17 とある日の野良試合6
滋賀琴音は滋賀槍也の妹であると同時に熱烈なファンでもある。だから、兄の試合は、いつでも、どこでも、可能な限り応援するのが当たり前だ。
そんな琴音をして、今の槍也は見たことのない顔をしていた。
「兄さんがあんな笑顔を浮かべるなんて……はじめて見ました」
琴音にはわかる。普段の兄さんの笑顔は、もっと包容力のある、まるで春の日差しのようなおおらかな笑顔を浮かべている。例えるなら、ギリシャ神話の太陽神アポロンこそが兄さんにはふさわしい。
それが、今はどうだ? 天真爛漫にして、サッカーを心底楽しんでいる事が伝わってくる笑顔は、まるで北欧神話のトリックスター、ロキを彷彿させる様な純真無垢な笑顔だ。
つまり、何が言いたいかと言うと、普段とは違った魅力を振りまく兄さんが素敵過ぎる。神様と肩を並べる程に素敵過ぎる。
——兄さんが素敵過ぎて、心臓が止まってしまいそうです。
——もし、そうなったら、私の死因は、兄さんが素敵過ぎるから……という事になるのでしょうか?
いささか的外れな事を考えていた琴音だが、ふと、
「やっぱり、佐田くんは凄い人なのでしょうか?」
と、兄がそうなった原因に目を向けて、──ドキッとした。
「……笑っています」
びっくりした。
知り合って間もないとはいえ、無理なお願いを押し付けたとはいえ、これまで、愛想笑いの一つすら見せてくれなかった佐田くんが笑っているのだ。
兄さんの様な満面の笑みではないし、疲労もありありと浮かんでいる。それでも間違いなく笑っている。
必死にボールを追いかけている姿は、凄く必死で……楽しそうだ。
思わず琴音は、その形のいい眉をひそめた。
「なんですか? ずーっと、好きじゃないとか、やりたくないとか、後ろ向きなことばっかり言っていたのに……佐田くん。やっぱりサッカー、好きなんじゃないですか?」
なんというか、ちょっと騙された気分だ。後で一言、言ってあげよう。でも、きっと、無愛想な顔で言い返してくるだろうな、と、予想してしまい、苦笑した。
「もっと笑っていた方が素敵ですのに、損な人ですね」
その、損な人にボールが回ろうとしていた。
……。
……。
アキラはトップ下の位置から下がってボールを貰ったが、マークを外せなかったので、後ろにボールを戻した。
再びパスコースを維持する為に元の位置に戻る。
「はぁ……はっ……!」
きつい。もう脇腹が痛いなんて所をとっくに通り越している。マジできっつい。内臓がひっくり返りそうだ。
『大丈夫、アキラ? かなりバテてきてるし、ちょっとペースダウンした方が良くない?』
見かねたヤマヒコが、気遣う様に言ってきたが、アキラは虚勢を張った。
「いい。まだ同点なんだ。だから、あと一点、取る」
息も絶え絶えだったが、はっきりと断言すると、ヤマヒコが感心した様に言った。
『おおう! 珍しく熱血じゃん⁉︎ ……じゃ、もう少しでハーフタイムだから、それまで頑張ろっか!』
「そっ…………」
ヤマヒコから、珍しく熱血とか言われて、咄嗟に、そんなんじゃねーよ、と返したくなったが、確かに今のアキラは熱くなっている。
——なんでだろうな?
思わず自問した。
元々、乗り気じゃなかった筈だ。
やる以上は、アキラなりに真面目にやる気ではあったが、あくまでアキラなりの真面目だ。
千葉に一泡ふかせるのも、さっきのアシストで充分だ。
なのに、もういいやって気持ちにちっともならない。さっきの滋賀のシュートが頭から離れない。もう一回、やってやろうって、そんな事ばっかり思ってる。
——なんでだろう?
もう一度、自問したが、その理由がわからなかった。
「まあ、どうでもいいか」
別にアキラは、ちゃんとした理由がなければ動かないタイプの人間ではない。なんとなくでも、やりたい時はやるし、やりたくない時はやらない。そんでもって、今は、もう一点取りたいから取りゃいいんだ。
そんな風に思考はすっきりしたが、体の方はそうもいかなかった。
『アキラ、上がれ! 横から来てる!』
ヤマヒコの指示に応えようとするも出足が遅れた。千葉のマークを外せない。
さっきから、何げに上手いウイングは、アキラへのパスを断念して、一度ボールを下げた。
アキラも仕切り直す為にポジションを下げる。
「あー、くそ……」
さっきからセンターラインを挟んで、行ったり来たりしているが、どうにも上手くいっていない。体がついて来なくなってる。
ポジショニングとパスだけでボールを回すサッカーは、運動量が激し過ぎて、運動部でもないアキラには荷が重かった。前半だけでガス欠だ。
——休憩を挟んだら元に戻るか? んな訳ねーよな……。
むしろ、電池が切れたオモチャの様にぷっつり行きそうだ。
なら、まだギリギリ動ける内に、あと一点取っときたい。
そう思って、再び、ポジションを下げてボールを貰いに行くが、
『無理。前には出せない。ボランチに戻そう』
やっぱり千葉を引き離せなかった。仕方なしにリターンパスでボールを取られることだけは防ごうとしたが、ふと、唐突に、
──昔はサッカークラブに入ってたんだろう? 佐田のサッカーを始めるきっかけは何だったのかなって?
試合前に滋賀がアキラに言った言葉が頭をよぎった。
それだけじゃない。忘れていた、アキラがサッカーを始めた理由までもが、走馬灯のようにふっと湧き上がってきた。
——ああ、そうだ。凄い奴がいたんだ。
アキラにとって、さっきの滋賀と同等か、もしかするとそれ以上に凄えって思える奴が1人だけいた。
そいつを見たのは子供の頃、家族旅行で訪れた、とある旅館のロビーに備えつけられたテレビの中だった。
そいつは日本人じゃなかった。というより、そもそも日本の試合でもなかった。どっかヨーロッパ辺りの、クラブチームの頂点を決める試合、とかなんとか解説が言っていた事は覚えているが、サッカーに詳しくないアキラには、それが何処のどういった試合だったのかは、さっぱり分からなかった。もっと言えば興味もなかった。親がチェックアウトやらなんやら、色々やってる間の暇つぶしに過ぎなかった。
そんな、ただの暇つぶしが、そいつがボールを持った瞬間、暇つぶしではなくなった。
そいつは、あっという間にマークを置き去りにして、ミドルシュートを放って観客を沸かせた。観客だけでなくアキラも同様だった。
——凄え! なんだ、こいつ⁉︎
たった1プレーでアキラを釘付けにしたそいつは、それからも、それはそれは凄かった。
フォワードへのスルーパスでゴールチャンスを演出したかと思えば、大胆なサイドチェンジで相手チームを翻弄した。
グイグイと相手のパスを奪い取ったかと思えば、即座のカウンターが流れる様に決まった。
敵味方合わせて22人もの人間が入り混じっているというのに、そいつの上にだけスポットライトが当たってるんじゃないか? って思う程にそいつは特別で、
——凄え! 凄え! 次は、一体、何をするんだ⁉︎
と、アキラは無我夢中でそいつに見入ってしまった。チェックアウトが終えた両親が呼んでも、未練たらしくテレビの前から動かず、ずいぶんと愚図ったぐらいだ。
中でも、2点目のアシストを決めた時、アキラは喝采を上げた。
ちょうど、今みたいに前半終了間近で、今のアキラの様な状況だった。後ろから激しく寄せられて、一度、ボールを戻すしかないって状況でそいつは——、
『え? アキラ?』
急遽、バックパスを止めたアキラにヤマヒコが戸惑ったが構わなかった。
足もとに来たボールを、利き足で、足払いをかけるかの様に払い上げる事で浮かせた。更に今度は右脚を軸に体を回転させ、後ろ回し蹴りの要領で、浮いたボールを左のカカトで蹴り上げて、千葉の頭上を越えさせた。同時に、アキラもまた、体の回転を殺さずに、スピンしながら千葉の脇を抜ける。
通り抜ける瞬間、ヤマヒコと違い常人並の聴覚しか持ち得ないアキラの耳でも、千葉が息を飲むのがはっきりと聞こえた。
『え? ええっ⁉︎ アキラ、何やったの⁉︎』
ヤマヒコが驚きの声を上げたが、むしろ、アキラの方が、より驚いていた。
——ははっ! マジかよ⁉︎ 成功しやがった!
この変則ヒールリフトは、ごく一般なヒールリフトよりも難易度が低いが、それでも、最初の跳ね上げの勢いが強すぎても弱すぎても、次の回転にタイミングが合わなくて上手く行かないし、カカトでの跳ね上げに至っては、スカッと空振りや、明後日の方向へと飛んでいく事も多かった。当時の成功率は100に2つか3つ、しかも相手がいない時に限った話だった。
——そりゃ、コーチからもチームメイトからも止めろって言われるよ。
今ならわかる。そもそも、ヒールリフトは難易度が高いのに成功率が悪い。意表をつかなきゃ、まず成功しない。
そんな効率の悪い技にこだわって、そればっかやってるアホがいれば、まず基本から始めろ、そう指導されるのは、ごく真っ当な話だ。
ましてや、そんな有り難い助言なのに、一切の聞く耳がなく、ひたすらに変則ヒールリフトだけを繰り返していた当時のアキラが、周りと上手くいかなかったのは自業自得としか言い様がない。
——そりゃ、百パー俺が悪いさ。
——でも……。
ただ、ひたすらにそいつの真似に没頭してしまう位に、そいつは最高にかっこよかった。
名前も知らない、海の向こうの背番号7番は、間違いなく当時のアキラのヒーローだった。
もう5年も前の話で、ずっと記憶の隅でホコリを被っていて、普段、思い出す事もなかったのに、一度、思い出せば、当時の気持ちが鮮明に蘇ってきた。
——成功させたい。
浮かせたボールの落下地点に走り込みながら、そう、強く思った。
この場合の成功とは、ただ単に技を成功させる、という意味じゃない。
そうじゃなく、点を入れたい。
サッカーは相手より点を多く取った方が勝つゲームで、色んなフェイントやパスも、最終的にはゴールを決める為のものだ。
だから、
『アキラ! 滋賀君が動いてる! チャンスだよ!』
そう告げられた時、ぐっと拳を握り締めた。
ヤマヒコ、お前、偉い。そんでもって——、
「どこだ⁉︎ どこに蹴りゃいい?」
『真っ直ぐ正面! ゴールに向かって、ディフェンスの間をぶった斬れ!』
その言葉に、チラッとボールから目を離して正面を見ると、確かにキーパーの手前にスペースが空いていて、そこに向かって滋賀が斜めに走っていた。
「はっ、はははは!」
つい、笑い声が漏れた。ホントにあいつはマジで凄え。
その凄え奴に向けて、落ちてきたボールをダイレクトで蹴り出した……のだが高く浮いた。
「げっ!」
蹴った瞬間、ミスキックだと悟った。
ボールが浮いていたからか、疲労が溜まっていたから、そもそもの技量が足りてないのか、何にせよ勢いが強すぎる。
このままだと、放物線を描くボールは、ワンバウンドかツーバウンドしてから、キーパーの手の内に収まって終わる。
——畜生がっ!
後悔の嵐が、一瞬で体中を駆け巡ったが、既にボールを蹴り出した以上はどうしようもない。
もはやアキラに出来る事は何もない。
だから、あとは、
「滋賀〜〜〜〜っ!!!」
と、日本が誇るストライカーに託すしかなかった。
……。
……。
——きっついな……。
それが佐田からラストパスを託された槍也が真っ先に抱いた感想だった。
自分のスピードはちゃんと自分で把握している、どう考えても追いつくのは無理がある。
けれど、そんな冷静な判断とは裏腹に、体の方は、限界ギリギリまで力を振り絞っている。
——でも、絶対になんとかしないと!
そう思うのは、全力でプレーしてくれた佐田に、同じく全力で応えたいからだ。
まさか、1回転半ヒールトリックが出てくるとは夢にも思わなかった。槍也が、佐田をみんなに説明した時に、ロアッソ=バジルに例えたのは間違っていなかった訳だ。自分の勘は常に正しい。
佐田はやっぱり凄い。
何が凄いって、あの大技の最中で、空いたスペースや槍也の飛び込みを、ちゃんと把握しているのが一番凄い。
そして、そんな佐田の本気にはゴールで応えたい。それが槍也のストライカーとしての矜持だ。これを外したらストライカーを名乗れないとすら思う。
「はっ!」
フィールドの真ん中からゴールに向けて放たれたボールに、マークを振り切った滋賀は斜めに飛びついた。
一切の躊躇もなく、後先も考えない、捨て身のジャンプ。
思いっきり伸ばした足は、槍也から逃げていこうとするボールに、辛うじて爪先だけが当たった。
——良し!
刹那の瞬間、槍也は笑った。槍也なら爪先だけでも充分だ。そのまま、全身の力を爪先に集約して、ボールを真上に跳ね上げた。
「うわっ!」
無茶な飛び込みの上にアクロバティックな動きを重ねた事で、体のバランスを崩し、うつ伏せの形で地面に落下した。その端整な顔やジャージが土にまみれたが、気にも止めずに上体を起こして、
「ぺっ!」
と、口の中に入った土を吐き出しながらボールを探す。
振り切ったマークが追いついてくる様子や、ボールをクリアしようと前に出てくるキーパーの姿も目に入って、もたもたしていられない。
——あった!
ふんわりと落下してくるボールは、存外、近くに落ちてくる。
今、槍也が一番ボールに近い。そう悟った瞬間、既に体が動いていた。
体を捻りながら、寝転んだ状態から跳ね起きて、再びボールに飛びついた。
螺旋を描く様な、左のジャンピングボレー。確かな手ごたえを感じた。
蹴り出されたボールは、前に出てきたキーパーの横を抜けてゴールネットに突き刺さった。
再び、歓声が上がった。
「ナイス、ゴーーールーーーッ!」
「槍也! お前、神ってる!もう、これがワールドクラスか! って感じだよ!」
今回のゴールは、頭が真っ白になっていた前回と違って、みんなの賞賛も比較的冷静に受け止められた。
そして、
「いやいや、今回はラストパスも凄かっただろ?」
という言葉に反応する様に、ラストパスをくれた佐田を探した。
すぐに見つかった。
佐田はラストパスをくれた場所から動いていなかった。何やら呆然とした感じでコチラを見ている。まるで、さっきの槍也の様だ。
そんな佐田と目が合った瞬間、途方も無い感情が湧き上がってきた。
喜び。賞賛。感心。達成感。期待。色々と混じり合いすぎて、どんな感情なのか上手く表現出来ないが、でもとにかく凄い。
その感情に押されるままに、ボケっと立ち尽くした佐田に駆け寄ると、思いっきり抱き締めた。
そして万感を込めて言う。
「佐田! お前は本当に凄いよ! まじで天才だよ!」
確信があった。きっとこいつはサッカーをやる為に生まれてきた、サッカーの申し子だ。
そのサッカーの申し子は、槍也に抱き締められた事で我に返って叫んだ。
「おい、こら、離せ! テメエ、ホモかよ⁉︎ 抱きつくな! はーなーせー!」
サッカーでは得点を決めた時に抱き合う、いわゆるハグ行為は、珍しくもなんともないのだが、佐田には馴染みがないのだろう。
サッカーへの経験の浅さを感じる。
だが、それは槍也を失望させない。
むしろ、研磨される前のダイヤモンドの原石を想像して槍也は笑った。
パッと手を離して、改めて右手を挙げた。
「佐田、ナイスパス! あと、ヒールトリックも凄かったよ!」
「…………おぅ」
佐田は、また抱き付かれるんじゃないかと警戒しながらも、槍也に合わせて右手を挙げてくれた。
パン! ──乾いた音がフィールドに響いた。




