41 アキラと琴音の練習2
琴音は約30メートル先にいる佐田君に届くよう、大きな声で言った。
「いっきますよー!」
佐田君も返事も同様だ。
「ああ、いつでもいーぞ!」
意思疎通が出来たところで、琴音は手に持っていたボールをひょいと手放し、それが地面に落ちる前に蹴り上げた。
パントキックと呼ばれるこの蹴り方は、サッカーでは両手が使えるゴールキーパーだけが使う代物で、高い弾道のキックが蹴り易い。
琴音はかつての少年サッカー団ではフィールドプレーヤーとして活躍していたので、本格的なパントキックを習ったことはなかったが、それでも高く蹴るだけなら簡単だ。
あえて、佐田君の立ち位置とは全然違うところに蹴り出した。
高く舞い上がったボールが弧を描いて地面に着地する寸前、佐田君がボールに追い付いた。
柔らかく膝を使ったトラップが、上から降ってくるボールの勢いを上手く殺す。
更には、跳ねずに地面に転がるボールを、右足で琴音の方にロングパス。かなり正確にこちらの方に向かってくる。
ボールは琴音の少し手前に着地すると、ふんわりと跳ね返って琴音の胸元に飛び込んで来た。
それをキャッチした琴音は、
「ナイスキック! じゃあ、もう一回行きますね!」
そう佐田君に告げると、再びパントキックでボールを高々と上げた。
琴音が佐田君の練習に付き合う様になって早1週間。
佐田君のパスとトラップのスキルは着実に上がってきている。特に利き足のロングパスは、方向、飛距離、どちらも大きく飛躍しているし、キックフォームも様になってきている。
一方で利き足じゃない方。左足のロングパスはお世辞にも使い物になっているとは言えないが、それも仕方がない。ショートパスならともかく、インステップのロングパスは単に足だけで蹴るものではない、上半身や腕の振りなども加えた全身運動だ。それを逆足で行うとなると、全身の動きが真逆になると言っても過言ではない。
琴音もかつて苦労したし、最後まで利き足ほどに上達することはなかった。
けれど、それが佐田君には我慢がならないらしく。ここ数日、ひたすらにロングパスの練習を繰り返している。
そんな佐田君の練習を間近で見ている琴音の心境は複雑だ。
佐田君が、頑張っていることは琴音にもわかる。
毎日、学校が終わってから日が暮れる少し前まで、ずっとサッカーの練習だ。
それもただ単に練習メニューをこなすのではない。
ムラっ気はあるが、練習そのものを心の底から楽しんで、かつ集中していることは見てとれる。
佐田君は感情が顔に出やすいたちなので、正に一目瞭然だ。
けれど、事前に佐田君の考えを聞いていたとは言え、本当に準備運動を除いたほぼ全ての練習時間を、トラップとパスにしか費やさないのは、
──果たして、これでいいのでしょうか?
と、琴音が疑問を投げかけたくなるのも仕方がない。
例えばだが学校の定期テストで、英・国・数・社・理の5教科の内、数学だけに集中して勉強すれば、確かに数学では良い点数を取れるだろう。
しかし、他の教科が落ちてしまえば、5教科を平均的に学んでいく事に比べ、トータルではマイナスするのではないのか?
同じくサッカーでも、パスとトラップだけに拘るより、もっと広く学んだ方が良いのでは? というのが琴音の本音だ。ましてや、サッカー部を離れるとなると余りにもリスクが高すぎる。
協力すると決めた以上、反対はしないが、今の状況に不安を抱かないというのも琴音の性格では不可能だ。
これは琴音がことさら心配性なのではなく、多分、琴音じゃなくとも大半の人が不安を抱くだろう。
であるのに、当の本人はどこ吹く風で、自分のやりたい事に没頭している。
「おっ!」
満足げな呟きが風に乗って届いた。見れば左足でのロングパス、しっかりと形になっている。
そのボールを拾い上げた琴音に笑って言った。
「いまのはなかなかっ! ……滋賀。もう100回ぐらいよろしく頼む!」
「多っ!」
思わず、そんな返事を返したが彼の表情は変わらない。佐田君はサッカーをやっている時は笑うのだ。
──時間配分も何もあったものではないですが……しょうがないですね。
極端に偏った練習方法に不安は残る。残るのだが、同時に期待している自分がいるのも確かだ。
「では一本目、行きますよ」
そう告げると、再び空高くボールを舞い上げた。
……。
……。
佐田君は「もう100回ぐらいよろしく頼む」と言ったが、この、ハイボールをトラップからのリターンの練習は、琴音がボールを高く蹴り上げてから地面に落ちるまでの間に落下地点にたどり着かなければならないので結構辛い。数を繰り返すなら尚更のことだ。
結局、50回を過ぎたところでギブアップした。
一時の休憩としてベンチに座った琴音は、同じくベンチで萎びれているお隣さんに問いかけた。
「大丈夫ですか?」
「だ……大丈夫だ……」
息も絶え絶えで返す様は、どう見ても大丈夫ではない。たぶん、しばらくの間、動けないだろう。
琴音は家から持ってきた麦茶を紙コップに注いで佐田君に手渡した。
「どうぞ」
「あー、サンキュー」
受け取った紙コップの中身をゆっくりと飲み干しながらぼんやりとしていたのだが、しばらくして唐突に言った。
「この練習メニューは駄目だな」
麦茶に口をつけていた琴音は独り言のような呟きを聞き、
──どういうことですか?
と、視線だけで問いかけた。
「いや、高いボールのトラップは楽しかったんだが……リターンのパス。特に左はそっちまでほぼ届いてなかっただろ? 30メートルはまだ早かったな。もっと短い距離でちゃんとしたキックを身に付けてからにするわ。──それにダッシュで疲れ過ぎるのも良くねえ……筋トレは家に帰ってからで充分だ」
その説明を聞いて琴音は納得した。確かに今の練習メニューは佐田君の実力に対してちょっと背伸びをしすぎた感があった。
「そうですね、いいと思います」
と、短く感想を述べた後、ちょっと気になった話の後半部分について問いかけた。
「ところで、佐田君も家に帰ってからトレーニングを続けているんですか?」
「筋トレだけな……ん? オレもってことは、あいつもトレーニングやってんの?」
「はい。兄さんも帰ってから体を鍛えていますね」
「へぇ……どんなメニュー?」
意外にも興味を示した佐田君に、琴音は考え込んだ。
兄さんの練習メニューは豊富なので一言では説明できない。
「兄さんも筋トレが中心ですけど、他に柔軟体操も加えてますね…………あの、同じメニューをやって見ようと考えているなら、止めた方がいいですよ」
「なんで?」
「かなりハードなので、いきなり真似をすると体を壊します」
「っても、俺とあいつは同い年だぞ。やってやれないこともなくねえ?」
「駄目です。今のパス練習が佐田君には早かったのと同じです。最初は無理をせず、自分の出来る範囲でやった方がいいですよ」
「むぅ……ま、それもそうだな……」
琴音の話を聞いた佐田君は面白くなさそうな顔をしているが納得している様なので、ちょっと安心した。
そして軽い気持ちで提案した。
「練習量はともかく、練習メニュー自体は参考になると思いますので、後で練習メニューの一覧をメールで送りましょうか?」
「そうだな、頼む…………あ゛!」
唐突に変な声が上がった。
その声に釣られた琴音が佐田君を見つめると、その顔は『しまった!』 とか『失敗した! 』 とか『ヤバい、どうしよう⁉︎』という心の声がありありと伝わってくる様な表情を浮かべていた。どうやら何か良くない事があったようだ。
「どうしました?」
と、琴音が尋ねても、
「いや、なんでもない!」
などと誤魔化そうとしてくるが、そんな引き攣った顔で言われても説得力など微塵もない。
──そんなんじゃあ、5歳児だって騙せませんよ。
──きっと浮気とかしたら、その日の内に恋人さんにバレるんでしょうね。
最初は佐田君の心配事そのものよりも、その隠し下手な性格の方を気にしていた琴音だが、ふっとある事に思い至った瞬間、全ての感情が消えた。
「佐田君」
そう彼の名を呼ぶ声は、自分でも記憶にないくらいに冷たい。
「な、なんだろうな」
狼狽している佐田君に、琴音はあえてほがらかな笑顔を浮かべて尋ねた。
「まさかそんなことはないとは思うんですけど、いえ、本当に尋ねる必要も無い事なんですけど、でも、一応念の為に聞いておきましょうか。佐田君、あなたは未だに私のアドレスを着信拒否し続けている……なーんてことはありませんよね? ……ね?」
沈黙が二人の間で流れた。呼吸音すら許されない静寂だ。
そして、
「…………あー、その、そのだな………………ごめん、忘れてた」
「こっの……!」
琴音は拳を振り上げた。パーじゃないグーだ。怒っていい。琴音は今怒っていい。
「私は! あなたの! わがままに! 付き合っているのに! このぉっ!」
「ごめん! いや、マジごめん! ホント悪気はなかったんだ! 今すぐ解除するから!」
「遅いですよ! この馬鹿! わがまま男! ろくでなし! あ、手を掴むな! 大人しく殴られて下さい!」
「無茶言うな! いえ、言わないで下さい! すみませんでした! 海の底より反省するから!」
拳を振り回す琴音と、腕を押さえるアキラ。
二人の攻防はアキラが椅子から転げ落ちるまで続いた。