ボールを持ったらまずお前を探すんだよ。
それは小さな事かも知れないが、檻をこじ開けるキッカケには十分だ。
その時が来るなら点を取りに行く。槍也はそう決意しながらも雌伏を続けた。
……。
……。
左サイドでボールを持った時、目の前のインサイドハーフが寄せて来るのを躊躇するのを見て、アキラは誰にも届かないぐらいの小声で呟いた。
「あほだな……」
そりゃさっきのドリブルからのミドルシュートを見ていて、その二の舞にならないよう間合いを空けるのが間違いだとは言わないが、積極的なプレスが売りの天秤でそこを躊躇したら中途半端なサッカーにしかならないだろう。
何より、アキラにプレッシャーがかからないので、本当に何処にでもボールを放り込むことが出来る。
逆サイドを駆け上がる坂上先輩へと大きく蹴り出した。
マークの圧力がなく、更に今回は利き足でのロングフィードとあって、自分でも満足がいく精度だった。
主戦場が右サイドへと移ったので、後ろからのカバーリングと万一のカウンターを警戒して、アキラは中央へとポジションを戻した。
その際にちらりと後ろに視線を向けたが、槍也の側には柏木がついているし、更にアキラも含めて味方がカバーできる体制が出来ている。
守備は問題ない。
ならもう一点だ。
チャンスがあればいつでも飛び出せる準備をしながら戦況の推移を見守った。
残念ながらサイドから中央への低いクロスは途中で守備陣に阻まれ、ボールの所有権があちらに移ったが、それをこちらのFWが追う。
『よーし、いったれ工藤君!』
「聞こえねえだろ……」
思わずぼやいたアキラだったが、その発言自体には同意だ。
レギュラー陣のような極端なハイプレスを敷く必要はないと思っているが、前でボールを奪えるならそれに越したことはない。
現状、相手がミスればそれだけで1点だ。ここでボールを追うのは悪くない。
見るからに鬱陶しいマークに晒されたDFは、一度キーパーまでボールを下げ、そのバックパスを受け取ったキーパーは、ボールを追って来る渡辺に寄せられる前に、アキラから見て左サイドに大きくクリアボールを蹴りした。
ボールは高い放物線を描いてハーフラインを超えたが、狙いが逸れたのか、それとも焦りからの適当クリアだったのか、何にせよ落下点に居たのは味方のインサイドハーフだ。
落ち着いた仕草でボールを受け止めると、アキラへ横パスを流した。
アキラは次の攻撃を考えながらボールを受け止めようとしたがヤマヒコが警戒を意味する鋭い声を上げた。
『アキラっ!』
一拍遅れてアキラも気付いた。槍也が後ろから迫って来ている。
だが、気付いた時には手遅れだった。
ボールがアキラに届く一歩手前、槍也は低く身を屈めた体勢から滑り込むようにスライディングを決めてボールを掻っ攫った。
——下、芝生じゃねーぞ⁉︎
——何て無茶しやがる!
いくらサッカーパンツの下にスパッツを履いて保護しているとはいえ、ここは柔らかい芝生ではなく乾いたグランドだ。
地面に擦れた部分を盛大に擦りむいてもおかしく無い勢いだったが、幸いといっていいのか、ボールを確保しながら素早く立ち上がろうとする槍也の仕草からは怪我を負った気配は見えない。
どうやら勢い任せのプレーに見えて、その実、無理のない合理的な動きだったらしい。
そして、アキラが相手の身を心配できたのもそこまでだ。
立ち上がった槍也と目が合った瞬間、ヤバいと悟った。理屈じゃない。とにかく、ヤバいのだ。
咄嗟に進路を防ごうと一歩踏み込んだのだが、その一歩を踏み終えるとほぼ同時、槍也が体ごとアキラの前から姿を消した。
「なっ⁉︎」
慌てて背後を振り向いた時には、槍也は前に向かって駆け出していた。
——あいつ!
全く反応出来なかったが、何をされたかぐらいは分かっている。
ルーレット。槍也はアキラの横をスピンしながら抜けて行った、ありていに言ってしまえばそれだけなのだが、琴音のそれや、さっきアキラ自身が行ったルーレットに比べて、動きのキレが違いすぎて上半身の動きを目で追うのがやっとだった。
「この、逃すか!」
ようやく槍也を追いかけ始めたアキラだったが、既にだいぶ距離が離れている。
とはいえ、槍也の周りはこちらの味方しかいない。味方が時間を稼いでくれるなら、追いついたアキラと上下から挟み込むことも出来る。
現に柏木が槍也の前に立ち塞がった。
柏木は若干浮足だった表情を浮かべているが、プレーそのものは地に足のついた現実的なものだった。
無理に取りに行って一か八かの勝負を仕掛けるのではなく、軽く後退しながら徐々に距離を詰めていくアプローチの仕方は、アキラが後ろから見ていても、最も危険な中央への突破を警戒しながら、味方の戻る時間を稼ぐ、という意識が明確に伝わって来たのだが……。
しかし、槍也はアキラの感覚で言えば無防備と思えるくらいに大胆にボールを晒しながら柏木との距離を詰め、これまでのプレーを見る限り、槍也の利き足であろう右足でのカットインで中央に進むと見せかけながらの即座のアウトタッチで柏木の逆を行き外を抜けた。
最初の軽いタッチで相手のタイミングと重心を動かし、その逆を行くマシューズフェイント。
『うわおっ! あれで良くぶつからない!』
全力疾走中のアキラは声を上げることも出来なかったが、内心では同意した。
あのスピードであの横の動きはあり得ない。アキラがやったら絶対にどこか引っかかるか、もしくはボールが溢れる。
とんでもない動きだったが、更にとんでもないことに気付いた。
さっきから、槍也とアキラの距離が縮まっていない。
——嘘だろ……⁉︎
確かにアキラは飛び抜けて足が速い訳じゃない。槍也に足の速さで勝てる筈が無い。
けど、別に遅い訳でもなく、なんなら体育の授業の100メートル走なんかではアキラははっきりと上の方だ。
だから単純な走力勝負ならともかく、ドリブル中の槍也に、しかも人ひとり躱す手間をかけているのに追いつけないとは流石に予想していなかった。
焦りながらも追いかける以外なにも出来ず、そうこうする内にセンターバックが内側から槍也に迫った。
槍也は寄せられる寸前、ボールをコーナー目掛けて大きく蹴り出すと、自身はセンターバックの内側に回り込んで迂回しながらボールを追った。
おそらく直線的な距離ならセンターバックの方が大回りの軌道の槍也よりもボールに近いが、振り回されたセンターバックより、既にトップスピードに達している槍也の方が三段ばかし速い。
ボールを手放して身軽になったこともあり、ますます加速して敵陣へ切り込んで行く。
『アキラ、追いつけない。内側に入って待ち構えよう』
「くそが!」
冷静なヤマヒコの指示に、アキラは思わず悪態をついた。
このまま追っても追いつけない。それはわかる。
なら中央に先まわりして、クロスボールか、それとも更なるドリブル突破を待ち受ける方が戦略的にマシである。それもわかる。
だからといって、センターラインに差し掛かっているような所からゴールラインまで、つまりフィールドのほぼ半分を独走させることが面白い筈がない。
悔しさに顔を歪めながらもアキラは進路を変え、ペナルティエリアへ足を運んだ。
そして、ほぼ同時に槍也もボールに追いついた。今にもゴールラインを切りそうなボールの向きを左足のアウトサイドでちょこんと変えると、さっと顔を上げて中の様子を確認し、即決でクロスボールを放り込んだ。
クロスボールは、槍也よりも数段遅れてやってくる敵のFWを待つかのように、滞空力のあるロブボール。
若干、フック回転がかかっており、まるでボールが自ら望んで方FWへと向かっているかのように軌道が曲がり、走り込んできたFWが、頭で強くボールを打ち付けた。
自らの勢いと、自らに向かってくるボールを上手く返した反発力が加わったヘディングは、キックシュート並みのパワーを感じたが、あいにくと飛んだコースがキーパーの正面に近かった。
とはいえ勢いはあったので、キーパーはボールを掴み取ることが出来ず、腕に当たったボールはふらふらと高く舞い上がりながらペナルティエリアを抜けようとした。
そのボールを見上げていたアキラは、自分が落下地点に一番近い、そう思いながら振り向いた。
「ヤマヒ……っ!」
今度はこっちの番だと、ボールのクリアとカウンターを同時に行うつもりだったのだが、ボールの落下地点に誰よりも近いのはアキラじゃなかった。槍也が脇目も振らずに落下地点へと向かっている。
なんでクロスを上げたばかりのテメエがいるんだ? とか、どうして落下地点がそこだとわかったんだ? とか疑問が次々に湧いてくるが、今考えることはそれじゃない。
邪魔な思考は無理矢理にでも横に置いておいて、アキラはこれからやるべきことに焦点を絞った。
槍也のカウンターは尋常じゃなく素早かったが、素早過ぎて味方が付いて来ていない。
シュートにいかせず足を止めさえすれば囲んで終いだ。そう判断したアキラは、槍也のシュートコースを削る意味合いも兼ねて、前に前にと寄せて行った。
が、しかし——。
槍也はアキラが距離を詰めるより先に、ふらふらと舞い下りてきたボールを右足のアウトサイドで擦り上げるように蹴り出した。
しゅっと滑らかな動きは、アキラの意表を突くには十分で、ボールが横を通り過ぎるというのにアキラは何も出来なかった。辛うじてボールを横目で追うぐらいだ。
そしてスライス回転のかかったボールは、アキラの体を避けた結果、明らかにゴールの枠から外れていたのに、その軌道を変化させると大外から抉り込むようにゴールの隅へとねじ込まれた。
一瞬、フィールドが静まり返って、次の瞬間、どっと沸いた。
「ふーっ……よかった」
と、当の本人も安堵の笑みを浮かべている。
そんな槍也に、アキラは苦虫を噛み潰した様な顔で問いかけた。
「なあ……お前、どうしてこぼれ球がそこに落ちてくるって分かったんだ?」
一連のプレーを振り返って見ると、そのどれをとっても今のアキラにはとうてい真似出来ない、そんなプレーの塊だった。
ただ、真似出来ないにしても、とんでもない身体能力とテクニックを持っているのだと受け入れる事ぐらいは出来るのだが、キーパーが弾いたこぼれ球の落下地点を、どんぴしゃりで読み当ててみせた事だけは理解出来なかった。
幾ら足が速いといっても、キーパーが弾いたのを見てから動いたのでは間に合わない。こいつはクロスを上げた直後にはそこを目指していた筈だ。
アキラの質問に、槍也は自らのプレーを思い返しつつ、
「ん……いや、別にここに来るって確信してた訳じゃないんだけど……でも、セカンドチャンスが来るならここだなって思っていた訳で…………」
思案の末ににたどり着いた結論をアキラに告げた。
「ま、勘じゃないかな」
その、あまりの理不尽な答えにアキラはボヤいた。
「おま……なんつー、クソゲーだ」
我ながら酷い言い草だと思うが、我慢出来なかった。
それから即座に試合が再開されたのだが、今の槍也の一撃は致命的だった。あと一点取ろうにも味方は……いや、アキラ自身も浮き足立っていて、ゴールを奪うどころか、ゴールを奪われないよう、槍也を2度と自由にさせないように守りを固めるのが精一杯というところ。
かくして10分……4対4の同点のままで、アキラは試合の終わりを告げる笛の音を聞いた。
「あー、くそ! なっちまった!」
見方によればレギュラーを相手に引き分けに持っていったのだから、大金星とも言えなくもない。だが、差し当たってアキラが抱いた感情は嬉しさや満足さには程遠かった。
悔しそうなボヤきが校庭の空へと消えていった。