16 とある日の野良試合5
槍也はアキラのプレーを見て感心して期待しているが、実のところアキラの方は、かなり必死だった。端的に言えば、さっきから脇腹が痛い。
『アキラ、後ろ! バックパス! そんでもってサイド際へゴー!』
「……っ!」
ヤマヒコの指示に従って左サイドに走ろうとするが、その出足が明らかに重い。
いい場所を取る為に、ダッシュとストップを繰り返したおかげで、足の筋肉が悲鳴を上げている。
かといって、現状、寄せられて一対一になったら勝ち目がないので足を止める訳にも行かない。
『ほらほら、ペース落ちてるよ! ダッシュダッシュ! 頑張れアキラ!』
「くっ!」
ヤマヒコの能天気な指示に殺意が湧く。
——お前、ふざけろボケが、代われ!
もはや、言葉にすることも、面倒なテレパシーで伝えることも出来ない。そんな余裕は一切ない。
何故、ヤマヒコとは聴覚しか共有していないのか?
この脇腹の痛さをテメえも味わえ! ……という、仮に叶ったとしても、アキラの苦痛が軽減される訳でもない不毛な考えがふつふつと湧きあがる。
いっそ、走るのを止めて楽になりたいが、その前に自分がボールを取られたせいで失った1点だけは取り返しておきたい。
汗を拭いながらも、いい位置にたどり着いたのでボールを受け取った。
敵のディフェンスが前を塞ぎながら、アキラに寄せてくる。
因みに相手は千葉じゃなかった。これまでの混戦でマンツーマンディフェンスは崩れている。 ただ、千葉だろうが他の誰だろうが、アキラのボールタッチでドリブル突破は無理だ。
だから、これまで通り、ヤマヒコの指示に従ってライン際ギリギリのところにいるウイングにパスを渡して、前へと駆け上がった。意表を突かれたのか、ボールの行方を追っていたのか、アキラのマークについていた奴の反応が遅れてフリーになった。
「戻せ! くれ!」
アキラの要求にウイングが即座に答えた。ダイレクトでアキラの走るスピードに合わせたパスが返ってきた。しかも、サイド際を駆け上がるような素振りを見せておいて、敵のマークをサイドに引きつけておいてのヒールパスだ。このウイング、さっきから何げに上手い。
おかげで、俗に言われる壁パスを成功させ、ハーフラインを越えた時には完全にフリーだった。
このまま、駆け上が…… ——、
『右45度! 強く抜け!』
唐突なヤマヒコの指示に反射で応えた。
言われた通り、中央のディフェンスの間に向けて強くボールを蹴りだす。
しかし、
——あ? 誰もいねえ?
相手プレイヤーの間を抜け、グラウンドを斜めに転がるボールの先には、パスを受け取る人間がいなかった。
——うわっ⁉︎ ぜってえ、このままゴールラインを割る!
そう思ったアキラがヤマヒコに、どこに蹴らしてんだよ? と、文句をつけようとした瞬間、敵プレイヤーの影から滋賀が飛び出してきた。
「は? え?」
つい、そんな声が出た。
駆け上がるスピードが尋常じゃない上に、纏う空気が普通じゃない。遠目から見てもはっきりとわかった。荒々しいまでの、それこそ、殺気じみた気配が、アキラの所までビリビリと伝わってきて、心がざわつく。
ふっと、いつだったかテレビで見たドキュメンタリーの映像が思い浮かんで、今の滋賀と重なる。
アフリカのサバンナを駆け、シマウマを狩るライオンの姿。
残酷なまでの弱肉強食と、生への渇望。
今の滋賀はまさしくそれだ。ただひたすらにゴールだけを狙っている。
『滋賀くん、いっけえええ!』
ヤマヒコが聞こえる筈のない声援を送った。
そして、丁度、ボールがペナルティエリア内を抜けようかという所で、滋賀はどう考えても追いつける筈のないボールに追いついた。
そのままトップスピードを維持したままの状態で、右足を振り抜く。思い切りの良いシュート、それなのに安定感もある、矛盾した要素が両立している。
ザシュ! っと、キーパーが一歩も動けぬままに、ボールがゴールに突き刺さった。
滋賀のゴールを決めた瞬間、グラウンドが静まり返った。
誰かが息を飲み込む音すら妙にはっきり聞こえる程の沈黙。
そして次の瞬間——わあああっ! と、味方が沸いた。
「おおおおおおっ⁉︎ マジか⁉︎」
「あんな無茶なパス、普通、取れねえだろう⁉︎」
「槍也! お前、人間じゃねえよ!」
思い思いの褒め言葉を口にしながら、滋賀の元へと駆け寄っていく。彼らのハイタッチに、滋賀も控え目ながら応じている。
ちなみに、アキラはそういうのに慣れてないので近寄らずに眺めてるだけだったが、
「あれが滋賀槍也か……」
ポツリと呟いた。まだ、胸の内がざわついていた。
実の所、アキラはこれまで滋賀の実力を見る機会がなかった。
サッカー部の練習なんて見ないし、テレビだって、わざわざガキの(そういうアキラも同世代だが……)試合を見るくらいならプロの試合を見る派だった。球技大会でも、滋賀はディフェンスに回っていた。
だから、今、初めて滋賀の実力をこの目で見たのだが、ストライカーとしての滋賀は、アキラが滋賀に抱いていた、好青年だがちょっと鬱陶しい、というイメージとは掛け離れていた。凄いとしか言い様がない。
一体、何が凄かったのかは素人のアキラには上手く説明出来ない。でも、そんな素人にすら、今の滋賀の凄味が十全に伝わって来た。
今の滋賀なら、日本代表にして、なお特別視されるのも納得できる。
「バケモンだな……」
『だね。最初の一歩で完全にマークを外したしね……それはそうと、アキラ』
「ん?」
『いいパスだったよ! ナイス、アシスト!』
「ああ…………お前も、いい指示だったな」
『おう! アキラが俺を褒めた⁉︎ ……大丈夫? 明日は雪じゃない? 帰り道、事故に気をつけた方がいいよ!』
「なんでだよ⁉︎」
くるっと向きを変えて、たわいもない話をしながら自軍の陣地に戻っていくアキラとヤマヒコ。
そんな二人は、なんだかんだでサッカー経験の浅い素人だった。
だから二人は、自分たちが一体、何をしたのか、──どれだけの事をしてしまったのかに気付いていなかった。
……。
……。
ゴールを決めた瞬間、頭が真っ白になった槍也が我に返ったのは、試合が再開されてしばらくしてからの事だった。
いや、正確にはまだ完全に我に返った訳ではない。感情がどこかへ置き去りにされている。
だからなのか、ゴールから今までの記憶が一切無いことも、ああ、呆けていたんだな……と、冷静に考える事が出来た。
そして、呆けた原因に思いを馳せた。
自分の飛び込みと佐田のラストパス。
——いるんだ……。
あの瞬間、槍也は本気で走った。何の我慢をすることもなく、何一つ抑える事なく、本能が命ずるままに駆け出した。
——俺の本気に応えてくれる奴が……いるんだ。
正直、槍也の予想以上だった。あの瞬間、槍也と佐田の間に2人相手チームの選手が壁の様に存在していてアイコンタクトすら出来なかった。それでも槍也は飛び出したし、パスは遅れなかった。佐田が槍也の飛び込みをどうやって察知したのか、槍也には理解が及ばない。
だが、今のパスが偶々でもまぐれでもない事は、はっきりとわかる。
——凄い……な。
今のパスを、佐田の隔絶した才能を一体どう例えればいいのか? 自問した槍也だったが直ぐに答えが思い浮かんだ。
世界だ。
例えば、ここが、琴音を含めて数人のギャラリーしか居ない様な田舎のグラウンドではなく、観客席がびっしり埋まったスタジアムだったとして——。
例えば、俺やあいつが身に着ているのが、こんな安っぽいオレンジのビブスではなく、日本を代表する、あの青いユニフォームだったとして——。
例えば、相手が、ドイツやイタリア、またはブラジルなど世界の強者だったとしても、きっと俺とあいつなら、その壁をぶち抜ける。
まだ、足りない所が山ほどあることも承知している。
でも、それすら伸びしろにしか見えない。
「ははっ……凄えなアイツ」
と、佐田に視線を向けた瞬間、麻痺していた感情が一気に戻ってきた。
「〜〜〜〜〜〜っ!」
今度は逆に何も考えられない位に胸が一杯になった。それぐらい嬉しかった。
自分の感情を自分の中で抑えきれず、それは笑い声となり、槍也の外へと漏れ出した。
「あはっ! あはははっ! ふはははははっ!」
突然、小さく笑い出した槍也に、マークについている河田が、何ごとだ? という目で見てくるが、どうにも止まらない。
自分が全力を出せたことが、自分と同じ場所に立ってくれる奴がいる事が、こんなにも嬉しい。
膝に力を入れて、崩れ落ちない様に踏ん張りながら、笑いの衝動が過ぎ去るのを待ったが、収まるのにたっぷり30秒近くかかった。
「あ〜〜、笑ったな……」
ようやく平常に戻った槍也に、河田が声をかけて来た。
「おい、大丈夫か?」
「うん。もう大丈夫。唐突にごめん」
「一体、どうしたんだ?」
「ん〜〜、ちょっと世界が見えてさ」
「はあ⁉︎」
河田が、訳わかんねーよ、という目で見てくるが説明はしなかった。きっとまだ、佐田がどれだけ凄いかを説明しても理解してくれないだろう。
今は自分だけが知っていればいい、そう思った。
もしかしたら、それは、槍也らしからぬ、一種の独占欲だったのかもしれない。もらったお菓子を、みんなで分けて食べずに、独り占めするかの様な子供じみた真似。
「佐田、もう一回、パスをくれよ」
そう呟いた槍也の顔は、まるで遊園地に入るのを今か今かと待ちわびる子供のそれだった。