51 天秤高校のサッカー6
アキラがサッカーを始めるか迷っていた日、学校の屋上でとある人物から助言を受けた。
御堂恭平。
出会ったばかりの、まだ友達ですらなかった彼の話をおとなしく聞き入ったのは、アキラと恭平が似た者同士である事を無意識の内に悟っていたからなのかもしれない。
御堂の独善的とも言える考え方に、アキラはどうしてもケチをつける気になれなかったのだ。
「お前さ、もし古くもないテレビを買い換えるとしたらどんな時だ?」
「は? テレビ?」
唐突な例え話にアキラは面食らった。これまでも左利きの不便さや、出る杭は打たれる話など、ともすれば一見サッカーに関係ないような話もあったが、これはとびきりの脈絡の無さだった。
どう考えるべきか全くわからない。
そんなアキラの困惑を悟った御堂は、話を噛み砕いて、再度問いかけた。
「ああ。つまり佐田の家にテレビがあるとする。あるよな? そしてそれは買い換える必要がないくらいには新品だと仮定して、その状況で全く同じ性能のテレビに買い換えたり、お前はするか?」
「…………しないな。金と手間の無駄だろう」
「だよな。もうそこにあるのに似たような物に変える必要はない。あたり前だが安物で性能の悪いテレビにも変えたりはしない。つまり買い換えるとしたらより性能の高い物だ。それもちょっとやそっとの差じゃ買い換えたりはしない。なんせ金と手間がかかるんだからな。物凄くハイスペックじゃなきゃ買い換えない。サッカーだって同じだよ。金はかからないにせよ手間がかかる。その労力をものともしない魅力がないと新しいスタイルに変わる必要性を見出せない訳だ。——トレセンなんかでな、レギュラーから漏れた奴がよく愚痴を言うんだ『俺は負けてないのに……』てな。——あ、因みにトレセンが何なのかは覚えているか?」
御堂の質問にアキラは頷いた。午前中の休憩時間に滋賀が言っていた言葉だ。確か、県の同世代のトップ選手が集まる合同練習のことで、他県のトップ選手と練習試合をするとかしないとか、レギュラーってのはそのことだろう。
「トレセンに集まるのはクラブで一番とか学校で一番とかの自信家なわけだが、所詮は一時的な集まりだ。監督からすればじっくりと選手を見極める時間はない。そもそも勝つことが目的じゃなく、レベルの高い奴らをぶつけ合うことで切磋琢磨させる事が目的だからな。だからとりあえず目立つ奴や、前はレギュラーだったから今回もレギュラー……みたいな選考の仕方も普通にある訳だ。その結果、レギュラーから漏れた自信家は『俺はレギュラーに負けてないのに、なんで控えなんだ……』って不満に思う訳だ。そして実際、実力に大差がない場合も結構ある。でも俺は、その言葉を聞くたびに内心思ってた。いや、時には口を挟んだこともあった。『負けてない程度だからレギュラーになれないんだよ』ってな。だってそうだろ? 監督や他の選手からすれば今のレギュラーと大差のない奴をレギュラーにするメリットが無い。いや、経験を積ませるとかそういう理由ならそれもありだが、それは育成の為であって勝つ為の策じゃない」
「なるほど……」
アキラは短く相づちを打った。
その相づちに納得の色が濃く含まれてるのは、御堂の考え方がアキラに馴染み易いからだろう。無駄に反論することなく続きを促した。
「そこで佐田の話に戻る訳だが、お前は自分のやりたい様にやりたい奴だろ? だったら、それが受け入れられる方法はただ一つだ。お前のやり方がこれまでのやり方より、はっきりと強ければそれでいい。これまでと同じ程度や、ちょっとばかしマシな程度だったら見向きもされないぜ。必要なのは誰から見ても一目瞭然なぐらいの結果だ。……で、そんな自分本位なやり方を押し通せば、周りから反発が山の様に来るかもだが、それはお前の性根が悪いんじゃない。周囲の反対を押し切る実力が無いお前の弱さが悪いんだ。そいつらは弱いお前の言うことなんて聞かないぞって、そう言ってるんだ。だったら解決策も簡単だ。そう言われないぐらいに強くなればいい。他人の顔色を窺う必要なんてまるでない。自分が登ることだけに集中しろよ」
「御堂…………お前、いかれてんなぁ……」
話を聴き終わったアキラは珍しくも心底呆れていた。
こんな考え方でサッカーをやっていたなら、さぞや敵が多かっただろうと思うが、同時にその考え方に惹かれる自分を自覚していた。
特に、他人からの反発への対処法が気に入った。
もし実践できるなら、他人からの反対意見は全て自分の成長の糧になる。
『ちょちょちょちょ、……ちょっと極端過ぎない?』
ヤマヒコが危機感を覚えてブレーキをかけようとしてくるが、一歩遅い。既にアキラの中では御堂の話に傾いていた。
それが一月前の話で、それ以降、アキラはやりたい様にやってきた。
色々揉めたし、今現在進行系で揉めている最中だが後悔はしていない。
……。
……。
アキラたちサブチームが2点目を挙げてからわずか5分後、3点目の追加弾がゴールを揺らした。
同点ゴールを叩き込んだFWが軽い喝采を上げた。
「よし」
アキラも今のゴールに満足げに頷いた。
アキラからのトップ下からの右のFW。これまでの再三に渡るサイドからの攻めに、相手の注意は外側に向いていた。
そこを狙っての中央突破、面白いほど上手く決まった。
『アキラ、やったね! これで試合は振り出しに戻ったよね!』
「……そうだな」
ヤマヒコの台詞に、言葉の上では同意しながらも、内心では違うと考えていた。
確かにスコアの上ではイーブンだ。しかし、試合の流れはこちらにあるし、味方の戦意も上がっている。
前半、馬鹿みたいな動きをしていた奴も、今はそれなりに冴えた動きをしている。いい傾向だ。
そして、流れがどーとか、味方がどーとか、そういったアレこれが、どうでもいいと思えるぐらいに自分の実力が伸びていると実感していた。
今の自分は昨日までの自分より強い。それどころか前半の自分と比べて、なお強い。そして賭けてもいいが試合が終わる頃には更に強くなっているだろう。
——あ〜、前にもあったな、こういうの……。
秒の単位でサッカーが上手くなっていく感覚、自分がこうありたいと思うサッカーを作り上げていく感覚は中学の時以来だ。
あの時は、サッカー部でも無い自分が何という無駄な才能の開花だろうと微妙な気持ちだったが、今は素直に面白い。試合が再開するまでの僅かな時間が待ち遠しく感じるぐらいだ。
ちらりと時計を見ると残り時間はあと20分。逆転するには十分過ぎる時間だとアキラは思う。
審判役の合図で試合が再開され、センターラインで仕分けされていた敵味方が入り混じっていく。
レギュラーチームは一度ボールを下げて、中盤と後衛の間でボールを回している。
たぶんだが、立て続けにゴールを奪われたことで動揺が大きく、それを抑える為の安全策を取っている。一概に悪い判断とはいえないが、怖さは感じない。それでも脅威があるとしたら……、
「柏木! 滋賀のマークは外すなよ!」
ちらりと背後を向いて念押しすると、柏木から勢いの良い返事が返ってきたので安心して前に出た。
点を取らなきゃいけないのは相手も同じ。いつまでも後ろでパス回しをしてはいられないだろう。
相手が中盤にボールを入れてきたタイミングで、アキラも前に出た。
『6の6。中央を切りながら行って』
ヤマヒコの指示に戸惑うタイムラグもだいぶ減っている。
指示通りに中央へのパスを警戒しつつ、味方のインサイドハーフと敵を挟み込む体勢を作り上げようとした。
「させん!」
しかし、そんなアキラを邪魔しようと部長が身体を寄せてきた。
互いの体格差から行く手を阻まれ、挟み込むことは出来なかった。
それどころか自分の身体を壁として使って、ボール保持者の道を切り開こうとしている。
「こっちこそ、させねえよ」
アキラは不利な力勝負を切り上げ、一歩引いた所に居座った。
FWへのパスを牽制しつつ、味方が抜かれた場合にカバーに回れる、そんな位置。
ボールを奪えず、しかし先には進ませない。
そんな停滞した状況に、どちらのチームも味方の援護をしようと考えたのだろう。敵味方が集まって混戦模様が生み出された。
こうなると陣形やポジションもあったもんじゃないが、アキラにとっては好都合だ。
こういう状況でこそ、ヤマヒコの存在が力を発揮する。
目の前の状況に集中している、見方を変えれば視界が狭くなっているアキラと違い、ヤマヒコの知覚している領域は全方位に隙が無い。
ボールを通されたら危険なスペースをいち早く察知し、相手より先にアキラがそのスペースを潰しておく。
アキラの手の届かない範囲は味方へ指示を伝えて潰させる。
そういったアプローチがレギュラーチームよりも一手早く、混戦が長引くほどに味方が有利な状況へと移行していった。
「あっ……!」
味方の援護に上がってきていたサイドバックがトラップをミスった。それは自分の足元から僅かに離れる程度のしくじりだったが、敵味方が密集している状況では致命的だった。
転がるボールを運良くこちらのインサイドハーフが奪い取った。
ただし、周囲は依然として混戦の最中、すぐに激しいプレスに晒された。
その状況を打開する為に真っ先にアキラが動いた。敵の陣地に背を向けるインサイドハーフの正面に回ってバックパスを要求した。
「ボール! よこせ!」
アキラの要求に、助かったとばかりの顔つきでボールを渡してくるが、少しばかりパスの勢いが弱い。
——ぐっ、馬鹿やろっ!
このままだと近くにいる部長に前を塞がれ、場合によってはボールを奪われるかもしれない、咄嗟にそう判断したアキラは2、3歩前に出る事でボールを迎えに行った。
そして寄せられる前にロングフィードを蹴り込んだ。
アキラから見て右サイドのライン際ぎりぎりへのロングパス、それを迎えに右のFWがサイドに流れていく。当然、レギュラーチームのDFも追いかけてくるが、本来サイドの守備を担当しているサイドバックが味方の援護に上がっていたので、1対1の同数対決、つまり攻め手に有利な状況だった。
——おし! やっぱ行ける……な。
目まぐるしく状況が変わっていく混沌とした場面でもヤマヒコの指示に間違いは無く、アキラ自身、トラップやロングフィードの精度は落ちていない。
この状況でこの動きができるなら、もうレギュラー相手だろうと負ける気がしなかった。
前を見ると1対1の有利な展開とはいえ、その1である朝霧先輩が手強く、味方が突破することは出来ずにボールがサイドラインを割った。
一度プレーが止まった所で、アキラはいい機会だと思って側にいた部長に問いかけた。
「部長」
「……なんだ?」
どちらも声が硬い。まあ、いい人間関係を築けている訳では無いので当然の話だ。
アキラは出来るだけ穏やかな口調を意識しながら部長に告げた。
「大会まであと半月。今ならまだ間に合う筈です。今までの天秤のやり方を捨てて、俺を中心にしたサッカーをやりませんか? そうすれば、このチームは今より遥かに強くなる」
どれだけ穏やかに言おうとも、それは内容のドぎつさを軽減できるものではなく、部長は顔を真っ赤にしながら反論した。
「今からのスタイル変更など、ありえん! 馬鹿なことをぬかすな!」
「そうですか……まあ、そうだろうな……」
アキラの感覚では既に自分は天秤のサッカーを超えている。
だから言うだけは言ってみたが、現状、試合はまだ同点。立て続けのゴールも偶々と言われてしまえばそれまでだ。
部長側から見て納得できない事はアキラにもわかる。
未だ、納得させられない程度の実力だと……そういう事だ。
——だったら、もっと……だな。
説得に言葉を費やすのではなく、我を通せるだけの強い力を手に入れる。アキラに迷いは無かった。
とりあえず、今やるべきことは勝ち越しゴールだ。取れるという自信はある。
「部長。なら、その天秤のサッカーで俺を止めてみろ」
アキラは、本当に後輩らしくない言葉を言い捨てながら、ゴールを奪いに駆け出した。
後世、TVの解説にせよ、雑誌の一面にせよ、はたまた個人のサッカー談義にせよ、佐田明というサッカー選手が語られる場面において、必ずと言っていいほどに登場する言葉がある。
【ポジショナル・ロングボール】
佐田が日本代表としてワールドカップに出場したあたりから、ちらほらとその言葉が出現し、一度世間に認知されると瞬く間に世界規模で定着、今となっては彼の代名詞とも呼べるこの言葉。
元々は佐田ではなく、とあるキーパーに贈られたものだ。
そのキーパーが所属しているクラブチームは、彼が正GKを務めた期間に、サッカーの最高峰とも称されるヨーロッパのチャンピオンズリーグで2連覇を成し遂げる偉業を成し遂げた。
彼がいたから2連覇を成し遂げた。
2連覇を成し遂げるようなチームは、彼のようなキーパーでなければ務まらない。
どちらの考えが正しいのかは分からないが、どちらにせよ彼が得難い選手であることに違いは無い。
彼はキャッチングを始めとする守備能力に留まらず、後ろからのコーチングや仲間とのコミュニケーション能力など、当時のGKに求められていた能力を幅広く高水準で備えていた。
中でも敵味方のポジションを把握して、適切な場所にボールを送り込む能力については唯一無二と称された。
逆に言えば、顔を上げれば全てのプレイヤーを見渡せるGKというポジションであっても、その中から適切な選択をして正確にボールを送り込み続けるのは、ほぼ不可能だということだ。
だが、彼はそれをやった。
最前線で味方のFWと相手のCBが1対1になっていたら、相手のCBもGKも届かない絶妙なスペースにFWを走らせるようなロングボールを送り込むことが出来た。
そんな彼の活躍によってポジショナル・ロングボールという概念が生まれ、それ以降のサッカー史において、それを持ち得ていると認められた選手がたびたび生まれることとなる。
キーパーで数人、そしてフィールドプレイヤーでは佐田明ただ一人。
フィールドがどれほど混沌としていても関係なく、どこにでもボールを送り込む能力。
それこそが佐田明が佐田明である由縁であった。
『走れ走れ! ゴーゴー!』
「わかってら!」
若干右サイドに寄ったアキラは、センターラインを超えてフィールドを駆け上がっていた。
そんなアキラに合わせて、サイドでボールをキープしていた味方からの横パスがアキラの元へとやって来る。
それを何処に動かすかは既にわかっている。
真っ直ぐ正面、そこが一番ゴールに近い。
アキラはボールを受け取った最初のトラップで、正面のFWへパスを出す体勢を作り上げた。
——いけるいける。
FWをDFラインの裏へと走らせるスルーパス。FWと縦のラインが並んでいるこの状況では、むしろFWの体そのものが邪魔なのだが、細かい力加減の効く右足でのロングフィードなら味方の頭上を超え、なおかつ敵には届かない場所にボールを落とせる自信があった。
『アキラ、左!』
しかしボールを蹴る直前、追いかけて来た部長から、ショルダーチャージをかけられた。
「やらせん!」
「……っ!」
アキラは咄嗟に押し返そうとしたが、部長の鍛えられた体はびくともしない。バランスを崩したのはアキラの方だ。
——ああ、そうか。
——あんただって、勝ちたくてしょうがないんだな……。
これまでにない強いぶつかり合いで、部長がサッカーに懸けている気迫や努力の跡がなんとなく伝わって来た。
この鋼のような鍛え上げた体も、天秤のサッカーで勝つための努力の証なのだろう。もしアキラが、無関係な第三者だったら素直に尊敬したのかもしれない。
だが、アキラもサッカーに望むことがある。
アキラは凄い奴になりたいのだ。いつか見た海の向こうの名前も知らない誰かのように、フィールドの中で一番になりたい。
誰が見ても、それこそサッカーを知らないガキでも一目でわかるような特別な存在にだ。
だから、強豪校と比べて劣っている個人技の差を、チームワークで補おうだなんて、そんな……そんな最初から負けを認めているとしか思えないサッカーに道を譲る気は微塵も無かった。
「っら!」
バランスを崩したことでロングフィードは無理だと判断したアキラは、即座に方針を切り替えた。
ボールを足の裏で引きながら、前に進んでいた自分の勢いを反転させる。
ショルダーチャージは押すだけが能じゃない。時には引くことも必要だ。それまで張り合っていたアキラの圧力が無くなったことで、今度は部長が体勢を崩した。
そこから、もう一度足の裏でボールの軌道を変えつつ、左足を軸にしながら時計回りに一回転。
琴音が練習の時に、たびたび遊びでやっていた片足でのルーレットターン、それの模倣だ。
見よう見まねのルーレットターンは決してキレがあった訳じゃない。
多分、普通の1対1で部長を相手にしていたら造作もなく潰されていた。
けれど、アキラを放置していたらスルーパスを出されていたこの状況、部長には性急なチャージを仕掛ける以外の選択肢がなかった。
ポジショニングで優位に立てば立つほど、それはそのまま1対1での駆け引きで優位に立てる事に繋がるという事を、アキラは本能で悟っていた。
部長を躱して中央へと進んだ。
ドリブルで来るのは予想外だったのか、他の選手のカバーリングが遅れたことでアキラの位置からゴールが見えた。
躊躇わずに右足を振り切る。
ゴールの左上を狙い、そして狙い通りの場所へとボールが飛び込んだ。キーパーが飛びついたが、伸ばした右腕は僅かに届かずに虚空をないだ。
「よし、取った」
ゴールを見届け、逆転した事に満足したアキラだったが、直ぐに顔をしかめた。
耳元で……という表現が正しいのかはわからないが、でも耳元で、
『ゴ〜〜〜〜ル! アキラ、ナイスゴ〜〜ル! っ! いやったあああっ!』
と、ヤマヒコが絶叫したからだ。めちゃくちゃうるさい。
「ヤマヒコ。お前うっせえよ。たかだか1点決めただけだろ?」
咄嗟に耳を抑えながら文句をつけたが、その倍の勢いで言い返された。
『なに言ってんの! 初だよ! これがアキラの初ゴールだよ! 今喜ばないで、いつ喜ぶってのさ⁉︎』
「お? ……ああ、そういえばそうか」
言われて初めて気がついた。ヤマヒコと一緒にサッカーを始めてから、それどころか地元のサッカークラブに通っていた小学生まで遡ってもアキラが試合形式でゴールを決めた経験など皆無だった。
「そうか……。俺は、ゴール決められるぐらいには強くなったのかね」
おかしなもので、今更ながらにテンションが上がる。
上機嫌で自軍に戻ろうとするアキラ、その顔には自然と笑みが浮かんでいた。
ポジショナル・ロングボール。
そして、それから突如として切り替わるドリブル突破。
これから数年後、そう遠くない未来で世界を沸かせる佐田明のスタイルが生まれつつあった。