36 滋賀家の朝食
「そろそろ行こっかな……」
日曜の朝8時30分。休日であるにもかかわらず、早々とパジャマから運動用のジャージに着替えた槍也が、そう言って腰を上げた。
「あ、ちょっと待って下さい」
キッチンで食器を洗っていた琴音は、慌てて手を止めタオルで濡れた手を拭いた。
朝食を作る時に、あらかじめ一緒に作っておいたお弁当の蓋を閉めると、お箸入れとまとめて風呂敷で包み込む。
「はい、どうぞ」
そうお弁当を手渡す琴音も、とっくにパジャマから着替えていた。白を基調としたワンピースに桜色のエプロンで、新妻感満載の可愛い自分を演出している。
思い人が一つ屋根の下にいる琴音は、家の中でも手は抜かない。
そんな琴音の思惑に全く気付いていない槍也は、至って気さくにお礼を言った。
「ありがとう。──ごめんな、日曜までお弁当を作ってもらって……」
「いえいえ、好きでやっていることですから。──それでは練習頑張って下さい」
「練習っていうか、半分遊びだけどね……じゃ、行ってきます」
素敵な笑顔で家を出た兄さんを見て、今日一日頑張ろうと思った琴音だった。
それから鼻歌混じりでキッチンに戻って食器洗いの続きを始めたのだが、一通り片付いた所でスマートフォンにメールが届いた。
そのメールの中身に目を通した琴音は、思わず鼻歌を止め、嘆息せずにはいられなかった。
「それにしても……あの人は本当に困り者ですよね」
本日、サッカー部はお休みだが、一年生で集まってミニゲーム形式で自主練をやろうという話が持ち上がり、特に用事もなかった兄さんもまた参加した。他にも、一年生はだいたい参加するそうで例外は佐田君だけらしい。
別に休日に無理に来いとは言わない。何か用事があるならそちらを優先すればいいし、休みたいなら休めばいい。
しかしだ、わざわざ1人でボールを蹴るくらいなら、みんなと一緒にサッカーをすればいいのに……と、思わずにはいられない。
なんにせよ、かわいい後輩からのメールで今日の琴音の予定は決まった。きっと凄く大変な一日になることは間違い無い。
「もうちょっと、兄さんの笑顔を補充しておくべきでしたか……」
そんな事をつぶやきながらも、家を出る準備を進めていると2階からお母さんが降りて来た。
「おはよー、琴音。……槍也は?」
「もう出かけました。お鍋にお味噌汁が入ってますので自分でよそって下さい」
「はーい。……しっかし、朝食なのに手間暇かけているわね……ほんと、我が娘ながらよく出来た子だわ」
「そうですか」
母からお褒めの言葉を頂いても琴音の態度はそっけない。これは別に、反抗期だったりなんだりで親子間の仲が悪いから、というわけではない。むしろ親子仲は良い方だ。ちゃんと意思疎通も出来ている。
が、出来ているが故に、母の続く言葉が容易に想像出来てしまうのである。事実、予想通りの事を母は言った。
「琴音といい槍也といい……これはよっぽど私の教育としつけが良かったのね。流石だわ私」
思わず、ほら見なさい……と言いたくなった琴音は、しかし別の表現に置き換えた。
「半分くらいはお父さんの影響だと思いますよ」
暗に、お母さんだけの功績ではないですよ、と言ったつもりだが、母は小揺るぎもしなかった。
「それはつまり、そんな素敵なお父さんを選んだ私が、見る目と幸運を備えていたってことね」
「そうですか……」
堂々とのろけられ、言い返す気を失った琴音は、粛々と家を出る準備を進めた。
といっても、琴音の担当はキッチン周りだけなので、そうやることもない。
居間の掃除は軽く兄さんがしたし、洗濯物はお母さんたちがやるだろう。
因みに余談ではあるが、滋賀家では母が本格的に働くキャリアウーマンとあって、家事は母だけに任せず4人で分担、という意識が根付いている。
──うん。
準備万端。これから一大事の始まりだ……と、やる気を燃やす琴音だったが、そんな琴音に母が水を差した。
「ところで琴音。あんたももう高校生なんだから恋人の1人も作んないの?」
「……今のところ、その予定はないです」
「そお? ──私の娘なんだからモテない筈もないと思うんだけどねー。いい加減にお兄ちゃん離れしなさいよ」
「………………」
琴音に反抗期に入る予定は今のところ無い。
全く無いが、それでももし万が一、反抗期に入るとしたら、その対象は父ではなく母だろう。間違い無い。