20 槍也の決断
槍也は家に帰ってからも、ずっと、眉間にシワを寄せながら考え込んでいた。
夕食後、もうかれこれ、何時間もソファーの上から微動だにしていない。
「兄さん。もうそろそろお風呂に入った方がいいですよ」
「うん。……ごめん。もうちょっと後にするよ」
心配する琴音にも上の空だ。さっきからずっと頭の中を巡っているのは佐田の事だった。
——あいつは、絶対にサッカーをやるべきだ。
という確信が槍也にはある。
だが一方で、佐田が断ったことは、無理もないと思っていた。
そもそもにおいてスポーツは、やる、やらないは、自分の意思で決めるもので。佐田がやらないと言っているのに、槍也がどうこう言うのはおかど違いだ。
また、年齢にしても、環境に関しても、概ね佐田の言っていることは間違っていなかった。
無理を言っているのは槍也の方。それは分かってる。そして、分かった上でなお諦められない。
何をやったら佐田がサッカーを始める気になるのか? さっきからずっと、そればっかりを考えている。
——確かに、高校からサッカーをやって、プロや日本代表を目指すのは、極稀だ。
——けど、あいつは、その極稀に入る奴だと思う。
——けど、信じてもらえない。出会ったばかりの俺には、それだけの信頼がない。
「くそっ!」
思わずぼやいた。何故、同じ学校にいたのに、今まで、あいつと出会わなかったのか? もっと早くに出会えていたら、なんとしてもサッカー部に誘っていた。きっと周囲も佐田の才能に気付いて、ちゃんと才能に見合った進路を歩いていた筈だ。
そこまで考えて、首を振った。
今のは、なんら生産性のない妄想だ。意味がない。
考えるべきはこれから。佐田がサッカーを始めて、プロのスカウトや、代表の目に止まるには、どうすればいいか……だ。
もう何回も何回も自問した。
だが、佐田を納得させられる答えが一向に思いつかない。
——偶々、スカウトが通りかかる訳もないし。
——いっそ、俺が代表の監督に進言する。……駄目だな。そんなので佐田がサッカー始める訳がない。
——やっぱり、全国で活躍するのが一番なんだろうけど。
——神奈川で勝ち抜くのはキツイよな……。
神奈川は全国でも稀に見る激戦区だ。ライバル校は軽く100を超える。
その中でも、全国から選手を集める私立の強豪校には、日本代表に呼ばれる選手も普通に存在している。
槍也自身は、最終的には監督の人となりや練習風景を比べて、自分が一番成長できると思った東京の高校を選んだが、単純に実力だけを見比べるなら、同等かそれ以上の学校が幾つもある。
——いくら佐田でも勝てないだろうな……。
——というか、もし俺が同じ立場に立っても1人じゃ無理だ……………………ん? 1人?
ふと思い立った。本当になんの気もなく、あるいは、ずっと考え続けた故の必然か、兎にも角にも一つの案を槍也は閃いた。
それは単純な足し算だった。
いくら佐田でも、1人で強豪校との戦力差をひっくり返すのは不可能だ。
けれどもう1人いればどうだろう? 佐田と同等かそれ以上の選手がいれば、強豪校とも互角に渡り合え、地区大会を勝ち抜く事も出来るかもしれない。
佐田と同等かそれ以上の選手、例えば……、
——俺とかな……。
そう思った瞬間、槍也はこれまでの人生で、およそ体験した事のない心境に陥った。
例えるなら、灼熱の砂漠でありながら、極寒の風に身を晒しているような両極端の板挟み。
佐田がサッカーを始める糸口を見つけた興奮と、それと引き換えに、自身が色々なものを失うという恐怖。
とても平静ではいられなかった。自然と呼吸が荒くなり、いっそ叫び出したいくらいだったが、
——落ち着け!
と、強く自分に言い聞かせた。ここから先は冷静な判断力が絶対に必要だ。
壁にかかった時計を眺めながら、ゆっくりと深呼吸を行い、はやる気持ちを落ち着けて行く。焦る必要はない。
およそ秒針が3回まわった所で、もう大丈夫だと判断して、改めてその案に向き直った。
——俺が佐田と同じ高校に入れば、佐田はサッカーを始めるかもしれない。
確証はない。
けど、あいつはサッカー自体は好きだと言っていた。
辛い練習でリタイアするかもと言っていたが、同じチームなら、助け合い、励まし合うことが出来る。
そして、成長したあいつと、俺なら、厳しい地区大会を勝ち抜いて全国の舞台に立つことが出来る…………かもしれない。
ひどく不確かで、あやふやな道だが、可能性は感じる。
ただ、その道を選んだ場合、失う物がたくさんあるだろう。パッと考えただけでも片手に余るぐらいは思いついた。
・サッカー強豪校から普通の公立高校に鞍替えする訳だから、指導者、練習時間、設備、その他もろもろで質が落ちる。
・佐田がサッカーを始めたとしても、やはり地区大会を勝ち抜くのは厳しい。
・すでに内定したものを覆す訳だから、色んな所に謝りに行かなければならない。
・授業料免除の特待生ではなくなるのだから、両親は反対するかもしれない。仮に認められても負担をかけることになる。
・色んな人から非難を受けるだろう。
・そして、佐田がサッカーを始める保証はない。
指折り数えるだけで気持ちが滅入る
——とりあえず、こんなところか。
そう思って、一番大事な事が抜けている事に気づいた。
——ああ。
——今から、受験勉強しなきゃな……。
まず一般入試で受からなければ話にならない。
——確か、佐田の受験する高校は……。
槍也は顔を上げて、少し離れた所に座っている妹に尋ねた。
「琴音。佐田が受験する高校って天秤高校だっけ?」
「? ええ、そうですけど……」
「そっか、ありがとう」
そう言って、また考え事に戻った。
物覚えのいい琴音なら、槍也と違ってうろ覚えということもないだろう。
——天秤か。ちょっとキツイか?
——でも、絶対に無理って訳でもないよな?
これが琴音の受験する様な水瓶高校だったりしたら、選択の余地なく諦めるのだが、幸か不幸か天秤高校は槍也の手の届く範囲内だった。
——さて、どうすっかな?
この先、自分の運命が変わる決断だ。どちらの道を選ぶか慎重に見極めなければいけない。……だというのに、
——電話で断るのは失礼かな。
——先生にも早めに話をしないと……。
——天秤に落ちた時は私立か……出来るだけサッカーの強いとこなら……うん。
既に、そっちの道へ進む前提で物事を考えていた。
流石に呆れる。
——うわ……俺って、超馬鹿なんだな……。
そう思ってなお、行く道を変える気にならない。
——とにかく、父さんと母さんには今日の内に伝えようか……。
そんな風に、天秤高校へ進学する方向に今後の予定を組み立てていると、唐突に琴音が声を上げた。
「えっ? 兄さん! まさか、さっきの質問は、天秤高校に行こうなんて思っている訳ではないですよね⁉︎」
胸の内をピタリと当てられた槍也が琴音に顔を向けると、琴音は酷く焦ったような表情を浮かべていた。
そして事実、琴音は焦っていた。
さっき佐田君の進路を聞かれた時から、どんな意図があって、そんな質問が出て来たのかずっと考えていたのだ。
いっそ、兄に直接聞けよ? と思うかもしれないが、真剣に悩む槍也の邪魔をすることは気が引けた。
どんな時でも兄ファーストを忘れない琴音。
なので彼女なりに、ああでもない、こうでもない、と思考錯誤する内に、今まさに槍也が考えている案に行き着いたのだが、同時に血の気が引いた。
いくらなんでも違って欲しかった。トンチンカンな琴音の勘違い、であって欲しかった。
だが、
「うん。俺は天秤に……佐田と同じ高校に進学するよ」
既に葛藤を終えていた槍也は、迷いのない口調で琴音に告げた。
一方で、衝撃のセリフを聞いた琴音は、これでもかという程に狼狽した。思わず問い返す。
「あの……! その! ちょっ……ちょっと待って下さい! 本当に本気なんですか⁉︎」
「ああ、本当に……本気なんだ」
「……っ! 駄目です! それはいけません!」
咄嗟に、強い否定の言葉が出た。
まだ、冷静に物を考える事は出来ていないが、逆に言えば、狼狽していても、兄の考えが非常に良くないことが分かった。それこそ一目瞭然だった。
——絶対に止めなくてはいけません。じゃないと、兄さんの将来がピンチで危ないです!
そう思った琴音は、何としてでも引きとめるつもりで口を開こうとして……やめた。やめざるを得なかった。
兄さんは困った様な表情を浮かべながらも、その目の奥底には決意の光があり、自分がどんな説得をしても無駄であることを悟ったからだ。
「………………」
何も言えない。ここから先は、琴音には理解出来ない領分だ。
思い返すのは、今年の春、槍也が東京に進学することを決めた時だ。今でこそ認め、応援しているが、琴音は、その当初は反対していた。
というより、わざわざ家を出なくても神奈川にもサッカー強豪校はあり、自宅から通った方が何かと便利なのではないかと提案したのだ。
兄と離れたくないが故の案だったが、今、振り返って見ても、それほど悪い案ではなかった様に思える。
しかし、その時も、今の様に申し訳なさそうな顔をしながらも、決して意見を変えたりはしなかった。
しかも、小難しい理屈を並べ立てた琴音への反論が『なんとなくだけど、そっちの方がいいと思う』だった。
兄さんは、物事のメリット、デメリットの損得計算よりも、自分のフィーリングや勘を優先する人で、それでも、けっして選択を間違えない。
いつだってそうなのだ。少しばかり秀才ではあっても、結局のところ凡人たる自分には、本当の天才である兄の閃きが理解出来ない。
兄さんが、琴音が、おやっ? と首を傾げる選択をして、でも、後に正しかった事が証明されたことが、15年の妹人生で一体、何回あったことか。
今回もきっとそうなのだろう。
はあっ……とため息をついた琴音は、半ば諦めながら問いかけた。
「これから、凄く大変ですよ?」
「うん。分かってる」
「もし、兄さんと佐田君が同じ高校に入っても、佐田君がサッカーを始めるとは限らないじゃないですか?」
「そうだな……その通りなんだけど…………でも、しょうがないんだ」
兄さんは、しょうがない、などと言いながらも、とてもとても嬉しそうな顔を浮かべて言った。
「俺はさ……きっと、あいつに惚れちゃったんだよ。もう、他の事が考えられない……ぐらいにさ」
「…………兄さん、そこまでなんですか」
思わず、佐田君に嫉妬した。いや、流石に今の流れで、男と男の恋愛的あれやこれやを想像した訳ではない。ちゃんと、兄さんが惚れ込んだのはサッカー選手としての佐田君だとわかっている。
けれど、琴音が理論整然と言い募っても東京行きを止めなかった兄さんが、たった一回、佐田君とサッカーをしただけで、あっさりとひるがえしたのだ。
これに嫉妬しない妹が、果たしてこの世にいるのだろうか? いや、どこにもいはしない。いる筈がない。
——ああ、もう! ……もう!
やり場の無い感情に翻弄されていると、
「それで琴音、ちょっとお願いがあるんだけど……」
と、兄さんから言われたので、一旦、感情を横に置いて、兄さんに向き直った。
「なんでしょうか、兄さん?」
「いや、参考書とか貸して欲しいんだ。それと、何を重点的に覚えればいいかも少しだけでいいから教えて欲しい」
申し訳なさそうに手を合わせて拝む兄さんを見て、
——ああ、受験勉強しなきゃですね。
と、納得すると同時に、今更ながら凄い事に気が付いた。
—— 兄さんは東京に行かずに、天秤高校を受験するんですよね。
「…………………………………」
深い沈黙が流れた。今、琴音の脳裏を悪魔的誘惑がぐるぐると回っている。
——いや……。
——いや、流石にそれは……ちょっと。
——でも、天秤高校って悪くもないですよね。家から近いですし、大学への進学率も高いですし、そもそも勉強なんて、やろうと思えば何処でもやれますし……。
深い葛藤に頭を悩ませていると、
「琴音?」
と、兄さんに名前を呼ばれて、会話の最中だった事を思い出した。慌てて言う。
「あっ! 参考書ですよね⁉︎ 喜んでお貸ししますし、勉強範囲もお教えます! ……その他にも、わからない所はなんだって聞いて下さい」
「いや、琴音も受験生だろ? ……そんな迷惑はかけられないよ」
兄さんの、こちらに気を使う言葉に琴音は首を振った。既に気持ちが傾いていた。
自分と兄が一緒に登下校する光景を思い浮かべつつ宣言した。
「大丈夫です。私は全く問題ありません。兄さんが天秤高校に合格する為なら、いくらでも力を貸しますとも、ええ」
明るくて華やかな雰囲気の槍也と、生真面目で大和撫子な琴音。美男美女であれども驚くほどタイプの違う2人は、時に血の繋がっていない義兄妹じゃないかと疑われることもあるのだが、2人は紛れもなく実の兄妹だった。血は争えない。