19 試合の後
アキラは見渡す限り人の海、超満員のスタジアムでボールを蹴っていた。誰かが何かをするたびに、歓声がスタジアムを包み込むように広がっていく。
そんな中、センターラインを超えてドリブルで上がっていくと、巨漢の男が立ち塞がり、激しいボールの奪い合いが始まった。
アキラが、猛牛のような突進をひらりひらりとかわしていくと、観客が歓声を上げた。
そんな観客の後押しに乗ったアキラが、軽やかに相手を抜くと、前線で槍也がディフェンスラインの裏へと走り出す。
それに間髪入れずにパスを放った。
放たれたパスは、相手ディフェンスの隙間を駆け抜けて行き、きっちりと滋賀の元へと到着すると、滋賀はダイレクトでゴールに向かって蹴り出し、得点を決めた。
ドッ! と、先程よりも遥かに大きな歓声が上がった。
観客全員が総立ちで、エールを送っている。
湧いているのは観客だけではない。
「佐田〜〜〜〜!」
槍也が満面の笑みでアキラの元へと駆け寄ってきた。
——あ、やばい。
とっさに右手を突き出して、槍也のハグを止めた。
「どうしたんだ?」
心底不思議そうな顔をする槍也に言い聞かせるように告げた。
「いいか、俺に男に抱きつかれて喜ぶ趣味はねえ!」
そう、はっきりと言うと、
「なら、女の子である私が抱きつくのは構いませんよね?」
いつの間にか側にいた琴音が、アキラに抱きついてきた。
「えっ?」
首に手を回して、アキラに体重を預けてくる琴音。そのままの姿勢でアキラを見上げた。
「かっこよかったですよ、佐田くん」
「ああ……おう……でも今、試合中だし……」
「いいじゃないですか、そんなこと……」
いたずらっぽい口調だった。更に、からかうように、後ろに回した手の平で、アキラの背中をさすってくる。
思いっきり遊ばれている。
普段の印象とはまるで違う琴音に戸惑っていると、琴音は更に爪先を伸ばして、アキラの耳元に唇を寄せ、囁くようにアキラの名前を呼んだ。
「佐田くん……起きて下さい」
そう言われた瞬間、世界が壊れた。
……。
……。
「佐田くん……起きて下さい」
その言葉と共に肩を叩かれたアキラが、はっと目を覚ますとそこは見知らぬ場所だった。しかも、ガタンゴトンと地面が揺れている。
「ん……ん?」
ちょっと状況が掴めず戸惑っていると、再度、肩を叩かれた。首を回してそちらの方を向くと、滋賀琴音が普段と変わらぬ、すまし顔を浮かべていた。
「おはようございます。もうすぐ、駅に着きますよ」
その言葉で、寝ぼけた頭が急速に回り出した。
そうだった。今日は滋賀兄妹に引きつられて、わざわざ静岡までサッカーをしに行ったんだ。
そんで、なんでかテンションが上がった結果、ペース配分も考えずに飛ばしてしまい、最後はヘロヘロになり、帰りの電車に乗った途端に睡魔が襲ってきた。
それから──、
「あー……」
アキラが、ため息なのか何なのかよくわからない声を上げたら、琴音が律儀に問いかけてきた。
「どうかしました?」
「いや、なんか凄え変な夢を見たような気がするんだけど……」
「けど?」
「さっぱり内容が思い出せねえ」
アキラが正直に言うと、琴音はクスッと笑った。
「夢ってそういうものですよね。……さ、そろそろ行きましょう。じゃないと乗り過ごしてしまいますよ」
そう言って琴音は座席から立ち上がった。見れば、槍也も既に立ち上がっていて、頭上の荷物棚からスポーツバッグを下ろしている。
俺も行くか──と、立ち上がろうとしたアキラだが、足がピキッと引きつった。これは間違いなく……、
「明日は、絶対に筋肉痛だな……」
アキラはぼやきながら、再度、足に力を入れた。
まもなく電車は目的地へと到着し、さして混み合うこともなく改札を抜け、駅前へと降り立った。
見知った景色になんとなく安心した。
いや、大変な一日だった。疲れきったアキラは、とっとと帰って布団でごろ寝したい。なので、
「じゃあ、おつかれ」
そう別れの挨拶を交わして駐輪場に自転車を取りに向かった。
したらヤマヒコが、
『ちょ、待った! もっといい感じの別れかたは無いの⁉︎ さっぱりし過ぎだよ!』
なんて訳のわからん事を言い出したが、感動的な別れなら、さっき、そこの兄妹がやっていたからそれでいいだろう。大体、同じ学校に通っているんだから、気合い入れてお別れする必要もないし。
——まあ、もう関わる事も無いだろうけど……。
と、そんな事を考えながらも、足は止めず駐輪場に向かっていたが、
「待った! まだ大事な話をしてないよ!」
と、槍也に腕を掴まれた。どうやら、この兄妹はアキラを引き止めるのが、よっぽど好きらしい。
「なんだよ?」
振り返ったアキラの質問に、槍也は真顔で言った。
「佐田、俺とサッカーをやらないか?」
ピキッ! ——イラッとしたアキラは早口でまくし立てた。
「そう言って、てめえとてめえの妹がしつこいから中学三年、受験を控えた今の時期に、一日潰して静岡でサッカーやってきたんだが、この上、まだサッカーをやれと?」
不機嫌さを隠す気もないアキラに、槍也は慌てて首を振った。
「違う違う! ごめん、今の話じゃないんだ! 受験が終わってからの話だよ!」
「ん? 受験が終わってから?」
首を傾げるアキラに、槍也は頷いた。
「そう。受験が終わって高校に入ったら、佐田はサッカー部に入るべきだと思う。絶対に向いてる。凄い才能持ってる。今日の試合は本当に凄かった」
「……んなこと言われても、後半ヘロヘロで置物だったぞ俺」
「大丈夫。体力は、これから鍛えてつければいい」
「お前……凄いこと要求するな」
今、槍也は簡単に言ってくれたが、仮に本当に体力をつけるなら、毎日毎日、継続したトレーニングが必要不可欠で、ありていに言ってキツイし、他人に言われてやるものでもない。
アキラはきっぱりと自分の意思を伝えた。
「無理。サッカー部にも入んねえし鍛えもしない。……だいたい、お前、東京に行くんだろ? もし俺がサッカーを始めたとしても一緒にサッカーやる機会なんてねえだろ?」
「あるよ! 俺たちが一緒にサッカーやる機会がきっとある!」
「ああ? どこに?」
「日本代表」
その短い言葉は、あまりにもアキラの意表をついていて、つい、ぽかんとした間抜け面を浮かべてしまった。
一方、槍也はここが正念場だとばかりに力を込めて話し始めた。
「さっきも言ったけど、佐田、お前は本当に凄いんだ。視野の広さとパスセンスでお前以上の選手を見たことないよ。そんなお前が本格的にサッカーを始めたら、もっともっと凄くなる。きっと、他の誰よりも特別になる」
佐田アキラが本格的にサッカーを始めて成長した姿。槍也は、その姿を想像しただけで胸が踊る。
「俺もさ、もっと凄くなるよ。もっともっと、この国の誰からも、滋賀槍也こそが日本のエースストライカーだって言われるぐらいの凄い奴に俺はなるよ」
今でも将来有望、日本サッカーの救世主とまで呼ばれているが、それでも満足はしていなかった。
もっと上手くなりたい。もっと凄くなりたい。
槍也は、サッカーに対してはどこまでも貪欲だ。だからこそ、
「でさ、凄いお前と凄い俺が、日本代表で同じチームになればさ、世界のもの凄い奴らとも戦えるよ。きっととんでもない事になる。……だからさ、サッカー、始めてみないか?」
まるで夢物語の様な話を、本気も本気、何一つ偽ることなく告げた。槍也にはアキラが必要なのだ。
そして、その話を聞いたアキラはといえば──ぽかんと口を開けたまましばらくの間、固まっていた。『うはー!』とか『ひょわー』とか、意味不明なはしゃぎ方をしているヤマヒコの声も右から左へ素通りだ。
が、やがて、
「それは……面白そうだな……」
と、ポツリと言った。言ってしまった。
その呟きを聞いた槍也が、「だろっ?」って顔で期待してくるので、慌てて、
「いや、ちょっと待て!」
と牽制したのだが、でも、楽しそうだと思った事自体は本心だ。
そう思ったのはきっと今日の試合の影響だろう。
元々は乗り気じゃなかったし、いざやってみたら大変だったし、走り回ったせいでめちゃくちゃ疲れたが、でもやって良かったと感じた瞬間も確かにあった。
特に、あの前半終了間際の2点目。あれは本当に良かった。それこそ、感動したと言ってもいい。自分たちと、槍也の能力がきっちりと噛み合った時のあの爽快感と高揚感。あれが、もし、世界を舞台に、凄い奴を相手に成功したのなら、その時自分はどんな景色を見ているのか? 何を感じているのか?
槍也の言葉で、アキラは、つい、そんな未来を想像してしまった。
だが……、
「滋賀……やっぱり、俺はサッカーはやらない」
それが、冷静になったアキラの答えだった。
「……っ!」
アキラの答えにショックを受けた槍也が、それはそれは悲しそうな顔をしたが、でもやっぱりアキラには無理だ。
——日本代表が褒めてくれたから、今まで碌にサッカーした事ないけど、明日から日本代表目指すぜ!
そんな風に考えられるほど、アキラの思考回路はぶっ飛んではいない。
一瞬、夢を見たが、ちょっと考えればすぐにわかる。自分が日本代表になるなんてあり得ない……のだが、槍也にとってはアキラがサッカーをやらない事が受け入れられない。
はいそーですか、と引かずに食い下がった。
「佐田は、サッカーが嫌いか?」
アキラは、この質問はちょっとずるいだろうと思いはしたが、珍しくも自分の考えを、ありのままに伝える事にした。まっすぐ自分にぶつかってくる槍也に、思う所があったからだ。
「サッカーは好きだな。見るのは好きだし、やるのも……まあ好きだ。今日だって色々めんどくさくはあったけど、サッカー自体は楽しかった」
「だったら!」
「待て。……確かに楽しかったけど、でもサッカーが好きなことと、サッカー部に入ることは全然別な話だ。第一、俺、もう15だぜ? 本格的にサッカーを始めるには遅すぎるだろ?」
「そんなことはない! 佐田なら全然遅くないよ! やればわかるって!」
「……いや、そうは言われてもな……そもそも、筋トレにせよ何にせよ、サッカーの練習って大変だろ? 3日坊主……とは言わんが、途中でリタイアするかもだぜ? 実際、一回サッカー止めたしな」
まったく……やりもしない内から、失敗する未来を考えるなんて、いささかみっともなく思えるが、でもそれがアキラの本心だった。
辛い練習をやりきる自信はないし、サッカー部に入っても、チームメイトと上手くいかないだろうという気もしてる。特に後者に関してはサッカーというチームスポーツでは致命的だ。
だが槍也は、
「大丈夫だよ!」
と、自信満々に言ってのけた。
「俺だって、練習をやりたくないって思う時もサッカーが辛いって思う時もあるよ。でも、そんな気持ちに勝つ方法が、ちゃんとあるよ! ——そんな時は、仲間に頼って、一緒に頑張れば簡単に乗り越えられるんだ」
そのシンプルすぎる解決策は、スポーツマンらしくはあるが、アキラにとっては何の参考にもならなかった。
「へー、そいつは凄い。でも、俺には無理だわ。それじゃな」
再び、別れのあいさつを言って帰ろうとしたのだが、再び腕を掴まれて引き止められる。
「いや、ほんとだって!」
「わかった、わかった。お前は凄い。応援してやるから頑張ってくれ」
「いや、佐田も頑張ろうぜ⁉︎」
それからも、結構激しい言い争いが続いたのだが、どこまで行ってもアキラと槍也の意見は平行線だったので、アキラはアプローチの仕方を変えた。
「お前は俺を買い被りすぎだと思うんだが……まあ、百歩譲って、俺が凄いサッカー選手になったとして、やっぱり代表は無理だ」
というアキラの言葉を槍也は即座に否定しようとしたが、アキラは身振りで、「まあ、聞け」と促した。
槍也は大人しく耳を傾けたので、話を続けた。
「滋賀の言う日本代表って、U-18とか19とか10代中心の奴だよな? そんなのに選ばれるには、たぶん全国大会とかで活躍して、お偉いさんにアピールする必要があるよな?」
アキラの問いかけに、槍也はコクリと頷いた。代表の正確な選考基準など知る由もないが、概ね間違ってはいないと思う。少なくとも全国大会で活躍すれば、多くの注目を集めることは間違いない。
「でも、俺が受験する天秤高校は、特にスポーツに力を入れている訳でもない、ごく普通の公立高校だぞ? そんな高校のサッカー部で、サッカーの上手い奴が集まってガチで鍛える強豪校に勝てるか? ……きっと全国で活躍どころか、地区大会を勝ち抜くのも無理だ」
サッカーはチームスポーツであり、もしアキラがとんでもなくサッカーが上手くなったとしても、11分の1でしかない。
「おまけに神奈川は結構な激戦区らしいじゃん? なら、なおさら無理だ。因みに俺は、どんなに上手くなっても2、3回戦負けがせいぜいって気がしてるけど……」
そこら辺どうなんだ? 滋賀の方が詳しいだろ? とアキラから問われて、これまで話し合いで初めて槍也は言葉に詰まった。
「それは……まあ……」
歯切れの悪いセリフは、アキラの言葉を遠回しに肯定していた。
最終的には東京の学校へと進学することに決めたとはいえ、その前は、地元、神奈川の強豪校にも、幾つか見学に行ったことがあり、その実力は知っている。
仮に佐田が槍也の望む実力をつけたとしても、高い水準で質の揃った強豪校に勝つ確率は低いだろう。たった1人のプレイヤーで試合がひっくり返るほど、神奈川のレベルは低くない。
「な? 無理だろ? 三回戦負けの公立高校を見に来るお偉いさんなんていないって……。かといって、何の実績もない俺が今から強豪校に入れる訳もねーし……やっぱり、もう遅すぎるんだって。ウサギと亀は、亀が勝つもんだ」
だから、変な夢を見ないで諦めろ。──暗にそう示唆するアキラだったが、槍也は諦められなかった。
苦しまぎれの様に案を絞り出すが、
「……一般入試で強豪校に入ったらどうかな?」
「ねーよ! 俺はお前と違ってサッカーを基準で進学先を決める訳じゃない」
「なら、この際、代表は置いといて、まずサッカー部に入るだけでもいいんじゃないか? きっと楽しいよ?」
「それで、地区大会には負けたけど、俺たち頑張ったよなって、チームメイトと笑って慰め合うのか? そんなのゴメンだ」
「なら ……それなら…………」
そこで、槍也は口を閉ざしてうなだれた。もうアキラを説得する手段が思いつかない。
うなだれた槍也に、それまで一歩離れた距離で二人のやりとりを見ていた琴音が心配そうに駆け寄る。
アキラは、そんな槍也の様子に、ほんの少しだけ胸が痛んだが表情には出さなかった。どだい住む世界が違うのだ。
「それじゃあな……」
3度目の別れの挨拶に返事は返って来なかったが、アキラは構わずに歩き出した。
……。
……。