5 槍也と琴音
お風呂あがりの滋賀琴音は自宅の洗面所で、自分の長い髪を乾かしながら、鏡の前で身だしなみを整えていた。
——髪、肌……まつ毛も……うん、大丈夫。
いつも通りの自分である事を確認して、椅子から立ち上がった。
そのまま洗面所を抜け、パジャマ姿で、リビングでソファーに佇む兄、槍也の元へと向かった。
「兄さん。隣、座りますね」
そう断って、琴音は同じソファーに座った。
兄にぴったりと寄り添う様は、この年頃の兄妹にしては距離が近い。
もし2人の間柄を知らぬ者から見れば相思相愛の恋人同士に思うかもしれないし、少なくとも琴音に限って言えば、さほど的外れな勘違いとも言えない。
滋賀琴音は、双子の兄、滋賀槍也の事が大好きなのだから。
琴音は昔から、それこそ物心つく頃からずっと、誰よりもかっこいい兄のことが大好きで大好きで仕方がない。
その自慢の兄、槍也は、幼少の頃から好奇心旺盛でよく笑う子供だった。
笑う門には福来たると言うが、兄には正にそんな所があり、どちらかといえば人見知りだった琴音の手を掴んで、外に連れ出してくれた。
人が集まり、その真ん中でにこっと笑い、琴音を含めたみんなを自然と笑顔にさせてしまう兄のおかげで、琴音も沢山の人と交わり、いつの間にか引っ込み思案だった性格も改善された。
琴音にとって、槍也は兄妹であると同時に、紛れもないヒーローだった。
そんなかっこいい兄は、大きくなって行くと共に、ますます、かっこよさが増して行った。
サッカーに興味を持ち始め、地域のサッカークラブに入ると、幾らもしない内に活躍し始め、クラブのヒーローとなった。
また、ひな鳥のごとく兄の後を付いて行き、同じサッカークラブに入団した琴音の事を邪険にすることもなかった。
兄とは違い運動が苦手な琴音には、リフティング一つとっても上手く行かなかったが、兄は嫌な顔一つせずに琴音の練習に付き合ってくれ、熱心にコツを教えてくれた。おかげで運動が出来る様になり、レギュラーとして試合に出ることも出来た。
とある試合でシュートを決めた時の、
「やったな、琴音!」
という言葉と兄の笑顔は、きっと一生忘れることはないだろう。
そんな兄の素晴らしさは、あっという間に世間に広がって、小学6年の頃に、なんと日本代表へと選ばれた。
俗に言われるサムライブルーのユニフォームを着て、世界を相手に活躍する兄は、もはや琴音だけのヒーローではなく、日本のヒーローと呼ぶことに何ら誇張はなかった。
また、日本代表となると同時に周りから過剰なまでの賞賛が舞い込んだが、そんな状況にあっても兄は変わることなく、傲慢や慢心、虚栄心とは無縁だった。
琴音は、そんな兄が誇らしくて誇らしくて仕方がなかったが、同時に自らについて疑問を持つ様になる。
——私は、兄さんの力になれているのだろうか? と。
兄、槍也は、周囲に沢山の物を与えられる人だ。
まるで、太陽の日差しが地球に恵みをもたらす様に、琴音や日本中の人々に夢と希望をもたらしている。
対して、琴音は兄の後を付いていくだけだ。
中学校の男子サッカー部では、女子マネ禁止だったが、もし禁止されていなかったら、やはり兄の後を付いていって兄のことを眺めているだけだったろう。
それでいいのだろうか? 違う。それでいい訳がない。
琴音が兄の事を、かっこよく誇らしいと思っている様に、兄にも琴音の事を、かわいい自慢の妹だと誇って貰いたい。
太陽の様な兄でも、時には疲れて沈み込む時があるだろう。そんな時に、安らぎを与えられる自分でありたい。
兄が困っているなら、それを助けられる妹でありたい。
琴音はそう考え、自分を磨くことにした。
兄さんにかわいいと言って貰いたいが為に、美容に力を入れ、兄さんに凄いなあと褒められたいが為に、勉学や運動に励み、兄さんに美味しいと言わせたいが為に、料理を覚え、兄さんに琴音は優しいなあと思われたいが為に、優しくなろうと努力した。
実のところ、琴音の主観としては凄い兄と凡庸な妹であったが、客観的には、琴音は母親譲りの美人で地頭も良かった。また、兄の凄さに劣等感を感じて捻くれてしまう事もなく、真っ直ぐに努力出来る性根の強さも持ち合わせていた。
そんな元々ハイスペックだった琴音が、たゆまぬ努力を重ねた結果、中学三年生になる頃には、文武両道で品行方正なスーパーハイスペック美少女へと羽化していた。
特に下級生の女生徒からは、理想の先輩としてアイドルの如く崇められている。
当然、異性からのアプローチも山ほどだが、兄、槍也に首ったけな琴音は、その全てのアプローチをことごとく袖にしている。
琴音とて思春期のお年頃。そういうことに興味がないわけでもないのだが、兄よりかっこいい男性など、この国にいる筈もない。そんな男性は物語の中の白馬の王子様の様なもので、いっそ、ネッシーや宇宙人の方が、まだ存在している可能性が高い。
いや、白馬の王子様より兄の方がかっこいいのだ。
——このままでは、私は一生、恋愛することが出来ないかもしれません。
兄が素敵すぎて、時々、そんな風に悩む琴音だった。
とはいえ、他に深刻かつ切実な悩みを抱えていて、そちらの方がはるかに琴音を悩ませている。
琴音の悩み、それは、進学についてだ。
兄、槍也は、東京のサッカーに力を入れている私立高校に、授業料免除の特待生として入学することが決定している。同時に、寮生活となり、この家を一時離れてしまう。
一方で琴音は、地元で一番の進学校に進学予定だ。仮に受験に失敗して私立高校に進むとしても、それは、地元、神奈川の高校だ。
つまり数ヶ月後に、琴音と槍也は離れ離れになる事が決まっている。
——ああ、なんということでしょう⁉︎ まるで天の川に引き裂かれる彦星と織姫ではありませんか⁉︎
悲しいし、苦しい。
でも、どうすることも出来ない。
大勢の期待を背負って、大きく羽ばたこうとしている兄に、行かないでくれと縋って足を引っ張るような真似は出来ない。
逆に——兄さんに付いて行きます。私も東京の私立高校で寮生活です……これも無理がある。
琴音がどれほど悩もうとも、二人の別離は避けられず——なら、せめて、別れるまでの日々を、かけがえのない物として大切に過ごしていこう——と、決めたのだ。
そんな訳で、今日もまた、身だしなみを整えて兄の隣に座った琴音は、今日の兄の1日を尋ねることから始めた。
「兄さんは球技大会……どうでした?」
「ああ、楽しかったよ……」
「それは重畳です。私も出来るなら見学に行きたかったのですが、あいにくと、バレーの試合が重なってしまって……」
「そうなんだ……」
「兄さん?」
幾らも話さぬ内に異変に気付いた。いつもは、もっとにこやかにお話をしてくれる兄が、今日は上の空だ。
全然、琴音に構ってくれない。
心配した琴音が、
「どうかしたんですか?」
と、尋ねてみても、
「ああ……いや……」
と、反応が鈍い、鈍すぎる。
そんな兄の横顔を見つめていると、ふと友達の顔を思い出した。
——まるで、先輩に恋した、夏子みたいです。
——あの時の夏子も、今の兄さんみたいにぼんやりと……まさか⁉︎
琴音は、最悪の予想にたどり着いた。
——えっ? えっ? 嘘⁉︎ 駄目ですそれは! だって、ええっ⁉︎
兄に好きな人が出来たかもしれない、という予想は、琴音にとって震度5の地震に等しい。
内心しっちゃかめっちゃかだったが、辛うじて理性が働いた。
——待って、まだ、そうと決まった訳じゃありません! これまで、兄さんはサッカーひと筋だったじゃないですか⁉︎
そう、兄はまだ何も言ってない。
更に言うなら、ここ何年も、半年に一回くらいの頻度で探りを入れているのだが、これまで兄に女性の影はなかった。
——大丈夫です! きっと只の考え過ぎです!
琴音は内心の動揺を隠して、表面上はいたってさりげなく聞いた。
「もしかして、気になる人でも出来ましたか?」
違っていて欲しいと神に願う琴音だったが、兄はここには居ない誰かを思い浮かべながら言った。
「……気になる人……そうだな……きっとそうだ。俺は、あいつの事が気になって仕方がないんだろうな……」
サーっと、自分の血の気が引いていく音が聞こえた琴音だった。
「そうなんですか……」
辛うじて繋いだ相槌に含まれた感情は……諦念だ。
いつか、この時が来るだろうとは思っていた。
兄とて、お年頃だ。異性に興味を持ってもおかしくない。
——私は妹として、どうすればいいのでしょう?
兄の恋心を認めず、わめき散らす。そんな自分を想像して首を横に振った。
無理だ。そんな真似は出来ない。そんな真似をする為に琴音は今まで頑張ってきた訳ではない。
——健やかな時も、病める時も、いついかなる時でも、兄さんを支える妹になると誓ったでしょう、琴音? なのに今、兄さんが悩んでいる所へ、醜い嫉妬から更に悩みを増やすのですか?
——違います。今、私がすべき事は兄さんの相談に乗って、私心を混じえずに答え、背中を押してあげることです。
——例え、それで兄さんが私から離れていくのだとしても、兄さんが幸せになるなら、良しとすべきなのです。
琴音は悲壮な覚悟を決めて、兄と向き合った。
そして、あえて晴れ晴れとした笑顔を浮かべて告げた。
「兄さん! 兄さんが悩んでいるなら私が相談に乗ります!」
「いや……でも……」
困った顔をする兄に、少し寂しげに尋ねた。
「兄さん。私はそんなに頼りになりませんか?」
「琴音……」
槍也は、しばらく無言だったが、やがて——仕方ないなあ——という表情を浮かべた。
「なら、少し、俺の悩みを聞いてくれるか?」
「はい、兄さん」
「実は今日、すっげえ気になる奴に出会ったんだ。今まで見たこともない、俺の知らない世界を見せてくれるかもしれない奴に」
兄を応援すると決めたとはいえ、知らない相手を思って目を輝かせる兄を見るのは辛かった。
それでも、表情には出さずに「……はい」と相槌を打つ。
更に、槍也が続けた。
「4組の佐田アキラって奴なんだけど……」
「おとこっっっ⁉︎」
琴音はすっとんきょうな声を上げて、兄の言葉を遮った。
——え? 待って、待って! 兄さんの思い人が男⁉︎ つまり、兄さんはホモ⁉︎ ええ? えええ⁉︎
——いや、待って! アキラという名前の女性という可能性も⁉︎
「どうした、琴音?」
「えっと……そのアキラさんは女性ですか?」
琴音の質問に槍也は首を傾げた。
「? いや、男だよ? 当たり前じゃないか?」
「当たり前なんですか⁉︎」
なんてことだ。兄にとって、思い人が男であることは当たり前なのだ。どうりであれだけモテるのに、恋人の一人も作らない訳だ。
——えっ? これ、私、どうすればいいんですか? 兄さんを応援すべきなんですか? いや、でも⁉︎
「ちょと、待って下さい!」
混乱に混乱が極まった琴音は、そう兄に願い出た。
「え?」
「少し、頭がこんがらがって来ました! 状況を整理する時間を下さい!」
「まだ具体的な事、何も言ってないけど?」
「でも、少し時間を下さい!」
「いや、いいけど……」
「ありがとうございます!」
兄の許しを得て、琴音は長考に入った。
——兄さんの好きな人が男だとして、まずは、応援するか反対するかを決めないと。
——反対です。断じて反対です。兄さんの恋人が男など断じて認められません!
——ですが、私の方から悩みを聞くと言って、断固否定するのは、良くないことです。
——ましてや、私を信頼して、自分のマイノリティな嗜好を打ち明けてくれたのに……。
——でも、男……。
——というか、そもそも男性と男性はどういったお付き合いをするのでしょう? さっぱりわかりません。
——ああ! こんな事なら、みよリンが『ふへへ、あんたも禁断の世界の扉を開けないかい?』なんて言いながら進めて来たBL本とやらに目を通しておくべきでした! 私の馬鹿! 愚か者!
学年トップクラスの成績を誇る琴音とはいえ、まだ15の小娘に同性愛の問題は重かった。この短い時間で良い答えなど思い浮かぶ筈もなかった。
また、少し時間を下さいと断ったのだから、少しの時間で、方針を決めなくてはならない。
別に槍也は急かしたりはしないが、そこらへん琴音は生真面目だった。
次第に焦りが募っていく。
——どうしましょう? どうしましょう⁉︎
——ああ、もう! 何でよりにもよって禁断の愛を選ぶんですか⁉︎ というか、どうせ禁断の愛なら男同士のそれでなく、兄妹のそれでいいじゃないですか⁉︎ そっちだったら、みよリンから何冊も借りた事がありますし…………はっ! それです!
混乱と動揺と焦りがミックスされた極限の状況が、全てを解決するベストな答えを導き出した。
——やっぱり、兄さんと、そのアキラくんの恋愛を認める訳にはいきません。
女性でも受け入れ難いのだ。男性などもっての他だった。
けれど、闇雲に否定しても効果はないし、むしろ反発を招きかねない。兄にも嫌われてしまうだろう。
——なら、発想の転換です。兄さんが男性を好きなのならば、それ以上に女性を好きになって貰えば、問題解決です!
——つまり、相談にかこつけて私が兄さんに、せ、迫ればいいのです!
途中、論理の飛躍があったかもしれないが、琴音はいたって真面目だ。
兄が男性以上に女性を好きになってくれれば、万事解決だ。
ただ兄に女性の良さを知って貰うにしても、そうそう兄の気にいる女性などあては無いし、出来るだけ内密にしたい。まかり間違えて、兄の同性愛をマスコミなどに知られたら一大事だ。
その点、琴音なら、兄との距離も近いし、かわいがられている自信もある。秘密だって守れる。
無論、兄に女性の良さを知って貰うには、兄妹の一線を超える様な、あんなことやこんなことを実践しなければならないが、それは、いわば人工呼吸の様なものだ。
兄妹でキスをするのは許されないが、呼吸が止まるか止まらないかの非常時には、人工呼吸で唇を合わせることも許される筈だ。
同じように、琴音が兄にあんなことやこんなことをするのは、兄を正道に戻す為の、一時的な治療行為であり、何の問題もない。
——ああっ……いいです!
考えれば考える程、ベストな案だ。
琴音が兄とのイチャイチャ治療ライフを妄想して身悶えしていると、
「琴音?」
心配した槍也が、琴音の顔を覗き込んできた。
「だ、大丈夫です! 考えが纏まりました。アキラくんとのお話を聞かせて下さい」
琴音は焦りながらも、兄に話の続きを促した。
一方で、
——この相談中に、兄さんの腕をとって、む、胸を押し付けてみましょう。
などと、考えていた。
漫画などでは定番の迫り方だし、麗華先輩もそれで恋人を落としたとか自慢していた。琴音自身、友達と比べても胸は大きい方だ。少なくとも同じクラスの女子の中では一番大きい。
——麗華先輩は、お話中「わー、すごーい!」という相槌と共に、好きな人に抱きついたと言ってました。「わー、すごーい」です。
——大丈夫、出来ます! 恥ずかしがらずにやってみせます! これは兄さんの為なんですから!
覚悟を決めた琴音。一方で槍也は、妹がそんな考えを抱いているとはつゆほども思わずに、自分の悩みを打ち明け始めた。
「佐田の事は、今日の球技大会の決勝戦で初めて知ったんだ。なんていうか不思議な奴でさ、一目見た時から痺れたんだ」
「不思議な人ですか? わー……えっと、どんな所がですか?」
「一言で言えば、視野が物凄く広いんだと思う。それに判断力もあるんじゃないかな……トラップやパス自体はそうでもないのに、その一点だけは日本代表の中盤よりも上かもしれない」
「わー、すごー……いんですね、その佐田君は」
「ああ、凄いんだ。だから、俺はあいつのパスを受けて見たくて、佐田の事を誘ったんだけど、上手く行かなくてさ……」
「わー……上手く行かなかったんですか……」
琴音は、ぎゅっと抱きつき作戦が上手く行かないことに悶えた。
——駄目です。上手く行きません。
——そもそも、兄さんの凄い所を褒めつつ抱きつかなければならないのに、佐田君の話題ばかりで抱きつき様がありません。
——それにしてもその佐田君、兄さんからこんなにも思われるなんて……。
——やっぱり、サッカーが大好きな兄さんは、サッカーのうまい人が好きなのでしょうか? パスを受けてみたいなんて…………ん? んんん?
琴音は、自分がとんでもない勘違いをしてることに今更ながらに気付いた。慌てて問い質した。
「あの、兄さん! もしかして、ひょっとして、これサッカーのお話なんでしょうか⁉︎ その佐田君がサッカーが上手くて、一緒にサッカーをやりたいという、そういうお話なんでしょうか⁉︎」
「? そうだけど?」
「っ!」
その返事を聞いた琴音は思わず、神に祈る様に腕を組んで、ほーっとため息をついた。全身が安堵感に包まれて、まさに天にも昇る心地だ。
——良かった! 良かったです! 兄さんは男の人が好きな人ではありませんでした!
——そうですよ! 兄さんはサッカーひと筋なんですよ!
——あれ? ということは私が兄さんに迫る必要もないわけで……。
——………………別に、がっかりなんてしていませんから。
喜んだり、拍子抜けしたりと、壮絶な独り相撲を行う琴音。
そんな妹に疑問を覚えた槍也は、素直に問いかけた。
「さっきから変だぞ、琴音?」
「え? ……いや、あの……」
「というか、サッカーじゃなければ、何の相談だと思っていたんだ?」
そう尋ねてきた兄に琴音は詰まった。上手い言い訳が思い浮かばない。
「あの、笑わないで聞いてくれますか?」
「うん」
「兄さんが気になる人と言ったので、兄さんはその佐田君の事が好きなんだ。という相談かと思っていました」
槍也は目を丸くした。
「え? 好きって、佐田は男だよ?」
「ええ。その……あの……ですから、てっきり兄さんは男の人が好きな人なのかと……」
あまりにも恥ずかしくて、最後まで言えなかったが、それでも琴音がどんな誤解をしたかは槍也に伝わった。
兄妹の間で沈黙が流れた。まるで時が止まったかの様だ。
それからしばらくして──兄が震え出した。
「ふっ! ……くっ!」
必死に体の震えを抑え込もうとしている。
どうやら、先程、琴音が言った、笑わないで聞いてくれという願いを聞き入れて、笑わない様に努力しているみたいだが、それを隠しきれていない。よほど可笑しかったのだろう。
槍也の体の震えはますますと大きくなり、遂には、
「ごめん!」
そう断ると、琴音から顔を背けてソファーの肘掛け部分に顔を埋めると、あははと笑い出した。
槍也の笑い声は、しばらく止まらなかった。
震える兄の背中を見て、
──泡になって消えたい。
と、思った琴音だった。
それから1分弱、ようやく落ち着いた兄が謝ってきた。
「ごめん、琴音。でも、どうしても我慢できなくて」
「いえ、私が、見当はずれの勘違いをしたのが悪いんです。気にしないで下さい」
琴音がそう返しても、槍也は気まずそうな顔をしたままだった。
——これは、いけません。
そう思った琴音は、相談の続きを促した。
「それで、その佐田くんとは、何が上手くいかなかったんですか?」
話題を変えようという意図が見え見えではあったが、兄も乗ってくれて、続きを続けた。
「あ、ああ。球技大会のあと佐田に『俺とサッカーをやらないか?』って聞いたんだけど、『やるわけないだろ。馬鹿かお前は?』って言われた」
「へえ……」
琴音の中で、兄を馬鹿呼ばわりしたアキラの評価がガクッと下がった。
「それは、また、一体どうして?」
「まず、佐田はサッカーに興味がないらしい。だから、サッカー部にもいなかったし、他所のクラブに所属している訳でもない」
「えっと、じゃあ佐田くんは……素人なんですか?」
意外だった。兄さんが注目するぐらいだから、当然、サッカー経験者だと思っていた。
「うーん……もしかしたら昔はサッカーやってたのかも? でも、なんにせよ今はサッカーをする気はないみたいだ。……それにもう一つ。受験が迫ってるのに、サッカーやる余裕なんてないってさ」
「ああ、なるほど」
二つ目の理由は、わかりやすい理由だった。
「まあ、そんな訳で佐田に断られたし、それは佐田の事情を鑑みれば当たり前でしょうがないんだけど……」
「だけど……なんでしょう?」
「だけど、それでもあいつとサッカーをやってみたいんだ。それこそ一回だけでもいいから……さ」
「なるほど……難しい悩みですね……」
兄さんは佐田君とサッカーをやって見たいけど、佐田君は望んでいない。ましてや受験生となると、確かに迷惑だろう。
——佐田君が、兄さんに付き合う義理はないですね。でも……。
——でも、さっきの兄さんの横顔は相当なものでした。
琴音との会話が上の空になるぐらいに。
思わず、恋でもしたのかと勘違いするぐらいに。
兄さんは心の底から、佐田君とサッカーをする事を望んでいる。
そして琴音は常に兄の味方で、兄が困っているのを助ける為に、これまで自分を磨いて来たのだ。
——よし、やりましょう!
——まずは、その佐田君の人となりを知ることからですね。
——4組でしたか……祥子や優花に話を聞きますか。
——それに家庭部の後輩に佐田という苗字の子がいましたね。佐田七海ちゃん……当たってみましょうか。
そんな風に考え込んでいたら、
「どうかした、琴音?」
と、今度は兄の方が尋ねてきたので、笑顔を浮かべて強く言った。
「兄さん! 私に任せて下さい!」
「えっ?」
「兄さんの願いは、私が叶えてみせます!」
琴音は、佐田明に会いに行くことを決めた。
そう、全ては兄の為に。