35 兄と妹の考えは必ずしも一致する訳ではない
週末、土曜の夜8時。滋賀槍也は自宅のリビングで、とある雑誌を眺めていた。
雑誌の名前は《サッカーボール》。その名前の通り、サッカー専門の月刊誌である。
国内外を問わず最新の情報を幅広く取り扱っている《サッカーボール》は、ただ単純に面白いというだけに留まらず新しい知識を取り入れる手段としても有用で、槍也が雑誌に書かれていた技術やトレーニング方法を取り入れた事も一度や二度じゃない。
そんな訳で、槍也は《サッカーボール》が発売される事を月々心待ちにしているのだが、本日購入したばかりの今月号に限って言えば、掲載されている内容にいささか毒が強く、純粋に楽しむことは不可能だった。
【……という訳である。そして最後はイタリアのカロデロ=ボスミイの近況を取り上げたいと思う。
カロデロは、昨年スペインで行われた若手の世界大会で滋賀槍也と点取り合戦を繰り広げたことから、日本人の中にもその名を知る者は数多いのではなかろうか。
まだ16才ながら卓越したテクニックと、しなやかに動く足首から生み出されるドライブシュートの精度は驚嘆の一言につきるだろう。
そんな彼は今年の2月に自身が所属するクラブチームの育成下部組織から1軍へと昇格し、16歳としては極めてまれながら、プロのサッカー選手として世界でもトップクラスのサッカーリーグ『セリエA』へと参加している。
無論、10代半ばの若者がトップリーグで軽々と活躍できる筈もなく、プロの壁に苦杯と辛酸を舐めているが、その苦い経験こそが彼にとって、将来の飛躍の為のかけがえのない財産になる筈である。
……さて、これまで取り上げた通り、世界基準で有望とされている若手の中ではカロデロが頭一つ抜けているように思えるが、他の選手とて安穏とした日々を過ごしてはいない。彼らは日々、熾烈な競争にさらされながらも、『今日』プロになる事を目標に据えている。『この先』ではなく『今日』なのだ。
ところが、日本人で唯一、彼らと同じく世界基準で有望視されていた滋賀槍也は、現在ごく普通の公立高校に進学し、ごく普通の青春を謳歌している。
一応、サッカー部に所属しているらしいが……彼のライバル達との近況を比較すれば「一体、何を考えているのか?」と、首を傾げざるを得ない。
サッカーの歴史を紐解いてみても、その時代の頂点に君臨した選手の多くは10代半ばの頃にはプロとしてデビューしている。
鉄は熱い内に打てという諺は、サッカーにおいて紛れもない真理なのだ。
ならば彼もまた熾烈な競争に身を置いてライバルたちの様に自己を磨き上げるべきではないか?
サッカー先進国であるヨーロッパの国々と、まだまだ発展途上国の日本では環境が違う……というのは言い訳にならない。
確かに未だ日本には西洋ほどの環境が整っているとはいえないが、それでもプロチームのユースに所属し結果を出せば、高校在学中にJリーグに出場することも珍しくは無い。
また、昨今では高校サッカーにおいても、世界を見据えた育成プランを取り入れる学校が増加してきている。
滋賀槍也ともなれば、それら日本サッカーの最先端のどこからでも引く手数多だった筈だ。
それなのに何故、彼は全てに背中を向けたのか?
周囲からのプレッシャーに負けたのか? サッカーに対する情熱を失ったのか?
なんにせよ、このまま安穏とした生活を送り、『高校を卒業したらプロになればいい』……などと甘えた考えでいるなら、そう遠くない内に彼は、日本サッカーの救世主とは呼ぶに値しない存在へと成り下がるだろう。】
『日本サッカーに暗雲⁉︎』という見出しで始まったコラムには、槍也の事が名指しで掲載され、非難されていた。
その辛辣な内容に槍也は、
「きっついなぁ……」
つい、そんな一言が漏れるぐらいには傷ついていた。
この記事の中には口汚い罵倒や、度を超えた中傷は決して書かれてはいないが、それでも記事の至る所から、『お前は、お前に期待していたみんなの期待を裏切ったんだ』という筆者の義憤が読み取れ、槍也の胸の内を重くした。
なんとも言えない感情を抱えた槍也だったが、だからといって、その暗い感情がコラムの作者に向かったりはしなかった。
それは、基本ポジティブで善良という槍也の人となりも関係していたが、それ以上に、コラムの内容が概ね正しいと槍也自身が感じたからだ。
実際、槍也とて最初は、このコラムの表現を借りるなら、世界を見据えた育成プランを取り入れている学校……そこに進学するつもりだった。
今の進路に後悔は無いとはいえ、サッカーの世界の常識からすればあり得ない選択だった事は他の誰よりも自覚している。
だから天秤に行くと決めた時から、批判や叱責は甘んじて受け入れるつもりでいた。いたのだが、こうまで立て続けに責められると、タフな槍也にもくるものがある。
そう、天秤に行くことを決めた事に対して非難を浴びせるのは、このコラム一つだけじゃない。
もっと直接的に、面と向かって槍也に非難を浴びせる人は大勢いた。
幸いにして両親は槍也の意思を尊重してくれたが、例えば、中学校の先生だったり、例えば、中学の頃のチームメイトだったり、例えば、サッカー協会のお偉いさんなり、例えば、よく知りもしないスポーツ評論家だったりと、本当に色々な人たちが色々な事を言ってきて、それが辛くないと言えば嘘になる。
このコラムと同様、そこまで酷い言葉はあんまりなかった。
特に近しい人ほど、「なぜ、天秤に?」と疑問を投げかける一方で、道なき道へと進んだ槍也の事を心配してくれたものだが、一度どこで番号を知ったのか、全くの見ず知らずの人から家の電話に掛かってきて一方的にまくしたてられた時は流石に背筋が冷えた。
天秤へ進学した理由、つまり佐田の事を、
──今は黙っていよう。
そう決めたのも、この時だ。
そんな訳で、何の変哲もない無名校を選んだ代償にたくさんのお説教を受けた槍也だったが、これまでは耐えることが出来た。気持ちを切り替えて、笑顔を失わずに前を向けた。
だが、今回のコラムに対してはちょっと尾を引いてる。なかなか気持ちが上向かない。
それは、コラムの内容が他と比べ、飛び抜けて辛辣だったから……などと言う訳ではなく、むしろ原因は槍也の方にあった。いや、槍也というより……、
──佐田、本当に部活に顔を出さなくなったしな……。
それが、槍也が意気消沈している原因だった。
佐田は、昨日部長と揉めて途中で帰っただけでなく、今日の練習試合にも顔を出さなかった。
また、明日、新入生の間でサッカーをやろうという話が持ち上がり、もちろん槍也も参加することにしたのだが、その際に、
《佐田も来ないか?》
というメールを送ったのだが、
《滋賀。いいから、しばらく俺のことはほっといてくれ》
というメールが即座に帰ってきた。
この分だと週明けの月曜も、まず部活へ顔を出すことは無いだろう。いや、それどころか、今後二度とサッカー部に顔を出さないかもしれない。
もし、このまま佐田がサッカー部に来ないようだったら……どうすればいいのだろう?
これまで色々な人から色々と言われた槍也だが、『いつか分かってもらえる』という気持ちがあった。
例え今は失望させてしまったとしても、佐田とサッカーを続ける先に、いつかみんながびっくりする様な光景が現れるんだって……そう考えていた。
ただ、この考え方の大前提として、槍也には佐田明というサッカープレイヤーが絶対に必要だ。
──佐田を、呼び戻すべきかな?
普通に考えたらそうだ。部を離れることのメリットが思いつかない。それに天秤サッカー部の練習内容がそこまで悪いとも思わない。いたって普通だ。
むしろ指導者がいない中、自分たちでハイプレスをやると決め、その為に必要な練習を自分たちで試行錯誤してきた先輩たちは頑張っていると思う。
少なくとも槍也は天秤のサッカーに合わせるつもりだ。
だから、佐田を説得して、部長に謝り、サッカー部に復帰させるのが槍也にとってベストの選択だ。なんなら槍也が一緒に頭を下げたって構わない。
けど、
──だから滋賀、俺の邪魔すんな。
そう言い放った時の佐田には、何かを引き起こしそうな気配があり、それを邪魔することには気が引けた。
ただの勘だ。なんの根拠もない。
確かに槍也は理屈より勘で動くところがあるが、だからといって理屈や理論をまるっきり無視するわけではない。
流石に今回のケースは連れ戻した方がいいような気がする。
そもそもサッカーの練習は、1人だと出来るメニューが数限られている。パス練習一つとっても相手がいるのだ。
「うーーん……」
連れ戻すのか、信じて待つのか……槍也にすれば珍しくも判断がつきかねた。
それでもどちらかを選ぶとしたら……、
「ちょっとだけ待ってみようかな……」
槍也は信じて待つことの方を選んだ。そちらが正しいという確信はない。けれど、必ず戻ってくると言った佐田を信じようと思ったのだ。
「兄さん。お風呂あがりましたよ」
「ん。わかった」
ちょうど考えがまとまった所で風呂が空いたので、槍也は雑誌を手放し、立ち上がった。
……。
……。
さて、槍也と入れ替わりにリビングで腰を下ろした琴音も、先程まで槍也が眺めていた雑誌を手に取った。
琴音もまた、兄と同じく《サッカーボール》の愛読者である。
といっても琴音が雑誌に目を通す理由は、槍也ほど純粋にサッカーだけを目的としてない。
もちろんサッカーが好きだから……という気持ちもあるのだが、それ以外にも槍也と共通の情報を仕入れておいて後で楽しくおしゃべりする為だったり、そもそも、その槍也が雑誌に載る事が珍しくなかったりするからである。
ちなみに過去に一度、槍也が《サッカーボール》の表紙を飾った事すらあるのだが、その時は、琴音用にわざわざもう一冊購入したりもした。今でも大切に保管している琴音の宝物だ。
そんな風に兄が好きすぎる琴音であるから、兄への批判がふんだんに盛り込まれたコラムに目を通した時、目も眩むような怒りに囚われたのは、当然といえば当然の事だった。
ワナワナと震えながら、一体どこの誰がこんな馬鹿な記事を書いたのかを探すと、記事の最後に明記されていたライターの名前へとたどり着いた。
「徳田勝……あの人!」
以前、雑誌で兄さんの事を、世界に通用するストライカーの卵として称賛し、特集を組んでくれた人だ。
なるほど、そういえば記事の文体にどこかしら見覚えがある。
──彼は私たちにどんな将来を見せてくれるのか? スポーツルポライターではなく彼のいちファンとして興味が尽きない……って、書いてあったじゃないですか⁉︎
それなのにこの手の平の返しよう、琴音からすればもはや裏切り者である。
──いったい何を考えているのかってサッカーの事に決まっているじゃないですか⁉︎ 兄さんは誰よりもサッカーに対して誠実なんです!
──その兄さんが、ユースに行くより他のどの高校に行くより天秤に行く方がいいって判断したんです! 仮にもファンを名乗ったなら、そんな兄さんの判断を信頼したらどうなんですか⁉︎
徳田勝という記者に、そして、こんな間違った記事を沢山の人が目を通している事に怒りが収まらない。
気がつけばグシャッと……琴音が摘んでいたページが歪んでいた。
「あっ……」
本に罪は無い。自分だけの本でもない。
自らの行いに気付いた琴音は慌てて指の力を抜き、歪んだ箇所を引き伸ばしたが、シワになった所はシワになったままだ。
──みっともない真似をしてしまいました。ちょっと落ち着きましょう。
自戒と反省の意味を込めて、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
静かに息を吸って、静かに息を吐く。
5回ほど繰り返した時にはいつもの自分だった。
──うん、もう大丈夫。
冷静な思考と判断力を取り戻した琴音は、無意味に怒りを振りまく事を止め、今後どうするか? という建設的な考えにシフトした。
──例え百万の罵倒を重ねても兄さんの名誉は回復しません。
──なら、どうすればいいのでしょう?
──決まってます。兄さんが天秤を選んだ事は、決して間違っていないと証明すればいいんです。
──つまり、佐田君が兄さんに匹敵するサッカー選手に成長して、天秤高校が全国大会で活躍すれば、みんなにわかってもらえるでしょう。
──佐田君が……。
「…………もう! あの人!」
思案の結果行き着いたクラスメイトが、昨日サッカー部から離れたことに、めまいを覚えそうな琴音だった。
「そもそも……どう考えても悪いのは佐田君じゃないですか?」
揉めた理由を後から兄さんから聞いたが、琴音には、佐田君が無茶を言っている様にしか感じられない。
部活動という枠組みで決められた練習が、昨日今日入部したばかりの一年生の意見で、しかも理由が『俺がパス練習をやりたいから』で変わる筈がない。
部長に叱責されたのも、成るようになった結果、つまり自業自得だと思う。
思うのだが……それでも佐田君が必要な事には違いがない。
──連れ戻しましょう。
槍也と違い、勘などというあやふやな判断基準を持たない琴音は理屈と理論を元にして、そう決断した。
そして決断したからには、即行動が信条だ。
リビングを出て部屋に戻ると、充電中のスマートフォンを手に取って、登録してあるアドレスの中から佐田君の番号を探した。
さほど手間取りもせずに目的のアドレスが見つかったので、これまた躊躇なく通話ボタンをタップする。
プルルルル──と、コール音が鳴り、ほどなくして通話が繋がった。
「……なんだよ」
佐田君の第一声は、およそ他人と友好的な関係を結ぶ気が無いと思わせるような無愛想さだった。
しかし、ある程度覚悟はしていたので、柔らかな声音で返そうとした。
だが、
「夜分にごめんなさい。実はサッカー部のことでお話がありまして……やっぱり部活に来ないのは良くないことだと──」
「俺の方に話したい事はねえ」
「ちょっ ……ええっ⁉︎」
まだ本題を言い終わってもいないのに電話を切られた。唖然として手元を眺めるが、スマートフォンは虚しい切断音を響かせるだけである。
「信じられません……」
しばし呆然とした琴音だったが、時間が経つことで、流石に今の態度はおかしいと気付いた。
確かに佐田君とはそこまで親しい訳じゃない。同じクラスであっても、休み時間に楽しくおしゃべりをする仲でもなければ、お昼を一緒に食べたりもしない。
しかしそれでも、同じ中学、同じクラブとあって朝の挨拶くらいは普通に交わすのだ。それなのに、いくら何でもこれは無い。
──そんなにもサッカー部のことに触れられたくないのでしょうか?
これはあれだ。自分に非があることはわかっているから、話し合いになっても負けるのはわかってる。だからそもそも話し合いのテーブルにつかない。そういう態度の表れだ。
──自分が悪いって自覚しているなら素直に謝ってください! そんなだと、こじれる一方じゃないですか⁉︎
内心憤りを感じながらも再度連絡を取ろうとしたのだが、通話は繋がらない。代わりに、
『おかけになった電話番号は、お客様のご希望によりお繋ぎできません』
という人工的なアナウンスがスピーカーから流れてくる始末だ。
「ちゃ、着信拒否……?」
再び呆然とした琴音だった。
本気……というか正気なのだろうか彼は? 私たちはクラスメイトで月曜日になれば否が応でも顔を合わせるというのに、そんなにも軽々しく着信拒否なんて……──。
「もう! ……もうっ!」
基本おしとやかで、更に言えば、常日頃からおしとやかであろうと心がけている琴音だが、この時ばかりはスマートフォンをベッドに投げ捨てたくなった。
辛うじて理性が勝ったが、代わりに自分の身をベッドに放り出した。うつ伏せの状態で枕に顔を埋めると両足をバタつかせる。
それが琴音のストレスを発散するいつものやり方だった。
ひとしきり暴れたあと、枕から顔を上げ、力強く呟いた。
「着信拒否ぐらいじゃ諦めませんから!」
なんせ最愛の兄の将来と名誉がかかっている。多少邪険にされたくらいで引くはずもない。
とはいえ連絡は取れない。かといって週明けの月曜まで待つのは悠長にすぎる。
なので、佐田君の妹にして、琴音の中学時代の部活の後輩、七海ちゃんに連絡を取ることにした。
はたして七海ちゃんは、お兄さんと違い第一声から友好的だった。
「こ、こんばんは琴音先輩!」
「こんばんは七海ちゃん。夜分遅くにすみません」
「いえ、そんな滅相もない! 先輩からならいつでも大歓迎です!」
「ありがとうございます。最近はどうです? きっと後輩も出来たと思いますが、家庭科部のみんなは上手くいっていますか?」
「はい、上手くいってます! カルルなんて一年生の前だとほんとお姉さんぶって、みんなから『いや、おめえ誰だよ?』って言われるくらいに猫かぶっちゃってるんですよ!」
「ふふっ」
しばし後輩たちの近況に耳を傾けた琴音だが、みな元気そうでなによりだ。
それにしても七海ちゃんの礼儀正しさと人懐っこさ、佐田君とは大違いである。
──ちょっと見習ってほしいですね。
そんな事を考えながら琴音は本題に入った。
「ところで、実は七海ちゃんのお兄さんの事で相談があるんですけど……」
「あっ! わかりました! ──あの馬鹿! 部活に来なくなったんでしょう⁉︎」
まだ何の説明していないというのに、七海ちゃんの推測は見事に的を射ていた。
「……よくわかりましたね。──お兄さんから聞いたんですか?」
「あいつがそんな親切に自分の学校での事を喋るわけがないじゃないですか。あいつはもう筋金入りですよ、筋金入り。──私がそうだってわかったのは、あいつの行動がおかしかったからです。だって今日私が出かけたとき、あいつが近くの公園で壁に向かってボール蹴りしてたんです。……けど、おかしいでしょ? 普通、サッカー部や野球部って、土日どころかお盆やお正月でも練習あるのが当たり前じゃないですか? なのに普通の土曜日に部活に行かないってありえないですもん」
「いえ、流石にお盆やお正月はお休みですよ。ちなみに天秤だと日曜日もお休みです」
それは文化部の偏見である。
「そうなんですか? でも、今日は部活あったんですよね?」
「ええ。ありましたね」
「どうせあの阿呆、周りと揉めたんでしょ? 琴音先輩のお手を煩わせて……本当にすみません!」
自分の事でもないのに真摯に謝る七海ちゃん。本当にお兄さんの方は妹のことを見習って欲しいものである。
ところで、彼女は琴音的に気になる事をさらっと言っていた。
「七海ちゃんが謝ることではありませんよ。──ところで佐田君がボールを蹴っていた公園なんですけど……その場所、教えて貰えませんか?」
琴音の質問に、七海ちゃんは快く答えてくれた。