34 入学して1週間、2
授業が終わって放課後。
部活に入っている生徒は各々の部活場所へと足を向ける。
校庭では、いくつもの運動部がそれぞれの陣地で大会に向けて練習を始めていた。
サッカー部も例外ではなく、新入部員も含めた、およそ30人少しの部員達が輪をなして体操を行っている。
天秤サッカー部に新入部員が加わって早4日。さほど時間が経過しているわけではないが、部長である永谷梓は、
──今のサッカー部の空気は、これまでで1番いい、
という手ごたえを感じていた。
普通はこうはならない。少なくとも自分たちや、今の2年が入部した当初は違った。
本気で全国を目指している天秤は、練習はきっちりとやる。更に、天秤が掲げているスタイルが走り回ることを求められるハイプレスとあって、練習でも走り込む事と連携に力を入れている。ありていに言えば天秤の練習は地味でキツイ。
そして天秤サッカー部に入部する人間に、本気で全国を目指すような者はまず居ない……というより、本気で全国やプロを目指すような人間は天秤を選ばないのだ。
だから天秤サッカー部に入部する人間というのは、学力だったり、近場だったり、その他もろもろだったり、サッカー以外の理由で天秤に進学し、放課後はボールで皆と遊びたい、何なら大会に参加するのもいいかもね……そういう緩い考えの持ち主が大半で、故に地味でキツイ練習に不満を持つ者が多い。自分だって最初はそうだった。
それを踏まえて考えれば、今年の新入生は不思議に思える程前向きで辛い練習に積極的だ。
もちろん何の問題が無い訳じゃないが、それでも新入部員の加入、という新しい変化が加わったというのにきちんと練習に集中できている。
運動前の準備体操を終えた後、皆に向かって次の指示を出す。
「よし、次はパス練習に入ろう」
準備運動からパス練習の流れは常に変わらないので2、3年は慣れたものだし、新入部員も4度目とあってさほど戸惑わずに2人1組を作っていく。
「永谷、組もうぜ」
「ああ」
同級の篠原に誘われたので短く頷いた。
グランドのはじの方に寄せてあった籠の中からサッカーボールを取り出して各々に渡していく。
その後は、ペアと組んだ篠原と5メートルの距離を開け、まずは足の内側、インサイドキックを使ってボールを行き来させる。
インサイドキックは最も簡単でコントロールのつきやすい蹴り方で、それ故に1番試合での使用頻度は高い。ショートパスの基本だ。
「ただ漫然と蹴るなよ。試合を意識して集中して取り組んでくれ」
「「「はい!」」」
部長としてみんなに声を掛けると、勢いのある歯切れの良い返事が返ってきた。
やはりいい。自分が部長を引き継いでからおよそ9ヶ月、皆のモチベーションは声に現れるという事は重々に承知している。皆のモチベーションを上げる為に無理に空元気を装ったこともある。それを思えば、いまのチームの状態はちょっと信じがたいほどに良好で、この状態を維持したまま地区予選を迎えることができれば……と期待が持てる。
3年である自分にとって最後の大会だ。今度こそ地区大会を勝ち抜き、夏のインターハイへの切符を掴みたい。
その為にも今は練習に集中する。
インサイドキックや、アウトサイドキックでショートパスを繰り返した後は、篠原との距離を開けて、主に足の甲を使用するインフロントパスへと移行した。
約20メートルまで開いた距離をノーバウンドで送り出す。ボールは結構な勢いで進んだが、篠原はキチンと足元に留めると、同じ様なボールを返してきた。いや、少し訂正、自分の放ったボールより高い放物線を描いている。ミスキックだ。
「ふっ」
ボールの軌道を見極め、軽くジャンプしながら胸で受けた。
インパクトの瞬間に背筋を逸らすことで勢いを殺した。ふんわりと跳ね返ったボールはきっちりと自分の支配下にある。もし仮にこれが本当の試合で、背後にマークが付いていたとしても、自分自身の体を壁として使うことでボールを確保できる。
──ああ、そういうことか。
篠原のミスキックかと思ったがどうやら違うみたいだ。見れば、してやったりの笑顔を見せているので敢えて強く蹴り出したのだろう。
パスの練習はトラップの練習を兼ねているし、永谷は典型的なポストプレイヤーだ。天秤には後ろでボールを回す技術はない。だから困った時は前に大きくクリアさせて、永谷が体を張ってボールを確保する。胸トラップも他のポジションより使う機会が多い。
そういう背景を踏まえた上での篠原のロングキックに、思わずこちらもにやけてしまった。
お返しとばかりに強く蹴り出すと、篠原も胸を使って自分の足が届く範囲内にボールを転がした。
──上手くなった……と、そう思う。
篠原は高校からサッカーを始めた。
サッカー未経験で運動が出来る訳でもなかったので、最初の頃の篠原は控え目に言っても鈍臭い奴だった。
「天秤に知り合いが少なくてさ、サッカー部に入ったのは友達作りの為ってのがでかい」
篠原自身、そう言っていた。
だから天秤のキツイ練習を体験して、「こんな筈じゃなかったんだけど……」と、ボヤくこともしばしばあった。
それでもサッカー部から逃げださず、真面目に通う内にサッカーにのめり込んでいき、今ではサッカー部に欠かせない存在となった。
決して飛び抜けたテクニックを持っている訳ではないが、基本に忠実な動きと、人一倍走ることで培ったスタミナを生かして前線と後衛の繋ぐ役割を見事に果たしている。
──ボランチは篠原で決まりだ……な。
永谷はいささかの安堵と共にそう思う。
地区大会が始まるのは5月の終わり頃。もうあまり日がない。
新入生が加わり新体制に移行したばかりとはいえ、そろそろレギュラーを、他でもない自分が選ばなくてはならない。
代々サッカー未経験者が顧問を務める天秤では、顧問の先生ではなく部長がレギュラーを選抜する。
むろん副部長である朝霧あたりとは真剣に話し合ったりするが、最終的な決断は自分がする。しなくてはならない。
そして、その選考基準は年功序列ではなく実力重視だ。
勝つ事を、全国を目指すという事そういう事だ。
だから例えば、今まで真面目に汗を流してきた3年より、入部したての1年の方が実力が優れているなら、永谷は後者をレギュラーに選ばなくてはいけない。
滋賀なんかが正にそうだ。卓越した実力を持つあいつはFWの枠を一つ確実に奪うだろう。
奪う……という表現をしたが別に滋賀の事が嫌いな訳ではない。まだ1週間と経っていないが一緒に練習することで滋賀の実力が図抜けている事はわかっているし、その真摯な練習態度にも好感が持てる。
最初は、あの日本サッカーの救世主と呼ばれる滋賀槍也……という事で若干の気後れが部員たちの間に、そして部長として表に出さないように注意していたが、永谷自身にもあった。
しかし、そんなつまらない懸念は直ぐに消えた。
サッカーに対する情熱と周囲との協調性は一緒に練習してすぐに見てとれたし、それは滋賀個人のみならず周囲にまで影響を及ぼしている。
今年の新人がこうまで意識が高いことは滋賀の存在と無関係ではないだろう。
そんな、入部5日目にして1年の中心……いやサッカー部そのものの中心になりつつある滋賀をレギュラーに選ぶことに不満は無い。
不満は無いのだが、だからといって、これまで一緒に頑張ってきた上級生をレギュラーから外すことに何の痛みも感じない、というのもまた不可能だ。
レギュラーの選考に私情は挟まないが、人間である以上、個人的感情から逃れることは出来ない。
だからこそ、篠原には……いや篠原に限らず2、3年には実力でレギュラーの座を勝ち取って欲しいと願っている……と、そこまで考えて永谷は苦笑した。
自分の考えがネガティヴ過ぎる事に気付いたからだ。
マイナス方向に考え過ぎるのは自分の悪い癖だ。
どちらかと言えば滋賀槍也は例外だ。余計な心配をしなくとも、これまでを見る限り、新入生より2、3年の方がはっきり実力が上だ。
今年の1年はサッカー経験者が多いが、周囲と連携するハイプレスは一朝一夕で習得出来るものではないし、受験で鈍った体で、走り回る天秤のサッカーをこなす事も不可能だ。
『馬鹿な心配をするくらいなら、しっかりした背中を見せつけてやれよ』
きっと先輩ならそう言う筈だ。まったく……先輩から部長の役目を引き継いで一年近く経つというのに、まだまだ至らない所ばかりだ。
時間がきたので、気持ちを切り替えるように首を振って、パス練習の終わりを告げた。
「よし、パス練はここまで。次はハイプレスの練習に移ろう。攻め手側と守り手側、二手に分かれてくれ」
永谷の号令に皆が二手に分かれていく。永谷もまた片方へ向かおうとしたが、背後から声をかけられた。
「部長、ちょっといいですか?」
その言葉に永谷は思わず眉をひそめた。
またか……という気持ちで振り向くと、やっぱり声の主は佐田だった。滋賀と違って悪い意味で目立つ新入部員。
佐田は、これまでにない程の一体感を感じさせるサッカー部において、ほとんど唯一と言っていい不安要素だ。
「……どうした?」
一応、質問の形をとったが、実の所、どんな用件かは想像がついていた。
なんせ昨日もおとといも、その前の日も……ずっと同じ事を主張してきたのだから。
そして案の定、今日の用件も一緒だった。
「俺、全然パスが上手く出来てないんですよ。まだまだ失敗ばっか…………だからハイプレスの練習を止めて、パスの練習を続けたいんですけど、何とかなりませんか?」
真顔でそう主張する佐田に、思わずため息が漏れる。
「できる訳がないだろう、そんなこと」
「何故? 練習内容を決めているのは夢崎先生じゃなく、部長ですよね? 部長がオーケーを出せばそれでいいんじゃないですか?」
「っ……!」
一応、敬語ではあるが……佐田の口調にトゲトゲしい物を感じるのは絶対に気のせいなんかじゃない。既に似たようなやりとりを何回も重ねているのだが、昨日あたりからあらかさまに険しくなった。
おそらくは自分の主張が受け入れられない事に腹を立てているのだろうか、だからといって佐田の案は受け入れられない。受け入れられる筈がない。
「変えられない理由は前にもちゃんと説明しただろう⁉︎ 1人の都合でみんなの練習内容を変える訳にはいかん!」
「なら、みんなは普段の練習を続けて、俺だけパスの練習をやるのはどうですか? それなら、みんなの邪魔にならない」
「だから、そんな事は出来ないと言っている!」
何故、わからないのだろう。個人個々で好き勝手にやれば規律も何も無くなってしまうというのに……。
──腹立たしい……と永谷は思った。
そして、そう考えたのは永谷だけでもない筈だ。
このやりとりで、いつまでも次の練習に移れずサッカー部全体の動きが止まっている。そのことに不満を持つ者だって当然いる。中には「またかよ」と露骨に舌打ちする者もいた。
──これは……一度、強く言わなければ駄目だな。
永谷はそう判断した。こんな馬鹿なやりとりをいつまで続ける訳にはいかないし、何より佐田の為にもならない。
入部したての一年坊主が好き勝手を押し通せば、疎まれて孤立するに決まっている。
「佐田、いい加減にしろ! 部活の時間は好き放題やる時間じゃない! みんなで一致団結して練習に取り組む時間なんだ!」
厳しい口調で忠告すると、佐田は顔をしかめてうつむいた。
しかし永谷は追求の手を緩めなかった。
「お前はサッカーを始めたばかりだよな? なら、一つ大事な事を教えておく。……いいか、サッカーはチームスポーツなんだ。1人では何も出来ない。だから、みんなと協力出来ない奴はサッカーをやる資格は無い!」
自分が思う以上に不満が溜まっていたのか、当初考えていたよりも強い口調になってしまった。
それまで少しざわついていた周囲も、永谷の剣幕にぴたりと黙り込む。
そんな周囲の反応を見て、少しやりすぎたか……と思いはしたが、直ぐに、それも仕方がない……という結論に達した。
佐田には誰かが厳しく言わなければならなかっただろう。そして、その誰かは部長である自分であるべきだ。
そう納得した永谷は佐田の返事を待った。
周りも口を噤んだままなのでグランドは静寂が支配した。
普段は気にも止めないような、隣で行われている野球部のノックの音が鮮明に聞こえる程だ。
そんなサッカー部の時間だけが止まったかのような沈黙が、たっぷりと十秒以上経過してから佐田はぼそりと呟いた。
「わかりました」
その言葉は、一見、叱責を受け入れたかの様に聞こえるもので安堵した永谷だったが、すぐに思い直さざるを得なかった。「わかりました」に続いて顔を上げたその表情が敵意満点だったからだ。
そして、実際アキラには永谷の意見を受け入れる気など毛頭なかった。
自分の意見が決して通らないことを悟ったアキラは、
──これまでだな……。
と、サッカー部を見切った。
次いで、しかめっ面を消し、白々しいまでの笑顔を浮かべると、戸惑い顔の部長に告げた。
「これまで部活に参加して感じていましたが、どうも俺は、ここのサッカー部に参加するにはレベルが足りてないようです」
「は?」
「ここは一年を含めて経験者ばかりで、基礎もそれなりに出来てる。……そこに昨日、今日サッカーを始めたばかりの俺が加わっても足手まといにしかなってない。……ですので、一度、出直してくることにします」
「……一体なんの話だ?」
永谷はアキラの言っていることが理解できず問い返したが、アキラは構わずに自分の都合だけを告げる。
「これから部を離れて、パスやトラップといった基礎的な技術を身に付けることにします。きっちりと基礎を習得して足を引っ張らなくなったら……その時は、また練習に参加させて下さい」
昨日あたりから考えていた建前を言い終えると、アキラはそのままグランドを去ろうとした。
が、くるりと皆に背を向けたアキラに永谷の怒鳴り声が突き刺さる。
「ちょっと待て! 訳の分からない事を言ってないで、ちゃんと説明しろ!」
その言葉にむかっとしたアキラは……正確にはむかっとした事を押さえきれなくなったアキラは、首だけ振り向いて問い返した。
「ちょっと待て? 待ったら俺の意見が通るのかよ?」
「………お前っ⁉︎」
それまで辛うじて保っていた、目上に対する敬語使いすら消え失せたアキラのそのセリフは、永谷に、アキラが何一つ反省してない事を、これ以上なく雄弁に伝えていた。
「かっ……勝手にしろ!」
激昂した永谷がそう言い放てば、
「もちろん。じゃ、失礼します」
と、本当に腹の立つ一言を残して、今度こそアキラはグランドを後にした。
……。
……。
──むかつく。
──あー、むかつく。
──むかついて、むかついて、むかつく。……何でみんなはむかつかねーのかね?
と、最初はサッカー部への苛立ちで一杯だったアキラだが、校門を潜り抜ける頃には大分落ち着きを取り戻して、自分の行動を振り返る事が出来た。
「しっかし、俺も成長しねーな……」
子どもの頃、周囲の意見を聞かずに当時憧れていた選手の真似ばかりしていたせいで、孤立してサッカークラブを辞めた。
今現在、周囲の意見を聞かずにパス練習にこだわった為に、それを認めてくれないサッカー部から離脱した。
どうやら6年という月日は、アキラに寛容や協調といったスキルを育んではくれなかったようだ。
そうなるとは思っていた。きっと俺は我を貫くだろうと。しかしその一方で、高校生ともなった今の俺なら、もしかするとチームに上手く合わせられるんじゃないか? という儚い希望も抱いていたのだが、どうやら只の願望に過ぎなかったらしい。
まあ、アキラなりに頑張りはした。
頑張って、それでも駄目だったんだから、これは仕方ないだろう。
そんな風に切り替えたアキラだったがヤマヒコはそうはいかなかった。さっきからひたすら泣き言を垂れ流している。
『アキラのアホー。考え無し。ワガママろくでなしー』
「うるせえよ。静かにしてろ」
ヤマヒコの愚痴に閉口したアキラがそう言っても、ヤマヒコが黙る気配はなかった。
『あ〜あっ、無愛想なアキラもサッカー部に入ったことでさあ、やっと友達がたくさんいる真人間に生まれ変わった……そう思ったんだけどな〜〜』
「よけいなお世話だ。……あんまりしつけーと俺にも考えがあるぞ。ん?」
だいたいその言い草はなんだ? それだと、まるでアキラが真人間じゃないかのような言い草じゃないか?
いわれもない寝言にうんざりしたアキラは。暗にガラスの刑などの制裁をチラつかせたが、ヤマヒコは返って反発した。
『だいたいさー! 部長さんにそんなに非があったかなー⁉︎ 真面目で公正な人に思えたけどなー⁉︎』
「……そういう問題じゃねえんだよ」
『しかも、わざわざ追いかけてくれた滋賀君にもいちゃもんつけるしさー』
「………………」
流石に分の悪さを感じたアキラは押し黙った。
グランドを去ったあと、荷物を取りに部室へ寄ったのだが、鞄を抱えて部室を出る所で滋賀と鉢合わせした。
「佐田! 待ってくれ!」
滋賀のその切羽詰まった顔を見れば、アキラを説得、または連れ戻しに来たことは一目瞭然だったが、アキラは先んじて言った。
「戻らねえぞ。あそこじゃ、俺はサッカーが上手くならねえ」
「でもっ……⁉︎」
アキラの台詞に反論しようとした滋賀だったが、アキラは手をかざして遮った。むかつきが頂点に達していたアキラは、たとえ誰であろうと、今日はこれ以上、なに一つ話し合う気になれなかった。
「勘違いすんなよ。俺はサッカーを止める訳じゃない。自分の実力に納得がいくようになったら絶対に戻ってくるさ……だから滋賀、俺の邪魔すんな」
部長の時と同じように一方的に通告すると、まだ何か言いたげな顔をしている滋賀を残して部室を後にした。
多少、冷静になった今では、あれはちょと、なかったかな……という気もしている。
しているが、だからと言って戻って謝る気は無い。今、戻った所で同じことの繰り返しにしかならない。
「これ以上、時間を無駄にするくらいなら、とっとと次へ行った方がいいんだよ」
『次? いったいどんな次があるのさ?』
ヤマヒコの質問にアキラは呆れた。何故に疑問形なのか? これまでの経緯を考えれば分かりきったことなのに。
「決まってんだろ。パスの練習だよ。他にやることなんてねえよ」
そう断言したアキラは帰宅路とは別の道に足を向けた。