33 入学して1週間
週末前の金曜日、御堂恭平は少し回り道をしながら学校へと向かった。
特に大層な理由はない。たまたま少し早起きした結果、ちょっと早く登校することになり、どうせなら桜の綺麗な並木道を通って創作意欲を掻き立てようとしただけだ。
桜並木はちょうど満開の時期で見応えがあり、いつか大きなキャンパスに絵描けたらいいなと切に思う。
──ま、その前に遠近感やパースの雑さをなんとかしなきゃな……。
桜を見ながら自分の腕前に思いを馳せつつ、ゆっくりと自転車を漕いでいると、あっさりと早起き分はチャラになり、学校に到着した時は普段通りの時間帯だった。
自分の教室の自分の席に座ると、カバンの中身を取り出す。
教科書、ノート、そしてシャーペン用の筆箱を机に入れながら教室を見渡すと、入学から1週間にして既にいくつかのグループが出来上がっており、たわいもない馬鹿話で盛り上がっている。
因みに御堂はそれらのどのグループにも属していない。いや、友達が出来なかった訳ではないが、でも、そいつはまだ登校していない。
なので席を立たずに、部活の宿題を片付けることにした。
今しがた机の中へ入れたばかりの本の束、その中から一際カラフルな一冊を取り出す。
美術室の書籍棚から拝借してきたその本の題名は『ピカソの魅力』
おそらく、絵に全く興味ない人間にも名前を知られているであろうピカソとその作品を取り上げた本なのだが、
「全くわからん……」
恭平にはその良さが一欠片も見出せない。
世の中にはピカソの絵が子供の落書きにしか見えない人種が一定数存在しているらしいが、恭平もその類の人種だった。
綺麗な風景画に感動して絵の道に入った恭平には、奇抜で歪んだピカソの絵は尊敬も共感も遥か彼方だ。この先一生分かり合える気がしない。
──が、そう言う訳にもいかんのだろうな……。
『ピカソの魅力』を恭平に進めたのは、美術部の顧問である先生だ。芸科大学出身の先生は今でも絵を描いていて、風景画を扱う作風は恭平に近しいものを感じる。
作風が近しいといっても、実力はあちらの方が遥かに上だし、アドバイスも的確だ。
また入部時の自己紹介で恭平が言った、大学は芸科大に進学し、将来は絵で食っていきたい……という言葉を真面目に受け止めた希少な人物でもある。
つまりは恭平にとって信頼できる先生なのだが、そんな先生から、
「若い内は色々な価値観に触れておいた方がいい。特に今のご時世、精緻なだけの絵は必要とされないだろう」
と、アドバイスされ、
「まずはこれを読んで見たらどうだ?」
と、『ピカソの魅力』を渡されたのだが、今のところ、
「うむ……むむむっ」
と、唸ること以外得られた物は何も無い。
いや、先生の言うことがわからない訳でもないのだ。今のご時世……つまり現代社会では大半の人がスマホなりなんなりを所持している。もちろん恭平だってポケットに入れている。そして当然の如く写真を撮る機能が付いていて、どれだけ細かく絵を描いたところで精緻さで勝てる筈も無い。
だから、今の時代に絵で食っていくなら精緻さ以外の、言うなれば作者の色が必要なのだろうが……残念ながら今の恭平では先が長い、としか言えない。
そんな風にしかめっ面で画集と睨めっこしていると、このクラスで数少ない友人である佐田がやってきて恭平の前の自分の席に座り、鞄を机の上に投げ出したままこちらを向いた。
「おはよう」
「よう、遅かったな」
「遅刻した訳じゃねーからいいだろ」
「そう言って昨日は遅刻したじゃないか」
「チャイムは鳴ったが先生が来る前だったからセーフだ」
佐田とは初日にシャーペンを借りたり、なりゆきで相談に乗ったりする内に意気投合して話すようになったのだが、なんとなく似た者同士という気がしている。
そんな佐田ととりとめのない会話を交わしていると、佐田の視線が恭平の持っていた『ピカソの魅力』へ向けられ、そして驚愕の一言を呟いた。
「おー、ピカソか。俺、このおっさん好きなんだよな」
「……………………へぇ」
──嘘だろ⁉︎
というのが恭平の本音だった。まだ知り合って1週間足らずでこんな事を言うのも何なんだが、正直、佐田に芸術的感性があるとはカケラも思っていなかった。
なのに実は情緒豊かで、恭平が理解できないピカソの魅力を理解しているというのか。
そんな風に妙な焦燥を感じている恭平の前で佐田はあっけらかんと言った。
「知ってる? このおっさん、金も払わずタダ飯を食いまくってたんだぜ」
「は?」
自分の口から出ておいて何なんだが、人間、予想外に直面すると語彙力が無くなる……ということをこれ以上なく表現するかのような「は?」だった。
そして固まってしまった恭平を見て、佐田は親切にも註釈を入れてくる。
「いや、正確には小切手で支払っていたらしいんだけどさ……でも、店のオーナーが現金に換えるよりもピカソのサインの方が価値があるって取っておいて飾るもんだから結果的にタダ飯になるって言う……馬鹿馬鹿しくて面白くねえ?」
「……うん、まあ……興味深い話ではあるが…………」
普通ピカソといったらもっと本筋があると思うのだが、何故に脇道も脇道なエピソードを出してくるのか。
「…………因みにピカソの絵についてはどう思う?」
「あー、駄目駄目。全然駄目だわ。俺に芸術の良し悪しなんてわかる訳ねえよ。だってピカソの絵なんて落書きにしか見えねえし……なんなら俺でも描けそうだ」
この芸術に理解の浅い台詞を聞いて逆に安心した。
「よし、勝った」
思わず呟いた。
別に美術部員でも何でもない、むしろ対極の運動部に所属している佐田に勝ったところで、何がどうなる訳でもないのだが、でも、まあ、恭平は負けず嫌いなのだ。なんなら無意味にという言葉を付け加えてもいい。
「勝った? 何が?」
「いや、何でもない。……それよりサッカー部はどうだ? 周りとは上手くいっているか?」
佐田は不思議そうな顔をしているが恭平は話題を変えた。
すると、見るからに不機嫌そうな顔つきになったので、解答は解答を聞く前から明らかだった。
「いや、全然だな。死ぬほど上手くいってない」
「そうか……まあ、そうだろうな……」
予想通りと言えば予想通りだった。ワガママでチームワークが出来ないと悩む男に、チームワークなんて考えなくていいと背中を押したのだ。そりゃあ、揉めるだろう。
恭平はほんの少しだけサッカー部の連中に申し訳ない気持ちになった。
──俺の所為で問題を抱えて悪いなあ……。
と、心の中だけで謝っておいた。
因みに佐田の方にはそういう殊勝な気持ちに一切ならない。恭平がそういう風に背中を押したせいでチームとぶつかったとしても、それは仕方がない。
きっと佐田は自分のやりたいようにやれなければ腐るだけだ。出会って数日だが、それは殆ど確信と言って良かった。だからこそ好きにやれと背中を押した。
現に今の佐田は不機嫌そうに顔を歪めてはいるが、同時になんとも言えない覇気も漂わせている。
負けん気、克己心、なんなら揉めた相手を見返したいだけ……どれが正解なのかはわからないが、とにかくやる気に満ちていることが恭平にはわかる。
やはり似た者同士で、だからこそ佐田が続けて言った、
「もしかしたら、1度サッカー部を離れるかもな……」
という一言にさほど驚いたりはしなかった。むしろ、さもありなん……という感想しか抱かなかったが、一応、元サッカー経験者として警告だけはして置く事にした。
「一度チームを離れると戻るのが大変だぞ」
「そりゃそうだろうが……でも、まあ、そんときゃ仕方がねえよ」
「そうか……まあ、頑張れ」
何が仕方がないのか分からないが、止めても仕方がないということだけは、はっきりとわかってる。
やりたいようにやって、駄目だったら自業自得……それが恭平の信念だ。
ちょうど「頑張れ」と告げた後に始業のチャイムが鳴ったので佐田は会話を切り上げ、前を向いて鞄の中身を片付け始めた。
手持ちぶさたになった恭平は、先生が来るまでの間、もう一度『ピカソの魅力』に向き合おうとして……止めた。
開きかけていたページを閉じ、机の中にしまい込む。
佐田と話したことで自覚した。
佐田は恭平に似ている。
逆に言えば、恭平も佐田に似ている。
やりたいようにやらなければ気がすまない。だから、まあ、『ピカソの魅力』を進めてくれた先生にはわるいが、
「ピカソは俺に必要ない」
それが恭平の結論だった。




